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6月, 2026の投稿を表示しています

Three Coincidences

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午前2時、別にW杯日本vsブラジルを見たかったわけではないのに目が覚めてしまった。結果は負け。代表選手たちの労苦を讃えたい。確実に強くなったよね。 国民的熱狂がこれで終わり、今度はいよいよ劣化極まる政府と与党のふるまいに過半数の国民が「否」と叫ぶべき時が来た。直近ではとにかく中曽根の発言が酷すぎる。敬宮愛子内親王殿下への誹謗は絶対に許されない。 * 冒頭のscreen shotは私のXのリポスト。イタリア人のSaint Seiya Newsが、『The Realm of Athena』3,000,000回再生を祝ってくれたポストへの返信だ。 そうしてLINEを覗くと、その『The Realm of Athena』を共作した関根安里くんがこんなビデオを紹介していた。 https://www.youtube.com/watch?v=KYN62chlgQQ ある女性シンガーが私の歌唱をオクターブ上で唄い、カバーしているのだ。安里くんのイントロのピアノやバイオリン・ソロを誉めていたが、もちろん結構なことながら、おいおい、岡野治雄ちゃんのbassも劣らずめちゃカッコいいぞ!俺の歌は褒めなくてもいいけれどさ。笑 そしてKの今日のVlogでは、その『ガリアンワールド』=『機甲界ガリアン』を世に出してくださった「サンライズ」の近くで警備作業をしたと。 何なんだろう、coincidencesが3つ。

六月尽前日雑記(2026年)

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  青空、光る雲、恋しいね。 * 『勿忘草の咲く町で~安曇野診療記~』、観た。いやあ、初回として「次も!」と思わせるに十分な出来だったと思う。なにしろ映像美が半端でない。CS放送などで昔のTVドラマを見慣れている身としては、NHKの今の最高技術による映像に歓声を上げっぱなしとなる。しかも被写体が安曇野だしなあ。 内藤剛志さん演じる循環器内科のベテラン医師谷崎は、超高齢者社会においては、患者にも社会にも負担となる延命治療ではなく、QOL重視、より苦痛のない看取りの医療を、とするのだ。対して、菅生新樹さん演じる、東京の花屋の息子で花を愛する新人研修医・桂正太郎は、<そうではない>医療を目指す、という図式だ。NHKならではの社会派ドラマと言っていいだろう。 * 北隣の杉並区区長選、現職岸本聡子さんが再選。環7が通る世田谷区、杉並区、中野区のリベラル・ベルトが維持された。(中野の北の練馬もそうかな?) * 韓国がW杯一次リーグ敗退で国民的な騒動になっているらしい。洪明甫監督への殺害予告もされたとか。本当にバカバカしい。 * 中曽根の「愛子さまに結婚相手いない」発言で心底自称「保守主義者」たちの不遜・不敬に怒りを覚える。皇統や王統継承で最も大事なのはgraceだ。「grace」、分かるか?お前らにはひとつもそれがないから認識しようがないか。け。 graceの訳を載せてやろう。 優雅さ、あるいは形、物腰、動作、振る舞いの美しさ。 気品、洗練、魅力、人を惹きつける性質 好ましい、あるいは魅力的な資質や才能。 好意や善意。 類義語:慈悲、寛恕(かんじょ) 対義語:不興、敵意、反感

内藤・本田コンビ、今度は安曇野の病院で

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雨や曇りばっかりだとさすがに飽きる。それに地震もあちこちで起こっているし、いよいよか、とも思う。ベネズエラの大地震も惨状をもたらしているようだ。大いに同情する。 * Mooさんのブログを見たら、NHKBSで明日28日夜10:00から放送される全8回のドラマ『勿忘草の咲く町で~安曇野診療記~』のことが記されていて、出演者を見たら、私の好きな内藤剛志さんと本田博太郎さんの名が。 このお二人は、回が進むにつれてどんどんシュールになっていったTV朝日系のドラマ『警視庁・捜査一課長』の、それぞれ「一課長」警視正・大岩と「刑事部長」警視監・笹川という役を演じるコンビだった。そのドラマは、カオス的な幕切れなどもあって、決して名作とは言えないものだったけれど、このお二人がとにかく好きなのだ。番宣ビデオで、本田さんは『一課長』での共演を知る人たちを意識した自己紹介をしておられる。 ドラマは当然安曇野を舞台にする。病院は「梓川病院」と称されるが、Mooさん御用達(?)のあづみ病院(池田町に在る総合病院)が撮影に使われている。もちろん安曇野の美しい景色も楽しめよう。 番組HPによれば、 「患者さんたちの病を治したい、退院する笑顔を見たい…青雲の志を持ってやってきた病院という職場で、若い医療従事者たちが直面し続けたのはその理想とはかけ離れた場面ばかりでした。これは今も現役で地域医療の最前線に立ちながら命をめぐる物語を書き続ける作家が、自らの体験をベースに書き記したリアルな診療記です。 命の終わりに寄り添い続けることで削られくじけそうになる気持ちをそっと奮い立たせてくれる安曇野の大自然と可憐な花たち。“命の終わりは敗北ではない”…若い看護師と医師が人知れず地域医療の限界と戦いながら、健気に働き成長していく姿を描くヒューマンストーリーです。」 とのこと。 義父の娘も医療関係者、また彼女も内藤ファン(というか『科捜研の女』ファン)だし、これは必見のドラマになりそうです。

