投稿

5月, 2026の投稿を表示しています

大地さんの演技をまた見たい

イメージ
  世田谷区立大蔵運動公園の夜明け ここら辺りを歩いていると、俳優大地康雄さんとしばしばすれ違う。おととい昨日と『警視庁黒豆コンビ』がCSで放送されて、『鬼貫八郎』シリーズですっかり彼のファンになっていた私はまた興奮して見たのだった。『鬼貫』シリーズが1993年から2005年までの13年間18作まで行ったのと違い『黒豆』は2005年から2007年まで3年間全4回しかなく、がっくり。しかし、大地さんの演技が完全に完成されていて、そのうまさに本当に舌を巻いた。 今NHKBSでは『太平記』が4Kリマスター版で再放送されているが、この名作にも若き大地さんが一色右馬介役でずっと出ておられる。 『太平記』1991年の大河ドラマで、当時私は本当にハマった。なぜなら足利尊氏や新田義貞、そして北条高時執権の鎌倉幕府の間の戦いの一部が私が愛してやまない東京・多摩で繰り広げられたからで、特に「矢野口の戦い」は多摩川での戦闘であって、興味津々となった。 『太平記』についてはもっと書きたいが、今回は大地さんがとにかくまだお元気で(74歳という)、その境地での演技がまた見られますようにと祈りつつ、擱筆。

Kよ、俺らは東経139度36〜40分辺りばっかウロウロしてるぞ

イメージ
もう十数年前に撮った我が故郷、南を望む写真。立葵が咲いている。ほぼ今の季節。 故郷の町役場(福島県耶麻郡西会津町)は東経139° 38′ 56.29″ に位置する。この東経数値を維持して真南へ、つまり北緯を下げていくと、何と世田谷区に到達する。ピッタリ真南になるのは、新町3丁目(東急田園都市線桜新町駅周辺、『サザエさん』の長谷川町子さんの街)となる。また、私が世田谷区の星として称揚する伊藤匠二冠の居住地弦巻は新町の真北に当たり、つまり私の故郷のピタリ真南と言ってよい。 さて、そこからまた北上すると西武新宿線新井薬師駅付近(139° 40′ 18.8″)となり、K君が住んでいる辺りとなる。私が今住むところは小田急線祖師ヶ谷大蔵駅の近隣で、駅の東経は139° 36′ 33.4″である。つまり東経139度で36分から41分以内に故郷、同経度で世田谷区新町3丁目、伊藤二冠居住の世田谷区弦巻、 私の現在の居住地、 K君居住の中野区上高田が集中するのだ。 さらに何とびっくりするのは、私が狛江に越す前に暮らした杉並区高円寺南は139度38分まで故郷の東経と一致する!また、私が上京して最初に暮らした練馬区桜台の駅(西武池袋線)は139° 39′ 44.7″だ。またさらに、そのときK君は東上線上板橋駅付近に下宿したのだが、そこは139° 40′ 35.1″なのだ!そしてK君が上高田に越す前にそれなり長く居住した埼玉県久喜市栗橋は、駅の位置で言うと139° 41′ 39.21″ なのだ。 なあ、K君、どう思う? * 追記: 経度1度は北緯35度だとおよそ 91,288 メートル、1分は 1,520mくらいだという。1秒は約25mだとのこと。 さらに追記: 私が最も長く暮らした東京都狛江市は駅(小田急線)の座標で言うと、 東経 139度 34分 38.5秒 である。ニャア。

世田谷にある因縁の一角で

イメージ
夜明け、世田谷区梅ヶ丘の世田谷中学校近くのLAWSONでうまいcoffeeをいただきつつ撮った一枚。それがどうした?野暮な電線がないここの朝の佇まいが好きなのだ。空が開けているでしょう?そして何より雲が秋を感じさせるようなありさまでうれしかった。去年の夏、よくここで一服したなあ。1年ぶりではないにしろ、朝でも少し動けば暑くなるこの季節、自転車散歩に切り替えたのは去年通りで、まあほぼ1年ぶりとしておこう。 この道の反対側には国士舘高校・中学の立派な建物がある。国士舘は松陰神社(土地は長州藩に属した)に隣接するかのようなかたちで創設された学校・大学だ。吉田松陰こそ「國士」だと言うのだろう。そしてここから少し西進すると、その松陰さんを処刑したと言っていい大老・井伊直弼が埋葬されている豪徳寺が在る。なんという因果か。 誰が本当に国を、日本を、その国民を愛しているのか。本当の「国士」は誰なのか。幕末なら、討幕派だったのか、佐幕派だったのか。まあ、そういう単純な二項対立ではなかったが、大雑把に言ってだ。 今なら? * 今朝未明に出発したpottering、最初は昨日王位戦挑戦者決定戦で羽生永世七冠を破った伊藤匠二冠の住む世田谷区弦巻へ向かった。藤井王位と七番勝負が七月四日から始まる。楽しみでしかたがないが、まずは明後日の叡王戦第5局で勝ち、二冠を維持してほしい。そんな気持ちで弦巻の街中を走った。 * さあ、Review Test作りだ。

MooさんとNさんからの玉葱、シジュウカラ

イメージ
今朝の夜明けは、実に清々しかった。これ以上気温が上がってほしくないなあ。それじゃあ、夏の虫たち、植物たちがやっていけないか。それでも、「異常な」という形容動詞が付かない暑さであってほしいなあ。 * 今日昼前に安曇野池田町のMooさんから採れたての野菜が届いた。ありがたい!きときとの・・・あ、これは獲れたての魚に使う越中特有の連体詞だ・・・みずみずしい野菜たち!Mooさんが収穫してみて、とても良い出来であることに満足しつつ、それらをできるだけ早く新鮮なままに東京の私に送ってやろうという真心。感謝しかない。 長野県あづみのの日の光と土と雨と、Mooさんと奥様の愛でできた野菜だ。頭を垂れつつ、恭しく、これからいただこう! * しかしまあ、偶然というのはおもしろいね。 今朝potteringから帰って家の前の道路に落ちた柚子の葉っぱを掃除していたら、向かいのNさんがやってきて、「失敗しちゃったんだけど」と照れた表情でご自宅の菜園で採れた玉葱を5個くださった。「どこが失敗なんですか?」「いや、ちっちゃくってね。」 今年に入ってからすでにサヤインゲン、ニラ、ユスラウメといただいてきた。 そのときはもうMooさんからお野菜が届くのを知っていたので、きっと玉葱がその中に含まれているだろうから、ではシチューかなんかで安曇野のタマネギと世田谷・砧のタマネギを一緒に煮ていただこうかと思った。 掃除を再開し、YouTubeで「鳥のことばが分かる」東大准教授で動物言語学者の鈴木俊貴さんの話を聴いているとシジュウカラの話になった。するとどうだ、私の目の前にそのシジュウカラが1羽降り立った。 シジュウカラは確かに世田谷でも多く飛ぶ鳥だけれど、我が家に来るのは圧倒的にムクドリ、ヒヨドリ、キジバトが多いので、かなり珍しいことなのだ。しかも、木の枝や葉に隠れずに、人間が2メートルほどの距離にいる道路に降り立つのは相当に珍事ではないか。 ユングならなんと言うだろうか。