樹間の空

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  私は上の写真のように木々の並びの間に開いた空が好きで、そのフレームとなるfoliageを含めて撮る。この写真は砧の家の近くで撮った、2週間前くらいのもの。 この構図で一番忘れられないのは・・・とは云えそのときはカメラを持っていなかったが・・・皇居(江戸城)北の丸公園の西の端、主にクスノキに覆われた、千鳥ヶ淵を望むベンチのある場所で眺めた空、そしてそのフレームとなったクスノキが成す<一幅の絵>あるいは<動画>だ。 当時(2001年辺り)はかなり精神的に落ち込まざるを得ない日々を過ごしており(旧ブログで再三書いたいわゆる「漱石病時代」)、なんと江戸時代は旗本・御家人の居住地だった新宿区砂土原町に<逆都落ち>で暮らし(とは云え「鰻坂」を上ったところのまさに鰻の寝床のようなワンルームだったが)、狛江での日々を懐かしんで泣いてばかりいた(嘘)。 そんな中で、その空は青く、一片の白い雲が「クスノキフレーム」の左から現れ、右「フレーム」に吸い込まれるように流れ行き、視界から消えてゆく。そしてまた新たな雲が・・・。 ただそれだけの絵、動画をずっと見ていた。そしてどれほどに「行雲流水」という言葉をこれ以上ないと言えるほど心に染み渡らせたことか。 そんな思い出の地だけれど、あまり行きたいとは思わない。娘と孫に会いに行けば、そう遠くない北の丸公園であり、自転車で行けば帰りに立ち寄ることもできるけれど、今のところ一度もそうしたことはない。「漱石病時代」はやはり総じて苦しい思い出が多かったからだ。それでも、<クスノキ・フレームのあの絵・動画>を観て、人生でもっともしみじみとした無常感を味わった時間は忘れがたく、良い思い出だと言っていい。

狛江市よいとこまたまたおいで

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世田谷清掃工場の煙突は、1988年に建設されたという。そのカラーリング・デザインは1040の公募案から選ばれたものだ。NHK技研のビルと並び、所在地および近隣の大蔵や砧のランドマークである。 * 「みどりぶた」さんから去る今月21日の記事についてコメントを賜った。狛江にかつて暮らした氏は、成城学園前駅の地下化に伴う工事で変貌した辺りの景に驚いていらしたのだ。 大きく言えば東京都23区の城南地区の最西部である世田谷(とその西南隣の狛江)に今も暮らす私ですら、その地下化がいつだったかとか、成城学園前駅の新宿方面の隣駅である祖師ヶ谷大蔵駅などが高架化されたのはいつだったかなど、覚えていない。 街並みの小さな変化はおろか、大きな変貌すらいつの間にか意識しなくなってしまう。 みどりぶたさんが昔住まわれた狛江の地区名は中和泉で、そこは今も大きな変化はない。我が娘が公園デビューした田中橋児童遊園もそのままだ。また、その近くには古墳群があって、田中稲荷塚古墳(跡地)、経塚古墳、亀塚古墳(亀塚古墳公園)、兜塚古墳と呼ばれる。さらに狛江市総鎮守の伊豆美神社があり、創建は平安前期、府中の大國魂神社から分霊勧請して建てられた。主祭神は大国主命で、境内には「井伊直弼公敬慕碑」がある。狛江(和泉村)も彦根藩世田谷領の一部だったからで、「敬慕」された直弼さんは名君だったのだろう。 中和泉(また元和泉)は、このように古墳はあるし、比較的大きな神社もあり、また多摩川の北岸で有名な松林(五本松と呼ばれる。富士山、丹沢山地、奥多摩・秩父の山々が見える景勝地。ドラマや映画のロケ地としてもとても有名)もあり、市立の公園もあって総体として緑の多いところだ。 みどりぶたさん、どうぞまたおいでください。

反省なくて慰霊なし

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昨日撮った砧公園内のトチノキ。トチノキは比較的紅葉が早いらしい。もう一部そうなっている。これはセイヨウトチノキで、この列島の固有種の日本トチノキではないらしい。 * 今日も東京は気温が上がらない。Kくんは外の仕事で暑くて厳しいと言っていたが、同情しつつも、今年の6月は近年の同月に比べはっきり低温傾向だ。私なんかは田舎で幼い頃から体験してきた昔の梅雨の時季を思い出す。去年の6月の気温だったら空調服を身につけていないとKくんは悲惨なことになっていただろう。 * 昨日沖縄慰霊の日だったが、「本土民」の一人として軽々に何かを書くことは当然憚られる。それでもこうは言える。県民の4人に1人が地上戦に巻き込まれて亡くなった(殺された)事実をどうやって本土民そして戦後世代が少しでも自分のこととして重く受け止められるかが毎年問われるのだ、と。 そして、東京大空襲や広島・長崎の原爆投下でその本土でも、人類の愚かさ・残酷さ極まるかたちで国民は犠牲になったことをも思い出し、こんなことが<絶対に>再びあってはいけないと強く誓い合い、少しでも戦争への方向へと進めようという動きがあれば、共に制していかねばならない。それしかない。 先の戦争について、1995年当時新進党の議員だった「元米国連邦議会立法調査官」の 高市早苗は「日本国民全体の反省があると決めつけておられるのですけれども、少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております。」と言ってのけている。 さらに2000年には、高市は「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』。この非常に『おめでたい』一文を、もし改憲の機会があれば真っ先に変えようと思っている」とも。 そんな輩が沖縄で<慰霊する>という情けなさよ。