私は拙速動物

イメージ
昨日夕暮れ前、砧3丁目NHK技研の遊歩道から撮った月。 ここは家から最も近い、広い空がある場所。 * 昆虫コンテンツYouTuberで21歳俳優の片田陽依(ひより)さんは驚くべき女性だ。まったく苦手な虫は存在しないと言う。昆虫ばかりか節足動物全般、つまりムカデ=多足類や、クモ=鋏角類なども含めすべて「かわいい」と手に取ってしまう人なのだ。むろん、危険でない限り。 https://www.youtube.com/@%E3%81%B2%E3%82%88%E3%82%8A%E3%81%AE%E8%99%AB%E6%97%A5%E8%A8%98 彼女は現代人に虫をもっと理解してもらいたくて芸能活動を始めたと言うのだ。自分のパブリシティを利用して、ファンになってくれた人々に虫の魅力を、また虫の存在意義を知ってほしい、と。 私は子どもの頃人並みに(?)昆虫採集はしたけれど、例えばカマキリやシロスジカミキリは超苦手だったし、多足類も見れば逃げ出した。 ゴキブリは、今はどうか知らないが、寒かった會津の田舎では目立って出てくることはなかった。だから東京に来て出くわして、体が石化した。(笑) 「脳化社会」のまさに<お邪魔虫>の虫をむやみやたらに殺すことには、しかし、抵抗がある。虫も「みんなみんな 生きているんだ 友達なんだ」と言う歌詞を書いたのはやなせたかしさんだったか。 とにかく虫については専守防衛、家に入らせないようにすることに全力だ。幸い小さな庭に嫌いな虫は滅多に来ない。鳥がよく来てくれるからというのも大きかろう。

A Bit of a Surprise

イメージ
砧公園内、我が「哲学の道」。ハハハ、哲学、そんなはずはない。ま、もちろん色んなこと考えて歩く逕であるのは間違いない。 YouTubeの哲学系チャンネルのKant倫理学を語るショート・ビデオを見た。ゲストで出演したKant研究者の某氏は、なぜKantを研究するようになったのか、そのきっかけ的な小学生の頃の経験を語り出す。 氏はある日留守番をしていて、台所で蒸気噴き出す電気釜を見て「爆発する!」と焦り、結局コードを引き抜いて問題を<解決した>。その後両親が戻ってきて、母親は米が無駄になったと彼を叱ったが、父親は彼女を諌め、息子は「善いことをしようとした」のだと言ってくれたと言う。その経験がその後の学問の道を決定づけた。ショートだから詳細は知らないが、ホストの一人がその話を聴いていて涙するのだった。 いい話だ。私もショートではない本編のを視聴していたなら「いいお父さんだな」ともらい泣きしたかもしれない・・・いや、しなかったろう。 その某氏は、その感動的エピソードを語り出したときに、「小学生3年生か4年生のときに、家で<お>留守番をしていた」と言ったのだ。私はこの「お」に戸惑ってしまい、氏はなぜ自分の家のこと、自分のことなのに「お」を「留守番」の頭に付けたのかと考え始めてしまい、感動的であるはずのその後の話が上の空状態で集中して聴けなくなったからだ。 * 昨日Kと待ち合わせた京王線桜上水駅。そのすぐ東には某・高校が在る。そこはNew York在住の「やす」さんの母校であり、私は当然彼女のことを思い出した。 Kと別れて帰宅すると、なんとそのやすさんが急遽帰国(来日?)しており、多摩川へ行ってきた、Kさんと食事していたんだね、時間がないから少しの時間でも会えたらと思ったけれど、今回は見送るというLINEメッセージが。ちょっと驚いた。 やすさんは高3の時に私と一緒に英語を勉強したのだった。高2終わりまで圧倒的に少ない勉強量だった。第一志望を塾の受付で口にすると応対した国語科の講師に再考を促されているのを私はそばで聴いていた。後彼女の英語担当となって、「あの講師の言うことなんか聞かなくていい。第一志望、突破しようじゃないか」と励まし、それから彼女は猛烈に勉強に勤しむようになって10ヶ月後にはその第一志望に合格したのだった。 しかしその10ヶ月はもちろん過酷で、私の英語クラスでは明朗...

MNEMO爺さん、K爺さんと昼飯をとる

イメージ
去年の今頃撮った、世田谷区玉川辺りから望んだ林立する武蔵小杉の「タワマン」。 * 杉並区下高井戸でKと久しぶりの食事をして今帰着。暑い中外で仕事をしてきたKは元気そうであった。良かった。 話し込むほどの時間はとらなかった。昼食時だったし、環境もそんな店ではなかったし。ただ、ときどき当然のように大昔の話がどちらともなくされて、「ああ、そうだったな」と首肯し合う。 Kには写真の武蔵小杉に居住していた時代があった。彼が言うところの「絶頂期」だった。まだ小杉にはタワマンも何もなかった頃のことではあるが、いいマンションに住み、彼は腕利きのデザイナーで新宿に会社を持っていた。私はその頃G Stringで再デビューする直前だった。互いにまだまだ若く、前途も洋々だと思っていた。 うん、そう。凪もあったし、時化もあった。大嵐もあったなあ。 今や二人とも名実共に爺さんとなって、庶民的な価格の店で小一時間語り合う。概して思うようにはならなかったこれまでの人生だが、彼も私も笑顔が絶えなかった。楽しかった。

「世田谷区狛江」は実現しなかった

イメージ
大昔、今頃の季節に撮った狛江の多摩川べり。この男性のこころの中は、きっと詩で、歌で、満たされていたにちがいない。 * 幾度も書いてきたことだけれど、狛江市は本当に私の人生を変えた。この地に高円寺から移ってこなかったならと思うとゾッとする。もちろん、誰にとってもある選択の結果はとらなかった方の選択とは違う結果になるのが当たり前も当たり前、その後者の「結果」はいつまで経っても仮想的なもので、その優劣を語っても詮ない。それでも、なのだ。 私が狛江市の存在を知ったのは、杉並区高円寺在住時よく一緒にクルマに乗り<遊んだ>大学時代の後輩が世田谷通りを使って行く川崎市の某所に住んでいたことで、彼の家へ行くときにその世田谷通りの東京都の終点である多摩川べりの街、すなわち狛江市を、何度も通ったからだ。狛江が高円寺を去るときに向かうべき地の最有力候補になった決定的要因は、その空が広いから、だった。會津の片田舎出身の二十代前半の男にとって、「本当の空がない」高円寺から逃げ出すなら、そして東京で音楽を続けて行くなら、狛江しか私には選択肢がなかったのだ。本当の空があるところで私は自分の歌が降りてくるのを待つ----それは消極的な姿勢では決してなかった。逃避ではあったが、歌うたいとして必要な陰棲あるいは遁世だった。 ということなのだよ、娘よ、孫よ。 * その狛江市。1970年に日本第2位の狭さで市制施行。それまでは行政の効率化で同じ北多摩郡の調布市(当時町および神代町)との合併を都から促され、町民の多くもそれに賛意を示していたらしいが、当時の町長が世田谷区への編入を強く主張しかなりの悶着があったという。 町長は、特別区への編入ということで狛江が世田谷の一部になれば都市整備が早く進むという主張だったらしい。その際、たとえば調布町および神代町と例えば「北多摩市」として合併し、「北多摩市狛江」となるより「世田谷区狛江」という名称に憧れを抱いたこともあろう。 それに反対した議員が多数派だったのは、世田谷区の一部になれば、町議会はなくなり、区議会議員として広い世田谷区(当時東京23区最大)を回らねばならず(地域毎の配分はない)、多くが議員身分を失うのが嫌だったというのもあったらしい。 まあ、狛江市は「東京の中の田舎」だし、それがいいのだけれど、議会も田舎だ。狛江を形成する昔の和泉村、猪方村、駒井村、岩戸...

Reminder 1: 12.12 MNEMO Gig

イメージ
  YouTubeに上げている我が歌のうち、どうやらもっとも👍が多いのがこれ。まあ、それの数も視聴回数も笑ってしまうほどのものでしかないけれど。 すべての音が私によるもので、私としては上出来ながら、むろん私の鼻はピノキオのようにはなっていませんよ。あるいは天狗?もうこの歳で鼻高々になどなりますかいな! 還暦を数年過ぎてからの作品であり、爺さんの、若さへの「纏綿」する想いがちゃんと表現できていると<自己満足>はしてまっせ。12.12のギグでもご披露申し上げます。治雄ちゃん、スティック、がっちゃんがどう弾いてくれるか私も楽しみ!よかったら来てね。 * 寒いっすよね、この数日。東北じゃ「やませ」が吹いているらしい。オホーツク海高気圧が数年ぶりに張り出していると「福テレ空ネット」の齋藤さんが言っていたような。この状態が続けば冷害ですが、そうはならない見立てだと言うから安心していますが。 * 今日は将棋叡王戦の第四局。場所は大阪府泉佐野市であり、世田谷区弦巻の伊藤匠叡王にとっては「アウェイ」、挑戦者奈良市出身の齋藤八段にとっては準「ホーム」。「たっくん」、そんなハンデをものともせず、今日で決着を!

Depressed, but I'm All Right

イメージ
昨日の<滴る緑>の砧公園。確かに陰鬱な景だけれど、これもこの季節の実態、この暗さ加減もまた一興。 * NHKBS「フロンティア」で『サイケデリック・ルネサンス 精神医療の最前線』という特集が放送された。 マジックマッシュルーム(psilocybin)、LSD、MDMAなどのサイケデリクス(幻覚剤・精神展開剤)が、医師・専門家の管理下で難治性うつ病やPTSDなどの精神疾患治療に効果があるという最新研究を紹介するものだった。オーストラリアでは2023年に一部が治療薬として承認された点も触れ、科学的な検証と医療現場への導入の動きを報じていた。 Beatlesを知る人は、彼らがBob Dylanとのマリファナ体験から変わっていき、アルバム Revolver ではLSDでの「トリップ」から着想した曲が<あからさまに>発表されるようになったのはご存じだろう。1965年当時イギリスではLSD摂取は合法、と言うより法整備が間に合っていなかったので、彼らを一概に責められないけれども、非合法化された1966年9月以降も彼らは秘密裏に摂取を続けていたのだ。 旧ブログでも再三書いたけれど、Beatlesを根本家妹弟に紹介した長兄は、1967年のアルバム Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band の「はっ飛びぶり」についていけなくなって、以降彼らのレコードを買わなくなってしまった。 むろん「くすり」だけが彼らを劇的に変えてしまったのではないにせよ、彼らの音楽的そして容貌的な大変貌の主原因のひとつだったのは否定しようがなかろう。 特にJohn Lennonは鬱病に罹っていたと言っても間違いはない。1970年の彼の問題作 God で、彼が「I don't believe in Beatles」と歌ったとき、私は本当に悲しかった。彼はアイドルの頂点を極めた1964年にはもうすでに未曾有のアイドルBeatlesの一員であることで 深刻なidentity crisisに陥っていたのだけれど、まだ幼稚園児だった私は(いや、ほとんどどんな人も)そんなこととは露知らず、小6から中1にかけて件の God を含む彼のソロアルバムを聴いて大ショックを受けたのだった。 高校生になりBeatlesがドラッグの常習者(だった)と知って、それはアーティストしては<ずるい>...

All in All, We're Good

イメージ
  おととい夕暮れ前の西の空。お馴染み(笑)砧公園で撮った。なんて有頂天にしてくれる雲だろうか。変な表現。 * 昨日に続きまたYouTubeのvidsからの話。「PJD=Post Japan Depression」という言葉があるらしい。訳せば「日本後鬱」だ。海外からの旅行客が日本でさまざまな肯定的体験をして自国に戻り、いろいろと自分の国の欠点をまざまざ思い知らされ、日本がたちまち恋しくなって、その想いが昂じて気分が落ち込んでしまうのだという。 日本で体験した秩序、礼儀正しさ、親切で友好的な態度、清潔さ、鮨や和牛など食べ物のうまさ、コンビニの超絶レベルの便利さ、品物の良さ(卵サンド、スムージーなど)、電車の時間の正確さ、車内の心地よい静けさ、偏在する自販機の便利さ、ウォシュレットの快適さ、自然の美しさ、和洋折衷の妙、神社仏閣の荘厳さなどなどについて枚挙に暇がないほどの絶賛があって、中には懐かしみつつ落涙までする人も。 海外からの旅行客はなんと4000万人を突破したというけれど、まあ、それはそうだろうなと思う。3日前の青山の様子から察すれば、都心西部、すなわち渋谷や新宿(新宿御苑)、原宿、明治神宮、代々木公園などもっと密度濃く外国人旅行客を目にしただろう。もちろん都心東部の浅草などの密度も推して知るべし。 まあ、隣の芝生は青いというのも確実にあるのだけれども、総じてこの国の人々は海外からの旅行客には感動的なほどにfriendlyで、efficientで、professionalで、thoughtfulで、considerateに見える、感じられるのだ。そしてそれは総じての話なら正しい。誇らしいことだ。 * Twitterですばらしい写真を発見。1954年の世界的名作『七人の侍』撮影の合間での1コマ。 世田谷区大蔵とキャプションがあったけれど、そうなのかなあ。映画の撮影は大蔵の千川の川沿いだった。そこには写真に在るような建物はなかったはずだから、 東宝の第三撮影所でのショットなのかもしれない。もちろん今の東宝スタジオ、当時の砧撮影所である可能性も大いにあるけれど、 世田谷区桜に在った第三撮影所(今はオークラランドというレジャー施設になっている)で撮られた可能性もあると推察するが、どうだろう(んなこたあどうでもいい!)。すんません。 左から、千秋実さん、黒澤明監督...

ぽんぽん

イメージ
  先ほど、日の出の成城学園前駅南口周辺。 歩いているともう暑い。いよいよ歩きの代わりに自転車だなあ。 * YouTubeで方言モノが「おすすめ」で紹介され、見てみると、秋田弁に「きゃどぽんぽんじぃ」という面妖な言い回しがあるというのだ。それは「道の雪が融けて乾いたぞ」というような意味だとのこと。「キャド」が「街道」のことだと言うが、大きな道ではないそう。そして「ぽんぽん」だ。これはなんと私の田舎でも言う「雪解けして乾いた土が見えている状態」のこと。秋田も會津も春到来を喜ぶ気持ちを込めて「ぽんぽん」と言うのだ。 秋田と會津、同じ東北じゃないかと言う勿れ。それはそうだが、秋田なんて會津から見れば山形を挟んだはるか北の国だ。 我が父はその著書『会津さおわえなはんしょ』でこう書いている。 「道路の除雪などのない時代の野沢(=我が故郷)の大通りは雪の山で、両隣の店とも雪の壁で分断された。それが春先になると、まず自分の店の前の雪が消えて地面が現れ、次いで両隣と直通するようになり、そして、そのうちに『ほてい屋まで行けるようになった』『役場の前まで行けるようになった』と、用もないのに土の上を歩けるのが嬉しくて、雪解けのビッチャッコの(=水溜りのある、ぬかるむ)地面を行ったり来たりしたのである。 まして『テッちゃ(=父の幼なじみ)家の前がポンポンになった』と聞けば心が躍った。今度はそこで遊べるのである。その地面は早春の陽光を燦々と受けて湯気が立ち昇り、雪に閉じ込められていた四ヶ月からの解放を告げていたのであった。雪国の子でないと分からぬ嬉しさ。」(p194) ちょいともう季節外れもいいところの話であるが、方言のおもしろさ、である。そしてなぜ會津であれ秋田であれ、先人がその雪解けの地表の様子を「ぽんぽん」と言うようになったのだろうか、興味を惹かれる。 もちろん私の勝手な推測だが、そのぽんぽんになった地面を歩いた者として、それは靴音である、と言いたい。特に子どもが踏むゴム長靴の音だ。 ゴム長靴は早くも明治10年代には輸入物として入り、明治40年代にはいよいよ国産が始まったと言う。私の説が正しければ、この方言は比較的新しいものということになる。會津と秋田で同時的に偶然生まれた方言か・・・。 おっと、Grokによると山形弁、特に置賜地方のでもこの「ぽんぽん」が使われているとのことだ...