巡る

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  凌霄花(りょうしょうか・ノウゼンカズラ)は私の好きな花のひとつ。東京でも庭先に咲いているのをよく見かけるが、なにしろ千葉の田舎、私が九十九里に行く際に通る集落では、夏、敷地の広い家々の庭に必ずと言っていいほどこの花が見られる。 中国原産。「凌霄花」は「霄(=天空)」を「凌」ぐ花ということ。その当て字の万葉仮名が「乃宇世宇(ノウセウ)」で、それが訛って「のうぜん」となった。「かずら」はむろん「蔓(=つる)」。 ご参考までに。 * 昨日午後は日差しがなかったので、思い切って自転車で都心へ。それほど発汗することなく行けたのだけれど、幹線道路を使いたくないので、裏道ばかり使っているうちにどうも回り道に過ぎたようで1時間半近くかかってしまった。 それでもたまの都心見物、そんなに飽きることはない。住みたくはないけれど、その活気はやはり刮目するものがある。 ああいうところで地所・不動産を持ったり、あるいは大組織の長として毎日を過ごしたら、そりゃ天下をとったというような気分になって、天狗になってしまう者も多く出ようというものだ。特に田舎者が成り上がって、ね。 * 娘から父の日のプレゼントをもらい、孫たちと食事をした。幸せである。こんな幸せに浴せるほどのことをしてきたのかと自問しつつも、とにかくうれしい。 上の孫(長女)は3歳、かなり話せるようになっているけれど、「この頃意味不明なことばを発して喜んでいる」と娘。「ああ、X(娘)もそうだったよ。アベリアの花を『セルラーグッジュ』と勝手に名付けて喜んでいた」と私。 巡るね。

2025 夏至を過ぎて雑記

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  もうだいぶ前、そう8年前くらいの川崎市多摩区登戸が写っている。今はだいぶ街並みが変わった。この街で私は本当に多くの体験をした。狛江市の対岸の街である。 * Kが昨日父の日にあたり、彼の父、そして父としての自分を語っていた。 https://www.youtube.com/watch?v=lyusC94_w0s 聴いていて辛い話もあったけれど、こうして赤裸々に自分にまつわる事実やそのことへの思いを語る彼は、やはり誠実な人だと言っていい。 彼も、登戸よりもずっと下流ながら、多摩川の川崎側(中原区)に思い出をいっぱい抱えている。 彼は今住む中野区よりも多摩川近辺の方が似合う気がする。 * 彼もそのVlogで触れていたけれど、昨日のW杯日本代表は天晴れなパフォーマンスを世界のサッカーファンに見せつけた。積み重ねに積み重ねてきた日本のフットボールの経験をとうとう今の世代の代表選手たちが世界最高水準の技へと結実させたと言っていい。 そのこと自体にケチをつけれるはずもない。冷笑的なことを言えるはずもない。ただただ称賛するだけだ。 しかし、と思う。思わずにはいられない。日本は、世界は、今本当にスポーツにうつつを抜かしていられるのかと。逆だ?憂き世だからこそ、スポーツなしにはやっていけない、ということか。 * Kにはすまないが、今日は娘と孫たちに会ってくる。1日遅れだが、父の日にあたり、感謝をしてもらえるようだ。気恥ずかしい。

Colorful World, Peaceful World

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  なんだか、あっしゃあ、写真のトリミングを怠る傾向がありますなあ。この写真も然り。まあ、いつかやりまっさ。 成城大学脇を東西に通る、つまり小田急線に並行する区道で撮った、もう2週間前くらいの日の出直前の景。 * 今日は夏至。奇跡の惑星・我らが地球の北半分にとって命の恒星・太陽のご尊顔を最も長く仰げる日だ(と言いつつ、良い子は直接仰がないように)。 そのありがたみを意識もせず、人間たちは争いまくる。天罰が下るよ、きっといつか。 * 今日は義父孝行の日(父の日)。夕方食事を共にする。義父は88歳、初冬に89歳となる。60年安保闘争のピーク時には大学4年だった。今日はそのことについても尋ねてみようと思う。 84歳になったばかりのPaulの5歳先輩だ。クラシック音楽ファンの義父(父親はYAMAHA=日本楽器の重役で自らバイオリンも弾いたこともあり)は、ちょいと年下のイギリス人バンド、しかも「騒々しい」音を撒き散らし、軽佻浮薄で由なしことを歌うあの4人にちっとも感心しなかったはず。義父の唯一<心許す>ポップ・ミュージシャンはCarpentersだ。古典音楽にも通じるRichardの編曲がすばらしく、もちろんKarenの美声が限りなく魅力的だからだ。 「安保反対!」はその闘争が終わった後でも、チビであった私すら覚えている。悲惨な戦争をしてしまってたった15年とかで、どうして日本が再び戦争に巻き込まれ、あるいは加担したりする発想になるのか信じ難いというのが当時の若者たちの思いだったはずだ。 そしてまもなく<平和の福音>を1963年、The Beatlesが世界中に届けだす。1967年には人類初の世界同時中継番組「Our World」で「All You Need Is Love」を歌って、特にベトナム戦争で揺れる世の中に世界平和を訴えた。サイケデリック文化、フラワー・ムーブメントは西側諸国の若者たちに急速に広がる。 戦争をする国には色がない。カーキ色や迷彩服の暗い緑・茶色・黒・ベージュくらいで陰鬱な世であり、だから無数に色がある世界はすなわち自由な世界、平和な世界だと言っていいほどだ。 そんな戦争時、人間が殺し殺されまいと右往左往しているのに関係なく、まさに超然として自然は時に人間をひれ伏せさせるような色彩を自ら纏う。それを目にした兵士たちがどれほど人間の、自分たちの、愚...

AI翻訳時代の陥穽

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  調布や三鷹(狛江もほんの一部)の野川沿い土手道の典型的風景。大好きだ。上流側奥の浮浪雲の姿がなんだかユーモラスだ。 * 私のXのタイムラインに並ぶ記事は、もちろんいわゆる「エコー・チェインバー」化ないしは「フィルター・バブル」化で偏っているだろうけれど、それがあったとしても我らが首相のサミットなどでの振る舞いに対する批判および嫌悪感を示すポストに溢れかえっていると言える。それらは要するに、「元米国連邦議会調査官」だったはずの人物がほとんどその肩書きが信用できないほど極めて稚拙な英語力しかないこと、そして英語で話されている内容に対し聞き取れていない(それ自体は罪でも咎でもない)ならそれなりの対処がある中、分かったようなふりをしつつしばしば大袈裟で下品な表情をつくることの不気味さ、おぞましさについてであって、こうした人物が国を代表していることへの嘆きなのだ。 彼女が国際会議などで英語原稿を読むビデオも拡散しており、それがAIに英語スピーチとして総合で「3.2/10点」と判定されていたりする。採点項目の中、「内容」だけが4点台だったが、これはライターが書いたのだから、彼女の手柄ではない。彼女が自分でもし原稿を英語で書いたら、悲惨なものになっていたのは疑いない。 そこで思った。 今AIの翻訳能力は非常に高く、日本語さえまともに書けていれば、かなりいい出来の英語に変換できる。後は、首相なのだから、政府内の最高レベルの添削者に仕上げをさせればいいわけだが(発音については措いておく)、ちょっと待てよ、と。彼女は果たして内容のある「まとも」な日本文が書けるのか、と。オバマ元大統領のスピーチの如き名文を。 この時代、英語を学ぶ小中高大学生らは、すでにAIの翻訳をどんどん使っているし、ゆえに例えば英単語暗記などに意味を見出せなくなる傾向がきっとあるはずだ。おそらくまもなく、非英語話者が自分のネイティブ言語を発話する途端に同時的に畏るべき精度で英語に変換する「AI Interpreter」が開発されるはずだ。だから、英語を学ぶべき理由がどんどん乏しくなっていくし、いずれなくなる、とも思うのではないか。 しかし、そこに重大な陥穽がある。 英語に変換される その元々の 言語、つまり自分の、英語ではない母国語の<内容>そして品格は、どう養われるというのか。他言語の学習により、母国語...

Paulの84歳誕生日

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  砧公園はいつまで経っても「黄黒テープ」が取れないまま。春に倒木事故が相次いでの措置で、一本一本安全性の確認中、なのだ。 * 昨日はPaul McCartneyの84歳誕生日だった。まだ現地時間なら当日だ。 彼の歌の中、一番好きなのはどれかと問われたら、好きなのだらけで優劣つけ難しというよりないのだけれど、パッと思いつくのは、You Never Give Me Your Money、We Can Work It Out、For No One、Here, There, and Everywhere、Hello, Goodbye、Hey Jude、Penny Lane、The Night Before、Fixing a Hole、The Endと、まあ、いくつもあるけれど、きっと「あ、まだあった!」となるパターンだ。 Johnとのライバル関係で、彼は特に共作をしなくなってからはいつもJohnのに劣らぬ、あるいは凌ぐ作品を目指した。 The Beatlesがどんなバンドよりもすごいのは、4人構成のバンド内に4人のsinger-songwritersがいたことだ。曲は、歌は、<四花>繚乱、アルバムは見飽きない花園だ、ということ。その内の3人が歴史的な名曲をものす才能の持ち主なのだから、信じ難いほどだ。イングランド北西部の港町Liverpoolの狭い地域で3人の天才がほぼ同時期に生まれ、後に知り合い、バンドを組んだという奇跡。 PaulはこのThe Beatlesを最も愛した。 Revolver というアルバムを発表し、1967年夏Brian Epsteinという「マネージャー」が亡くなった時点ですでにバンドの分解は始まっていたのだが、Paulがリーダーシップを発揮し、何とかそれを食い止めてきたのだけれど、それが他のメンバーには専横とも感じられるようにもなり、さらにJohnとGeorgeがそれぞれが独自の歌世界を追求するようになって、1967年から2年ちょっとでどうにもならなくなった。その絶望からLet It Beが生まれたのは疑いようがない。 PaulとRingoがまだこの世にいてくれている事実に、そのことを意識する時いつも震撼する。Paulについては声帯の衰え顕著で、新作が出たけれど、<同じ>singerとしてはもう聴きたいとは思わなくなった。切なすぎるからだ。...