問いに愛される人

イメージ
人間、いつでもどん底に突き落とされうるよね。もちろんそんなときでも泰然としていられる人もいるだろうけれど、そんな人は万に一人もいないだろうな。 私は今さしたる悩みもなしに暮らしているけれど、人生で最悪レベルのことがいつ降りかかってきてもおかしくはないと覚悟はしている。覚悟はしているけれど、できればそういうことが延期に次ぐ延期になってくれればと願わないはずもない。 写真は大昔多摩川で撮った空。二度と再現されることのない、掛け値なしにたった一度だけの空。空ばかりじゃない。どんな事象も全く同じに起こることは二度とない。個々の人間も、二度とこの地球上に現れないし、今この二度と繰り返されない瞬間を生きている。 そしていつかそのいのちも尽きる。尽きるとき、この写真の空のような心持ちでいたいなあ。闇ありての光。しかし光をやはり闇よりは愛したい自分。その光に吸い込まれて往きたい。 今朝起きて、家の塀の前の掃きそうじ。お勤めの男女がおびただしく通る。私立の小中高生がほぼ通り終わると、今度は近くの公立小学校と中学校の児童生徒が通る。みんな、「なぜ毎日こんなことをしているんだろう」というような表情はしていない。ただ、当たり前に自分がしなければならないと信じることをしている。主に<生きていくために>そうしているはずだ。そしてなぜ生きていくのかという根本的な問いはさしあたりしないままに。 先ほど若い郵便局員(日本郵政グループ職員)が書留を配達に来てくれた。ハキハキとした口調で、とても清々しい青年だった。仕事に誇りを持っていること、やり甲斐を感じていることがはっきり分かるような、そんな態度の。 「君は、この世のどんな偉い肩書きの人であろうが、億万長者であろうが、少なくともその人たちと全く寸分違わず立派だよ。その人々がそんなことで鼻高々になっている者たちだとしたら、君の方がよほど神仏に愛される人さ。神仏という表現がもし違うなら、<なぜ生きるのか>という問いに愛される人と言うか。『問いに愛される』って変かな。でもまあ、僕はそう言うしかないかな、今のところ。」

みんなの子や孫たちがずっと幸せでありますように

イメージ
  私の孫「I」のAI似顔絵。とてもよく似ている。 今日、なんとウカっとしていて3ヶ月ぶりの娘・孫との昼食会(?)のことを失念しており、約束の1時間ちょっと前に娘から電話をもらって、大慌てで首都高を使って「会場」へ。さすが首都高、余裕を持って到着した。 3歳の孫の「I」は数回前から私にとうとうとても懐いてくれており、3ヶ月ぶりながら抱きついてきてくれた。「I」の弟で2歳の「H」も今回は私をよそ者扱いしなかったなあ。うれしい。 行きしな青山を通ったけれど、欧米人観光客や勤め人が本当に目立った。帰りは別ルート、豪徳寺を通ったけれど、ここも欧米人だらけ。お寺に数千体(?)も奉納されている招き猫像がお目当てなのだ。 東京ばかりではない。いわゆる「イン・バウンド」は日本全国に及んでいる。それでも、Tokyoを外しての日本旅行というのはありえまい。Kyoto、Nara、Osaka、Hirsohimaとかも。 この平和国家を世界の人々も守ってほしい。憲法9条という今も画期的で世界遺産的な平和の誓い、ルールを、全世界が応援してほしい。 "The Japanese Constitution, I hear, permanently renounces war." みんなびっくりして、そして、「That's great!」と言ってくれればいいな。平和国家・戦争放棄宣言のモニュメントを作り、そこを観光地化してほしいね。まあ、今の内閣じゃありえない話だけれど。 世界のすべての子どもたちが幸せでありますように!

黒澤監督の息抜きの場

イメージ
  NHKの「ブラタモリ」を見た。成城がなぜ日本のハリウッドと言われるのか、というテーマだった。私にとってほぼ毎日のように歩き、自転車で通るところばかりがTVで紹介される---しかも全国放送で---のはなかなか心躍るものがあった。 案内役の成城大学の先生がタモリ氏に問いかけたことはほぼすべて私には答えられるものだったが、「ほぼ」と言うのは、東宝の監督スタッフや俳優たちが憩いを求めた近隣の場はどこかと言う問いで、私は多摩川のことかと思ったが、豈図らんや黒澤明氏などが息抜きをしたのは当時ゴルフ場だったという砧公園だったとのこと。知らなかった。 黒澤さんは確か「羅生門」が第12回ヴェネツィア国際映画祭(1951年)で金獅子賞(=最高賞・グランプリ)を獲ったとき、出品されていたことも知らずにいて、「羅生門」の国内での評判は芳しくなく、また次作の「白痴」もさらに不評で、髀肉の嘆を託っていたのだった。次作の当てもないまま多摩川で釣りをしていた。そのことを自伝『蝦蟇の油』で綴っていたっけ。そんなこともあって、黒澤監督の憩いの場は多摩川だと思ったのだ。もちろん間違ってはいない。 黒澤氏は今の渋谷区恵比寿の家が1945年空襲に遭う前に砧(私の住む街)の同僚宅に疎開と言うべき形で間借りし暮らし、その金獅子賞を獲ったときは砧から千歳船橋へ移り暮らしていたという。それでも釣りをしていた場所は狛江の多摩川に違いない。そして賞をもらって俄然名声が高まると翌年(1952年)その狛江に転居、森繁久弥さんと隣同士になり、10年以上暮らしている。その後、世田谷区松原や恵比寿などを経て、晩年は成城2丁目と4丁目に暮らし、4丁目のマンションが終の住処となった。 ・・・なんとまあ、私の<生息域>とかなりの部分が重なることか!だからどうした! 「ブラタモリ」から話が逸れたけれど、まあいいだろう。 一言だけこの放送について言うと、確かに東宝スタジオの所在地は成城1丁目だけれども、主要なスタジオの多くは砧7丁目に在る。放送では砧の「き」の字も出てこず、それだけが不満だった。(笑)