ユウェナリスもびっくり

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  精一杯のzoomで撮った翡翠(かわせみ)くん。ちょっとピンボケだね。野川で撮ったのだが、確か三鷹市大沢の町内だったと思う。「水辺の宝石」という異称を持つ鳥で、なんと東京の野川でも仙川でもそう珍しくない。 * 今朝東京は雨。自転車による逍遥徘徊は厳しい。 * 世の話題事欠かない現代だけれど、今日本ではかなり多くの人の関心がフットボールのW杯とやはり大谷さん&Dodgersに向けられていると言えよう。私は概ね「国民的熱狂」とかには醒めている立場だが、冷笑しているとかではない。才能と努力の塊のような人々が最高度の技を競い合うのを見るのは愉快だし、感動もする。 しかしいつもこういう大規模スポーツ大会がある度思い出すのが、古代ローマの風刺詩人ユウェナリス(Juvenal)の『諷刺詩(Satires)』第10歌(紀元100年頃)「パンとサーカス(panem et circenses)」のことだ。為政者が食べ物と娯楽さえ与えていれば、民は政治に無関心になって御し易い、というような意味だ。 今の日本では(他国にはもっと深刻な例があろうが)、その「panem」すら安定して手に入れられない人もかなりいる。貧困率は2021年時点で15.4パーセント=約2千万人(厚労省調査。等価可処分所得127万円未満の人)。5年経った今、より深刻になっているのか? 企業倒産件数は2025年度全体で約10,300件(2年連続1万件超)であり、アメリカのイラン攻撃による原油不足で今年はきっとそれを上回るだろう。失業者、生活困窮者が確実に増える。さらに、AIに仕事を奪われる人も。 そして貧困の中「一発当ててやる」と気負う若者などが相当数出てしまう。それがスポーツなどによる栄達への意志に向かえばいいが、「闇バイト」に手を出すことになってしまったら最悪だ。

久しぶりに野川公園へ

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  昨日午前、久しぶりに野川公園(所在地は調布市、小金井市、三鷹市などにまたがる)へ独り自転車で行った。写真は初めて行った、野川公園の隣と言っていい武蔵野の森公園で撮った。調布飛行場に隣接し、この写真を撮った直後に大型のセスナ機(?)が超近距離で着陸進入、ものすごい音、迫力であった。遊んでいるチビちゃんたちは慣れているようで、特に大興奮はしていなかった。 これは同地点でiPhoneカメラにより撮った写真。冒頭のは光学ズームが利くNikon Coolpixによる。 野川公園は娘が小さかった頃(1990年代)に家族で最も頻繁に行った都立公園だ。緑いっぱいで、本当に気持ちがいい。昨日は晴れたけれど、大汗をかくような暑さではなく、湿度もまた高くなく、恵まれた。 昔も旧ブログで同様のことを書いたのだが、世田谷区成城4丁目で野川へ出て、その土手道をずっと西進して野川公園へ至るのだけれど、途中何本もの道路と交差し、信号があるところもあれば、信号なしの横断歩道となっているところもある。後者では、行き交う自動車が止まってくれるのを待つわけだけれど、大半のドライバーは私のような野川公園を目指す自転車乗りに慣れているのだろうし、また緑多いところだからだろうか、心に余裕がある人が多いらしく、ほとんど待つことなく横断させてくれるのだ。 例外は1台だけ、人見街道と呼ばれる道との交差点で無視された。ナンバーを見ると横浜。 * Xを見ると、またまた我が女性宰相の「英語力」「コミュ力」のことが大いに話題となっていた。「米国連邦議会立法調査官」という経歴をお持ちの方だから、当然ネイティヴ並みの英語力があるに決まっているはずなのに、G7の他の首脳らがテーブル外で話し込んでいるところで、彼女だけ席について椅子をクルクルさせている動画にはこっちが目眩がした。その話の輪に入って行っても理解できないのだからしかたがないと言えばしかたがない。 誤解しないでほしい。私は英語力がないことを揶揄ったり非難したりしたいのではない。彼女がさもその<麗しの言語>に熟達しているかのように経歴を語(騙)ったりしたこと、そう装うことを愚かだと言いたいのだ。 * 「福テレ空ネット」で斎藤気象予報士が明日福島県は梅雨入りになりそうだと言っていた。東京の梅雨の中休みも今日までらしい。 昨夜の地震はまあまあ揺れた。フィリピン海プレ...