初めて行った香取神宮のこと

イメージ
  香取神宮の奥宮。香取神宮の祭神はフツヌシで、日本書紀にその存在や行状が記され、古事記にはない。私は<古代史ロマン>としては古事記の方により興味を覚える方だ。日本書紀は藤原不比等さんの影響力が強すぎて、氏神春日大社の権威づけのために、後に建てられる鹿島神宮やこの香取神宮につながるタケミカヅチ(鹿島神宮祭神)とフツヌシの<神話>が記されたのではないかと思える。古事記では両神宮についての記述はなく、なんとフツヌシのことすら書かれていないのだ。 フツヌシの名の由来はおもしろく、「フツ」は剣を一閃するときの音、つまり擬音だと言う。ゆえに「剣の主」、マスターということだ。タケミカヅチと共にいわゆる「国譲り」のときに活躍し、また東国の<蛮族>討滅にも力を尽くしたと日本書紀だけが言うのだ。 「香取」は、「書紀」にある「斎主神云々、此神今在于東国檝取之地也」の記述から(檝取=香取)少なくとも720年の書紀成立前よりあった地名であるけれど、この「檝」の字は舟の「かじ」や「かい」を意味しているといい、縄文海進で今(霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼)よりも広がっていた「うみ(後に「香取の海」と呼ばれる)」にふさわしい名前だった。 なにしろ、タケミカヅチもフツヌシも、存在していたとすればヤマト政権からの東国征服戦争の指揮官そして戦闘員だったということだ。その戦いの前線が常陸の「かとりのうみ」だったのだ。その戦で敗れた<蛮族>が「蝦夷」や「毛人」と呼ばれたのかどうかは知らない。しかしそのヤマトの者たちには聞き取れぬ言語を話す彼らは「さえき(=会話を<さえぎる>者、騒がしい者)」と呼ばれ、伊勢神宮へ献上された後、始末に負えない者として瀬戸内海に面する諸国へと移住させられるのだ。 ・・・そんなことを知らずに「蝦夷」や「毛人」の子孫が香取や鹿島の神に祈りを捧げているとしたら、なんという皮肉だろうか。ま、その血を<純粋に>保ってきた人などいるはずもないと思うけれど。

5.15だけれど、いつもの雑記です

イメージ
上の写真は昨日夜明けの砧公園だけれども、今公園では例の3連続した倒木事故で進入禁止の「黄黒(きくろ)テープ」が至る所に張り巡らされ、もうこの数週間「サイクリング・コース」は全く通れないままになっている。そこは事実上joggersのための周回コースになっていたわけで、利用者たちは困っていることだろう。中でも<heavy users>の駒澤大学陸上部のみなさんは深刻な影響を受けているのではないか。樹木の安全が確認されるまでという措置だけれど、相当時間がかかるでしょうよ。 公園に木々があるのは当たり前、その中から自然に枝が折れたり、根こそぎ倒れたりするものも出てくる。むろん管理徹底が望ましいけれど、100パーセントの予防などは不可能だ。そのことを踏まえないで利用する人などいてはならないと思うけれど。入園の際、管理者側の免責事項に同意するプロセスが発生したりして。冗談ではない! * 事故と言えば、Mooさんが農作業中に大けが(出血量からしてそう言ってよかろう)をしたという。幸い、すぐに受診、治療され、それ以上の大事には至らなかったよう。良かった。 そのMooさんには12.12の我が久しぶりの歌うたいの宣伝をしていただいたし、またTVでたまたま氏が見たという神奈川県真鶴か湯河原の「ビストロ ネモ」を紹介してもいただいた。(笑)食事のためのみに遠出するというのは<よほどのこと>でなければ私にはないことで・・・^^;) 「あの、僕もネモなんですよ」と店主ご夫婦に告げて和む・・・悪くない図だけれどね。 しかしね、この2日に行った茨城県神栖市の「つかさ」さんには、そこで食事するという目的一つで再訪したいなと思わせるものがありましたよ、ええ。 「MNEMOの鹿島紀行」もまだ完結していないな。この土日、書いてみますね。  

「ハロー。ジスイズxxxズオフィス。ハウキャナイヘルプユー」「Sorry. Wrong Number.」

イメージ
成城3丁目の去年撮り忘れたグミの実。「グミ」は漢字で「茱萸」。いい字。 書くのは、not easy * 早苗さんの英語スピーチが今話題になっている。 あの方が日本国総理大臣などでなかったなら、自己申告の「元米国議会立法調査官」という経歴もなく、そして何より日本語でスピーチしていたなら、全くない批判だった。 英語をずっと勉強してきた身として申せば、彼女のあのspeechは市や郡の中学生英語弁論大会レベルにも達していない。かく言う私は、喜多方市・耶麻郡の大会に出て、後に東北大学医学部へ行く喜多方二中(だったか?)のX君に惨敗した。また私と同じ中学にはYさん(後に福島県立医科大へ進学)がいて、この人はいわゆる帰国子女でネイティヴ。この人を出すのは禁じ手ということで私が代表になったのだが、福島県西部の狭い地域にも、Beatlesを5歳から聴きだし、レコードに合わせて歌ってきた私が(笑)全く敵わないspeakersが何人もいたのだ。 早苗さんの英語を聴いていると、「 米国議会立法調査官」として電話の取次がすぐにできるようになったというstoryも全く信じられない。なにしろ何を言っているのか分からないのだ。ズバリarticulation( = 考えや感情をはっきりと言葉にすること。また、声や言葉が聞き取りやすく明確であること )、つまりprosody(= 発話のリズム、強弱、音の高低=ピッチ、イントネーション、ポーズ=休止など、言語の単音以外の音声学的要素の総称) がまるでダメだからだ。もともと聞き取りにくい電話でなら尚更であって、仕える議員さんにかけてきた人がイライラしたに違いなく、 「 Why the hell did you hire someone who speaks that bizarre, English-like gibberish?」 と議員さんも即非難されておしまいだったろう。 なにしろ早苗ちゃん、日本語の「官」の意味もわかっていなかったんじゃないか。日本国籍の者が、米国議会の「官」と名のつく仕事に就けるはずがない。 いやはや。  

サポートしてくれるメンバーがすごい

12.12 MNEMO  Live at Metta   でMNEMOをサポートしてくれるのは、 岡野治雄  bass https://ja.wikipedia.org/wiki/EUROX 嘉多山信  guitar https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%A4%9A%E5%B1%B1%E4%BF%A1 杉山靖幸  drums https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9D!%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89 という3人です。 なんとMNEMOは幸せなシンガーでしょうか!

12.12 トリ曲は『Today』

イメージ
12.12 MNEMO Live at Metta   のテーマは 『Today』 です。 会場のMettaは、こちら・・・ https://barmetta.tokyo/ 駅から5分とかかりません。ウルトラマン商店街(祖師ヶ谷通り)の 砧側(駅の南側)、スーパー・オオゼキ砧店(駅から見て)手前のビル地下です。 * 実は、私には今闘病でつらい日々を送っている友人がいます。(Kではありません。)その友人の快癒のため、彼が絶賛してくれたこの Today という歌を捧げたいと思っています。ライブ演奏当日までには彼が恙なく聴衆のひとりとして来て聴いてくれるまで回復していますように! この歌を含め、きっと「お遊びタイム」のも入れて、おそらく20曲は歌うでしょう。その「お遊びタイム」では飛び入りも歓迎するつもりです。 2026年12月12日 土曜日 午後5時開場 スタートは5:30 (貸切終了時刻は午後10時です) 木戸銭等のことはK作成のフライヤで発表します。