1969年

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  Mooさんから、昨日の我が記事への反応をいただいた。名古屋の定時制高校に赴任した新人数学教師としてのお話である。 https://moo-new.hatenablog.com/ 「同僚教師たちと素晴らしい生徒たちに恵まれ、私の教師生活のスタートを飾るに相応しいものとなった」との締めの言葉には同慶の至り、今なら感知される「昭和的クサさ」がちっともクサくなかった、その時代の当たり前だった中の、Mooさんと生徒さんらの充実した青春物語に触れる思いをしつつ拝読した。感謝。 * 「 新人教師Moo」が名古屋へ赴任した年昭和44年(1969年)は、私が小6だった年、山内林子先生の特に厳しい算数の授業についていくのが大変だったことが第一の思い出だ。以前にも書いたが、どういう経緯だったか知らないけれども、我が「山内学級(6年2組)」は東京書籍の「新しい算数」という教科書の代表著者であった岩手大学・黒沢誠教授(後の学長)のご指導を受けるという栄誉があって、東北の方々から教師たちが見学に来たのだった。その日のため、とにかく特訓を受けた。1日全ての授業が算数という日もあった。 * そして話は大幅に跳ぶが、前年(1968年)小5のときに私は初めて自分の小遣いでThe Beatlesの Hello, Good-Bye のシングルを買ってますますこのバンドへの愛を募らせていたわけだけれど、彼らはこの年、最後のアルバム Abbey Road を録音していたのだ。 https://www.youtube.com/watch?v=KQetemT1sWc そのアルバム中、George Harrisonの Here Comes the Sun があって、Spotifyのデータでは、なんとJohn Lennonの Come Together 、そしてPaul McCartney の Let It Be (同アルバム収録ではない) という再生回数2位3位の曲をおさえ何とトップ、しかもそれらの2倍以上の数値(18.4億回)だという。 The Beatles最年少で、第三の男扱いだったGeorgeが超名曲 Something も発表し、このバンド最後のアルバムで一躍天才二人と並ぶ、あるいは凌駕する作曲家に成長したのだった。 そしてこのアルバムは、Paulのこの名言を以て実質 fine となる。 An...

昭和的クサさ

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姉の手による紫陽花。 * 今日も湿気はありつつ、冷房は一切要らない梅雨寒の東京である。 TVをつけると、CS放送で1962年日活作品『いつでも夢を』が放映されていた。途中から見て、途中でチャンネルを変えた。 1962年の東京が映し出され、都心の基幹道路の様子に本当に驚いた。恐ろしいほどの交通量で、排ガスがひどく、いくら高度成長期のこととは云えあまりの環境への無関心ぶりだ。無関心どころか、それが経済成長、首都東京というものだというような趣さえあった。主演の吉永小百合さん演じる「ひかる」がその煤煙の匂いさえも好きだというセリフを語らせられるのだ。そう語った荒川だかの土手下で相手役の浜田光夫さんと見つめる空はスモッグで霞んでいる。それでも、その空を好きだと言わせてしまう青春映画が当時大変な人気だったのだ。 私の生まれた昭和30年代は、そういう時代だったのだ。工業化こそすなわち先進国であるということ、第一次産業が比率的に小さければ小さいほど誇らしい国のありさまなのだ。はっきりそういうふうに私は社会科の授業で習った。だから、福島県でもいわき市(まだ5市4町5村の合併前だった。合併は1966年)と郡山市が「常磐・郡山地区」として「新産業都市」として1962年・昭和37年に国に指定されたとき、會津の人間たちは垂涎の的としたものだった。「いいなあ、浜通りと中通りは。會津を置き去りに発展していくんだなあ」というような思いだったろう。後年昭和40年代半ばに私はそのことを社会科の授業で知って、「差別じゃないか」と思ったことをよく覚えている。 また話は『いつでも夢を』に戻す。 前述のように途中から見て途中で見るのをやめたので、その間だけの筋書きを書くと、浜田さんが演じた少年は定時制高校の生徒で、すでに工場で働いているのだが、貧しい家庭をさらに支えたいと一流企業就職を目指し、勉学にも励み、学校も力強く応援し、推薦もしたのだが、結局その企業は「定時制高校の生徒と全日制の生徒のいずれを採るかとなったらやはり全日制だ」と少年を不採用にする。少年は衝撃を受け、自暴自棄になってしまう。吉永さん演じる町医者の娘ながら准看護「婦」でやはり定時制高校に通う「ひかる」を中心に周りの友人たちが少年の立ち直りを促すというものだった。 Mooさんは東北大理学部を卒業されてから、まず名古屋の定時制高校で教鞭を取られた...

今年紀野先生13回忌か

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  昨日、もう午後6時というのにまだまだ明るい夏至前の砧2丁目と4丁目の境、標高56メートルのところで撮った雲。ここは東京23区で最高地点と言っていい(ほぼ同じ標高で練馬区関町南4丁目がある)し、世田谷区内なら文句なく1位の標高なのだ。 この後「三本杉」と呼ばれる砧1丁目の交差点近くにあるサミットでさくらんぼを買った。すばらしい色合い、そして今食したが、甘い! 昨日は歩いているうちに少し暑さを感じたけれど、まだまだ近年の<あの>異常な蒸し暑さとはなっておらず、今日も涼しい曇天の世田谷である。 * 「師」と呼べるほどのお付き合いをいただいたわけではないけれど、「我が師」と言いたい狛江市猪方在住の仏教学者で宗教家の紀野一義先生が亡くなって今年の師走で13年になる。2010年だったか、私は紀野先生と<とうとう>狛江の多摩川土手道で邂逅したのだった。1990年辺りで、中村元先生の御本に出会い、その「弟子」と言ってよい東大印哲の後輩にして教え子、そして数冊の著作を共にした紀野先生の<わかりやすい>ご著作にもほぼ同時的に出会ってから20年ほど経ってのことだった。 私は、紀野先生が狛江、しかも多摩川のほとりに住んでいらっしゃることは ご著作での記述から 1990年にはもう知っていた。だからいつかはお会いできるのではないかとずっと待望していたのだった。先生が亡くなられるおよそ3年前にその希望が叶った。 先生はその場で署名入りのご著書を数冊くださり(奥様が走って持ってきてくださった)、その後葉書や手紙のやり取りをしていただいた。ある講演では、私との出会いを感慨深くお話しになったそうだ。 なのに先生がお亡くなりになったことを知ることなしに時間が経ってしまい、不義理をしてしまった・・・。無念だった。 しかし、世田谷に移った今でも、先生のご自宅近くの先生と遭遇した地点を通ることは多く、その度先生のお名前を念じる。まさに念仏である。先生のご遺影(先生が下さったお写真)は書斎に掛けてある。 『正法眼蔵随聞記』に「畢竟して何の用ぞ」という言葉があり、それを紀野先生は『仏教のキイ・ワード(講談社現代新書530)』で取り上げ、私が後々今に至るまでずっと考えさせられるほど印象的な解説をされている。 “But in the end, what availeth it?” 「畢竟して何の用ぞ。」 ...

雷、心太

今朝は昨日の朝よりもまた一段と寒かった。半端な長袖ではとても自転車で風切ることはできなかったのだ。この涼しさの<貯金>があって、これからやってくるだろう酷暑も少しは納得してやろうという気になる。(笑) * 昨日首都圏を襲った「ゲリラ豪雨」だが、世田谷区ではそう激しくことにはならなかった。今日も大気が不安定になるところがあるらしい。雷は家の中にいる分には嫌いではない。いや、それどころか楽しみですらある。 数年前、まだ狛江市東和泉在住の頃のある夜、多摩川土手からなんと栃木・群馬の雷雲と稲光、雷電が見えたのだ。雷雲下の方々には申し訳なかったけれど、本当にすばらしい、息を呑む光景だった。 會津の田舎では、あまり雷にまつわる記憶がない。けれども、私の生家の真南にはその名も「雷山(正式には羽黒山か)」という小高いところがあった。よほど落雷があったところなのだろう。ここは幼稚園児や小学校1年生のための遠足の地でもあり、飯豊連峰の眺めは抜群である。 この山から少し西へ行くと「會津三観音」のひとつで、大同2年(807年)に徳一大師により創建と伝えられる如法寺がある。ここへも子どもの頃よく行った。家からの標高差は100メートルくらいだろうけれども、雷山へのルートとは違う<羊腸の小径>があって、夏にここを登り切ると茶屋に辿り着く。ここが出す心太(ところてん)が絶品で、それが食べたくて登ったことも幾たびかあった。当時20円だったと記憶するが、どうだったろう。 昨夏そこへクルマで行ってみると、なんとその茶屋が復活していた。長く店を閉じていたはずだったが。登坂の苦労もなかったし、腹も満たされていて、結局入らなかったが、うれしいことであった。

A Day in the Life (June 11, 2026)