ウルトラマンたちはニライカナイからの「まれびと」か

イメージ
  砧7丁目(円谷プロが在った)の公園に3年前建ったウルトラセブンの像。 私は旧ブログにも書いたのだけれど、小5、6の頃にはすでに「ウルトラ・シリーズ」には飽きていました。「セブン」が最後のワクワク・コンテンツだった。イニシエーションはなんと言っても「ウルトラQ」だった。まさにTVの前に釘付け。 だんだん思春期に近づいて、まず「ウルトラ・シリーズ」ではなぜ日本ばかり異星人に襲われるのかという疑問から始まって、なぜウルトラマンやウルトラセブンは伝家の宝刀の光線やブーメラン様の武器を最初から使わないのかという隔靴掻痒感を伴う疑問に苛まれる(笑)ようになったのでした。そんなませたことを言う小学校高学年生は円谷プロにしてみれば「見なきゃいいんだよ」でおしまいだったでしょうね。 もっと深い疑問は、30歳手前の頃だったと思いますが、カール・セーガン教授の『コスモス』TVシリーズを見てから湧いてきました。地球外生命はいるのかという問いについても教授は語っていました。それはもう、答えはYesに決まっていますね。 そこで考えた。恒星間を行き来するには途方も無い技術が必要で、そんな科学技術力を獲得するような生命体が圧倒的に文明度が低い他の恒星系の惑星に住む生命体を襲うなどということはあり得ないはずだ、と。その技術力に到達したのは、その「宇宙人」たちが己の惑星における争いで核戦争での自滅などを乗り越えてきたからこそでしょう。強力な技術力を持つことはすなわち強力な<倫理哲学力>を備えていることを意味するはずです。 自分たちに比べての地球人の進化の違いを<物見遊山で見学しに来る>ことはあっても、滅ぼしに来るなどということはあり得ない、と。 * https://www.youtube.com/watch?v=8-zoiIn2HzE&list=LL&index=39&t=1347s 円谷プロの脚本家金城哲夫さんに焦点が当たったNHKドラマです。沖縄出身者としての視点がウルトラマンやセブンなどに反映されているのをこのドラマで知りました。

12.12 MNEMO Sings Again

イメージ
  昨日上げた写真を撮った後、雲が太陽を覆ったのですが、それゆえ見える物の輪郭が鮮明になったところで一枚・・・砧公園バードサンクチュアリ前の花畑です。 * 治雄ちゃん、スティック、がっちゃんの厚意があって、今年 12月12日土曜日、単独ライブ演奏 をすることになりました。本当に久しぶり過ぎて、いつ以来のことかno ideaです。 オーディエンスが30人にもなれば立錐の余地のない「コヤ」でのこととなります。場所は世田谷区砧、私には歩いて7分とかの距離に在るvenueです。昨日違う日程でブッキングしてしまっており、急遽都合が悪くなったメンバーがいて、今日あらためて予約し直しますゆえ、確定しましたら所在地等またここに書かせていただきます。

杜、森

イメージ
砧公園バードサンクチュアリの椅子に座ってさっき撮った一枚 逆光ハレハレだけど、まあ、いいや * 私が神社仏閣が好きなのはなにしろまず杜があるからさ。都市の中でも田舎でも、木々に囲まれる神社仏閣の建物の美に感嘆しない人なんていないでしょ。 ああいうのを造ってしまう人々のこころ、なんだよ。美意識なんだよ。それに共感することが結局信仰心なんだと思う。雪の夜の神社仏閣なんて、もう、温帯モンスーンの島国の建築文化として極みまで行っているでしょ。そこにお燈明だよ。どんだけ美しくなりゃ気が済むんだって思うほどだ。 その文化に私は属していると思っているし、属したいのだよ。 だから国家神道を奉じているとしか思えないような神社なんかには辟易するよ。日本文化を声高に誇るのはまあいい。けれど、実はそんな野暮をしないのがそれこそ日本文化じゃないのか。「いいものだ」と心の中、思っていればいい。誇りすぎて、他国を、その民と文化を、蔑ろにするなんて、どうやって神社仏閣のたたずまいから出てくる態度なのだろうか。信じがたい。 * 「ブラタモリ」、見たよ。毎日のように歩いたり自転車に乗ったりして行くところが紹介されてた。成城学園構内は入ったことないけれど。 あれ見てて、「憧れの高級住宅地」ということばが何回か言われて、「ち」と舌打ちする人もたくさんいるだろうよ。ブルジョアの街の紹介なんて、反感を持つ人もきっと多くいるはず。私も、狛江や喜多見などに暮らしていなかったら、そして今砧に住んでいるけれど住んでいなかったなら、きっと「だからどうした」とTVをオフったろう。 でもね、成城はね、特に3丁目と4丁目はね、高級だ低級だとかの不動産屋的値踏みとかを超えていいところなんですよ。ひとえに国分寺崖線の段丘の緑があるからなの。その緑を育む「はけ」と川(野川)があるからなの。大江健三郎さんが4丁目に住んだのは、ただ憧れの柳田國男の例に倣っただけではないんだ。いつでも、たとえ四国の山村の森の規模には到底敵わなくとも、フィトンチッド漂う静寂の地へ行けたのですよ。新宿から10数分の駅を持つ街であっても。大江さんばかりでなく、そういう住宅地を求めた人々が集まったのが成城なんですよ。 「ブラタモ」、次回は東宝砧撮影所へ行くらしい。(もう行ってるんだけどね。)

「解」

イメージ
昨日、夕暮れの空 そうそう。なんだか私は神仏への信仰心篤い、宗教爺さんのように思われているかもね。 確かに科学でなんでも説明がつくなんて思っていないし、17歳最後の日々で幽霊は見るし、29歳のときには愛猫チロ昇天の奇跡は体験するし、世の中は今だって、そしてこれからも、ずっと不思議はあるし、中でも生命・存在の不思議に一般解は永劫出てこないと思っている。 「解」はそれぞれの人が見つけるもの、感じるもので、決して他の人にそのままシェアできない。まあ、多くの人が見つけられも、感じられもせず、終わるのだろうね。  私はもう見つけたか?いや。でも薄々、ある刹那ないしは瞬間、感じることがあるとは言えるかな。 それを言語化するのは今のところ無理。そんなこと言ってたら、もう時間はそうないのだし、言葉にできぬままになっちゃうぞ。そうだね。 どうしても今言語化すると、まず歌に、楽曲に、その「解」は織り込まれているだろう、ということ。不肖私が作り、歌うものにもあるし、もちろん他のすばらしい音楽家たちの作品や歌唱にも。自分が、音楽家が、「大好きだ、私はこれと一体だ」という時空間の一瞬のありさま、たたずまいを表現できたとする音の中にあるのだ。 その「解」はもちろん数値でもないし言葉でもない。自分が溶け込んだある時空間の一瞬のありさま、たたずまいの、音としての現れ(表れ)なのだから、流れてしまうものだ。 私は、そしておそらく多くの音楽家たちは、生命・存在の不思議へのその瞬間的に出現する「解」を歌い、奏でるのだ。

天津神3神を私も尊崇はするが

イメージ
 5月3日、神栖市に在るホテルを日の出前に出て撮った一枚。 * 神栖には息栖神社があり、これは「東国三社」と一括りされる古社のひとつ。残りは鹿島神宮と香取神宮である。香取神宮のみが利根川を挟んで南の下総(千葉県)に在り、あとの二社は常陸(茨城県)に在る。国(県)を跨ごうとも三社が成す三角は狭く、互いの関係性は歴史の素人でも深そうに思える。 義父の娘はこの三社をしっかり回り、御朱印をいただき、また「東国三社」参り完遂の証の「東国三社守」を手に入れた。私は運転手であって、それぞれの神社に着けば境内をウロウロしていただけ。信仰心は厚くないのだ。 というのは、私は神社なら国津神系をより崇敬するからだ。私の田舎では成立がはるかに古い(778年と言われている)天津神系の大山祇神社が有名だし、私も尊崇するけれど、町の地区単位で言うと熊野神社(村の鎮守の神という感じの小さな社)により親近感を覚える。これは室町時代に越後街道沿いの宿場となる町の原型が造られた頃に勧請・造営されたらしく、我が根本家はもともと二本松の者ゆえその頃には全く縁もゆかりもないけれど、遠く後年、大正期に移り住んだ我が祖父は間違いなく村の鎮守、産土神である「熊野様」をより身近に感じ信仰したに違いない。熊野様は、その祖父や祖母が檀家となって後年その墓所に眠ることになる曹洞宗常楽寺の北に隣接しているのだ。薩長中心の明治政府が推進した野蛮な政策である廃仏毀釈前はきっとこの常楽寺と熊野神社は一体だったはずだ。 熊野大社は主神がスサノオであり、国津神系だ。しかし、さすがは神仏習合のふるさととも言うべきこのお社(熊野権現)は、スサノオの「姉」アマテラス(天津神)も祀っているわけで、ここでも「国天習合」とも言うべきmingling(混淆、だが、混ざる要素は明確に区別できる形での混合で)ぶりだ。こういうところが私は好きなのだ。 また我が街区(原町と言う)の東隣の本町という街区は諏方(諏訪)神社を鎮守としている。諏訪大社も国津神系である(それはそうだ、主神タケミナカタは出雲大社の主神オオクニヌシの息子なのだから。そのタケミナカタを 出雲から諏訪へと追いやったのが、鹿島神宮主神タケミカヅチだ)。 そして過去に記したけれども、天津神系の大山祇神社の宮司様はなんとこの諏方神社の神主でもいらっしゃる。この辺りのいい意味でのいい加減さ...

今日も雑記(いつもか)

イメージ
この3月の写真だが、国分寺崖線の緑を求めるときに私がよく通る成城2丁目のある一角、豪邸が並ぶ。NHKブラタモリは明日この成城を取り上げると義父から聞いた。番組表を見たらその通り、野っ原が都内有数の高級住宅地に変貌するいきさつなどが紹介されるらしい(もちろん私はそのことについてよく知っている)。それにしてもいつロケに来ていたのかね。 * 田村正和さん(成城4丁目に住まれ、成城学園の中高大学卒)のことを昨日書いたが、時代劇スターとして彼に並ぶ二枚目俳優は栗塚旭さんだ。お二人ともこの世を去られてしまったね。 新選組(血風録、燃えよ剣)シリーズ、用心棒シリーズでの栗塚さんのニヒルな演技は本当に男も惚れる。そして左右田一平さんと島田順司さんとのトリオは時代劇史上でも特筆すべき「三匹モノ」だ。(島田さんは87歳でご存命らしい。うれしい。) * ものもらいを患っている。困ったもんだ。小学生の頃以来。免疫力が落ちているか。 * 茨城県南部・・・地震速報でよく見る地域名。まさに鹿行(鹿嶋、行方)地域を含む。中央構造線の東端と思しきところだ。また地震があったという。さほど大きくなかったらしい。鹿島神宮と香取神宮の「要石」が大地震を封じてくれているのかな?(微笑)

今日は長文なしで

イメージ
  そろそろ早朝ウォーキングかサイクリングに切り替える季節だ。夜の砧公園も魅力的だったが、やはり太陽に当たらないとよろしくないという想いが募ってくる。もちろん朝や昼に日光を浴びてはいるけれど。 今日明日は仕事なので、その準備でここでの長文を書くのは厳しい。 このGW中、CS放送ではVeraや古畑任三郎の一挙放送が行われた。さらに先ほどは時代劇専門チャンネルでやはり田村正和さんの「若さま侍捕物帳」が放送され、あまりのいい男ぶりに目がクラクラした。 成城4丁目のご自宅(大豪邸)は主人を失って今どんな様子なのだろう・・・その前を通るたびに思う。合掌も欠かさない。スターになるために生まれてきたような人。お自宅もその上に建つ国分寺崖線上を散歩されるのが趣味だったというけれど、草刈正雄さん、故・小澤征爾さんなどの成城居住の有名人とすれ違ったことがあったのだが、田村さんとは一度もお見かけすることはなかった。もしお会いしていたら私はあまりの感激に卒倒していたのではないか。 さて、準備だ。

2026年5月3日 鹿島城と根本寺間往還での想い

イメージ
YouTubeで、1963年に行われた鈴木大拙の講演を聴いた。1時間足らずのもので、彼の思想の一部を語るに過ぎないのだけれども、演題が「最も東洋的なるもの」というのだから、その思想体系の大本の部分が語られたことになろう。 彼が強調したのは「自然」ということばだった。欧米人はキリスト教の影響でこの世の生き物や事物は神により造られし(=被造)ものとするが、東洋では正に「自ずから然らしむ」ものなのだと。これは多くの人にとってよく耳にする論だが、1963年当時ではそういうこともなかったであろう。 それを聴いていて思ったのが、ラテン語 natura はまず「course of things」の意味だと語源辞典は言う。「ことのなりゆき」であり、鈴木が講演で後に語る中国の「道(Tao)」と取っても差し支えない意味だ。また「文字通り」と辞典は言いつつ、「生まれ、誕生」とも解す。「生まれ出ずること」なのだ。ここにキリスト教の影響はない。 そして神の被造物としての自然というキリスト教の考えが広がり、 natura は「生まれ・される(講演での鈴木の言い方)もの」となっていった。「自ずと生まれる」から「生まれさせられる」ということである。 さらに聴いていて思ったのは、和辻哲郎や、特に内山節の論、すなわち<日本語に自然に当たる大和言葉が存在しなかったことは、日本人が自然を客体化せず、その一部として包摂されていたことを示す>という主張である。 鈴木は明治以降日本人もこの自然客体化を欧米思想、主にドイツ思想からの影響でし始めたと言う。そこから「自然を征服する」などという考えも生まれてしまった、と。延いては、対立するものを包含せず、殲滅するという考え方に傾いていってしまったのだ。 さて、この講演を 砧公園を歩きながら聴いていて、私は根本寺と鹿島城址の城山往還の間思ったこととを重ねていた。 憎むべきは薩長中心の明治新政府による廃仏毀釈だな、と。そして、本地垂迹説からの神仏混淆・習合なる仏教と神道のどちらかによる<征服>ではなく<混淆>という知恵を持った我らが遠い祖先の「和の精神」、そのすばらしさである。 根本寺はかつて鹿島神宮と一体的とまでは言えなかったらしい(鹿島神宮寺がそうであったが、江戸最末期天狗党の乱で焼失した)が、廃仏毀釈という暴力・弾圧にめげずに神職鹿島家の墓所があり続けるほどで、その...

2026年5月2日、尾垂浜に立ち寄っての想い

イメージ
5月2日、東京を出てまず向かったのは九十九里。神栖への途上であるのだし、立ち寄らない手はない。 尾垂浜より銚子の犬吠埼を望む ハマヒルガオが咲いていた 4月末はおろか、5月に入っても天気予報はなんだか不確かで、雨も覚悟しての出発だったけれど、我がうるわしの(!)尾垂浜(千葉県匝瑳郡旧・光町、現山武郡横芝光町)は快晴で、浜風でなく陸風が快く吹いていた。 旧・光町は匝瑳(そうさ)郡に属したので下総国の一部だったが、上総国山武郡に属する旧・横芝町と平成期に合併、人口の多い横芝に泣く泣く(?)従って上総に属すことになった。こういう<国跨ぎの合併>はそう珍しくはないようだが、田舎の市町村では珍しかろう。旧・光町の古老などは、下総と上総は全然違うなどと言って反対を貫いた人もいたのではないか。 この九十九里地域の上総と下総を分けたのは栗山川で、南側の上総、北側の下総という図式、この川がかなりはっきりとそれぞれの側の文化をも分けた。今でも横芝光町の町長が合併後20数年経っても住民の「日々の暮らしの中にも文化の違いを感じとれます」と認めているほどだ。 栗山川は元々「(高)句麗山川」であったらしく、下総台地に在る水源(成田市)近くの香取市栗(=句麗)源(かとりし・くりもと)に入植していた高句麗からの帰化人が名付けたという言い伝えがあるのだ。そして確かに高句麗からの人々がそこに暮らしていたらしい。 ところが元正女帝の御代(霊亀2年、西暦716年)、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷して、初めて高麗郡を置く(続日本紀)」という勅命が発せられた。栗源の高麗人は移住させられ、高句麗(高麗)王族の高麗王若光(こまのこきし・じゃっこう)の下、後の埼玉県旧・高麗郡(今の日高市や飯能市などの市域に当たる。1896年入間郡発足に伴い廃止)の開拓に当たったというのだ。 話は跳ぶが、同じ帰化人でも、同盟国だった百済からの人々は優遇され、畿内に居住が許された(摂津の百済郡)。当時<僻地>の高麗郡や新羅郡(埼玉県新座辺り)に高麗人や新羅人が住まわされた=開拓をさせられた=のとは大違いだった。 ・・・さて、九十九里の、我がうるわしの尾垂浜、旧・光町のことだが、まだ記すことがある。この記事は、もし同好の士が居られればその方々のため、そして主に娘や孫のために書いて...

根本寺

イメージ
  松尾芭蕉による1687年『鹿島紀行』にある名句「月はやし梢は雨を持ちながら」は、鹿嶋市宮中に在る根本寺(こんぽんじ)を訪れた際の旧暦八月十五日(つまり満月の夜)に詠まれた(写真はその根本寺境内に在る句碑)。 雨上がり、かろうじて真円の月は雲の合間から見える、しかし雲の移動の速さから、芭蕉は逆に「月はやし」と観た。一方目を少し下に移すと、寺の周囲の木々の葉はたっぷりと雨の雫を載せている・・・「持」っているのだ。 根本寺は、「城山」と呼称される常陸平氏大掾氏庶流の鹿島氏が平安末期に築いたという大規模な山城趾(あと)の麓(実際は城山と連なる甕山=みかやまの麓)に在ると言ってよい。今回お寺と今は公園になっているその城址を往復したが、もう初夏と言っていい日差しの下、なかなか大変な移動となった。けれども、周囲の緑が非常に美しく、またGWの真っ只中ながらも静かで、それこそ一句捻りたくなる想いがした。 桃青や 句碑は若葉に埋もれをり 「城山」は今でも鹿嶋市の地区名になっており、旧鹿島郡宮中村の一部だった。その「宮中」とはもちろん鹿島神宮の境内地ということで、根本寺はその「宮中村字城山」に在ったわけだ。根本寺は寺伝で聖徳太子の開基としているくらいの古寺であって、それを信じれば、鹿島神宮を大きな存在にしたと言っていい藤原鎌足を祖とする藤原氏の擡頭前に存在していたことになる。 武甕槌(タケミカヅチ)を祭神とした鹿島神宮だけれども、記紀にも、また有名な「常陸国風土記」にもその記述はないから、鹿島神伝説は藤原氏が<後付け>をしたのであろうと私は睨む。713年ごろ編纂の「風土記」にあるのは、「香島(かしま)の天の大神」としての記述で、「神武東征」より前の神の存在である。それが武甕槌であるとは記紀にも記されていない。「香島」が「鹿島」として遣う字を違えたのも、藤原氏擡頭後(723年)のこと。<タケミカヅチが鹿島から白鹿に乗って奈良の御蓋山(=三笠山、藤原氏氏社の春日大社の神体山)へ>という伝説も鎌足さんの嫡子不比等さんが創作したのではないでしょうかね。 (おもしろいことに、奈良の鹿が茨城=常陸の鹿とDNA的に縁がないことが証明されているのですよ。笑。そうなると、「アントラーズ」は「鹿の角」のこと、この名も不比等さんの創作ゆえのことか!) さて、私が今回の1泊2日の旅でもっとも感銘を受...

スポーツを楽しめる世のままで

帰京しました。 今日はもうクタクタで詳細は明日ということにしますが、今回の神栖宿泊の最大目的は今日の鹿島アントラーズvs町田ゼルビア の試合観戦でした。結果は1対1、しかしPK戦で鹿島の勝ちということになりました。それでも試合は前半、町田の方がはっきり優勢だった。後半は拮抗したかな。 憲法集会が各地で行われている中、極楽蜻蛉の所業ではありましたが、3万超の観客はスポーツを楽しめる世の中であり続けることが何より大事なのだと主張しているようにも思えました。 とりあえず、今回はここまで。

今神栖にいます

イメージ
茨城県神栖市に来ています。息栖神社が在る、茨城県最南西で93,000人が暮らす街です。鹿嶋市の南ですね。第一印象は、区画整理がしっかりされているきれいな街、というところ。 食事はこの「つかさ」さんでとりました。本当に、「食べログ」通りのすばらしい店で、全てのメニューが美味。御歳76歳の大将と話が弾み、梅水晶とデザートのアイスクリームをサービスしていただきました。また絶対に訪れたい! さて、なにゆえ神栖に来たのか。その理由は明日書きますね。 副次的な目的としては、「東国三社」への参拝です。神栖市に在る息栖神社、鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮がその「東国三社」で、大和朝廷の東国遠征や支配の最前線であったのでしょうね。 また、中でも鹿島神宮については「トーホグマン」でも何ページにも渡ってそれにまつわる空想を書き連ねたものです。境内にある「要石」は地震を抑えているのです。だからこそ、全国に鹿島社は広がり、地震という災厄から守っていただこうということになった。先日震度5強を記録した大町市の鹿島槍ヶ岳も、鹿島社が在るからこそその名なのです。 そして鹿島の鹿が奈良へ・・・そう、鹿島の神タケミカヅチが白鹿に乗って奈良・御蓋山に来られた、と藤原氏の氏社である春日大社の社伝は言います。鹿島には鎌足神社が在って、タケミカヅチこそ藤原鎌足の祖先ないしは彼その人ではないか、藤原家は元々常陸(ひたち=茨城)の出ではないかというロマンある推測ができるわけです。(できない?) その鎌足神社の近くになんと根本寺が在る!これは行かなきゃね。

Change your head, not the Constitution

イメージ
そよ風を薫風と言う季節にいよいよ入る。立夏目前。 世はゴールデンウィークだが、どれほどの人がウキウキとしているものか。むろん、「生活が苦しい」と厚労省調査に去年一昨年と答えた6割の世帯に入らぬ4割はそういうめでたい気分だろう。そう書く私もこれから行楽に出かけるのだから、「勝ち組」だ。(アホか!)1泊の小旅行に出る。 出不精の私がこの混み合う時期にわざわざ行楽地へ向かうのはありえない。しかし、1泊だけ、しかも関東を出ない。宿泊はビジネスホテルだ。 国力落ちて円安の進行が止まらず、止まっても安値安定、賃金は中途半端に上昇し、よって諸物価高騰、そして今石油関連製品の不足、枯渇で、庶民の生活の不安定さは増しているはずで、厚労省調査はもう古過ぎる資料となっているに違いない。いつ頃までだったか、そう大昔でない過去にチリ産のシャケの切り身は100円で買えたが、今は242円、物価高騰、円安の事実をとても明瞭に数で表してくれている。 みなが「生活が苦しくない」4割に入りたいに決まっている。あえて経済的貧困を厭わぬ人もいようけれど、ほとんどそれは悟りに達している境地だ。苦しい人がいよいよ厳しさを増したら、公が助ける。日本国憲法のありがたさだ。守らねばならない。