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  久しぶりに写真を撮ったなあ。今朝、夜明け。 * ポタリングの後庭仕事。枯葉・落ち葉をまとめるのと、草毟り。さすがに汗をかいたけれど、午前4時に自転車を漕ぎ出したときは長袖でも寒かった。他所は知らねど、東京 の今年の六月は実に快適な気温と言っていい。珍しいことではないか。 * Kがおととい私と別れて電車での「帰りが寂しかった」とVlogでつぶやいていた。その寂寥がよく分かる。私が彼の立場だったら間違いなく同じに感じた。彼はさらに「あと何回N(=私)とこうして会えるのだろうか」とも。嫌なことを言うな、ではない。その通り、もうそう多くないよな。「どっちが先か」で、彼は病気もしたし、今も身体のところどころに不調を抱えているがゆえだろう、「俺だ」と言ったけれど、「そんなの分かるかよ」と私は応じた。お互い、そんな日を迎えたくないが、いつかは必ず・・・。 * 昨日昼、土日なく働いた義父の娘が代休を取って、「COSTCOへ行きたい」とのこと。道路が混んだりしたらこっちの仕事が影響を受けるぞと思い渋っていたのだが、「COSTCOに行くのはエンタメなの」だと気晴らしを求める彼女に<孝行>するよりないと思い定め(!)、川崎市川崎区の「倉庫店」へ。 Naviの推奨で、まず環8、瀬田で246へ入り、旧道から多摩川沿線道路というルートだった。以前行った時は環8で大鳥居(大田区西糀谷)までずっと東進するコースを薦めてきたのにどういうことなのか。Naviにも気分があるのか。 多摩川沿線道路はかなりの基幹道路だと思うのだが、ずっと凡そ昔のまま、片側1車線。いや、それだから懐かしくていいねぇ。交通量少なく、快適なドライブだった。 店では肉や魚のなかなか贅沢な商品をホールセールで購入、当分それらが食卓に並ぶ。いつもはOKストアで週単位での<こじんまりした>食品を買っているわけで、それはもう、確かに冷凍前提の大量購入は気晴らし、エンタメになると合点した。 帰りもまだまだ午後3時台で交通量は多くなく、ストレス・フリーなcrusingとなった。

生徒の興味をひく授業

昨日はKとかなり長く一緒にいて、食事もし、さまざまなことを語り合った。そんな彼は今日中野の自宅から横浜市西区の現場へと向かう。なんという遠距離。彼が工事関係者から好かれ、信頼されているからこそ、つまり引く手数多ということ。それでも体調万全とは言えぬわけで、無理はするなと言うしかない。 * 「女王の教室」最終回で「仰げば尊し」が歌われた。私も中学の卒業式で歌ったけれど、「今こそ別れめ」のところの「め」について何も知らぬままだった。中学の国語の先生も全く触れなかった。今なら「こそ」という係助詞が「別れむ」にある助動詞「む」を已然形するからのことと知っている。「<こそ>已然、<や・か・ぞ(ぅ)・なむ>は連体形」と自ら五七五にして覚えたのはなんと私が塾で国語を担当させられたときだった。意味は中学生当時でも類推していた通り「今こそ別れましょう」ということだが。 こんなことをなぜ今書くのかというと、教師という人は、折りに触れ生徒に何かしら彼ら彼女らが既知としていることに関連づけて教えるべきポイントを解説すべきだ、ということを「今こそ言はめ」と思ったからだ。それにより少しでも生徒の興味を惹きつけられるではないか。 「仰げば尊し」を歌わせられる。ではその歌詞に中学国語の古文の分野で教えられるポイントが実際に使われていることを一言でも触れてくれていたら、なんと以降の歌唱の出来ばえにも影響することも十分ありうる。なぜ「今こそ別れむ」ではなく「今こそ別れめ」なのか。その「め」のところを納得しての[me:]は知らぬままの[me:]とはきっと違う響きになるはずだ。 こういうことは他の教科にももちろん言える。私は数学の教師には全く恵まれなかったと思っている。もちろん自分の頭の悪さを自覚した上で言っている。実際生活で使う加減乗除以外のことを知る・学ぶのがなぜ必要で、またそういう算数を超えた数学という教科の諸分野のおもしろみを、そしてそうした数学の概念を考えついた偉人たちのことをも教えてくれていたなら、と悔しく思う。 今まだ英語をお教えしている私は、できる限りそのことに留意して今日も・・・。

丁々発止、侃侃諤諤

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https://www.youtube.com/watch?v=V5qzDYYjefU 音楽を除いて、言語におそらくどの事物より興味を持つ私として、上の動画のアメリカ人日本語学習者TantrisとMatt、そして中国人日本語学習者「むいむい」 はもう数年マークしてきた人物たちだ。この三人はいわゆる「臨界期仮説」でのネイティヴになれる年齢までには日本語に<さらされず>、それを過ぎてからの学習者たちなのだ。そしてその日本語愛ゆえにYouTuberとして生計を立てられるほど多くの日本列島人と少数ではあろうが海外の日本語学習者の注目を集めてきているのだ。 欧米人としてMattは発音上の困難をほとんど乗り越えてちょっと聞きでは日本語ネイティブと変わらない。Tantrisはまだまだ<英語訛り>が抜けていないけれども、日本語とそのメタな部分に最も果敢に切り込んでいる思索の人だ。むいむいはもう完全にネイティヴ。誰ひとり彼女の日本語を聞いて列島人と思わぬ人はいまい。 米人と華人が日本語でここまで深い話ができるという実例を見せられて、昭和30年代生まれの會津人の私は隔世の感を覚えるしかない。 しかし、この日本語による外国人の日本語愛の話を聴かされて、私が一番に思ったのは、「ああ、丁々発止他者と言葉を交わしたい」ということだった。何かのテーマで、それにつき自分の意見を言い、他者の意見を聴き、調和があれば喜び、また異見が残れば引き続き宿題にすることだ。 昨秋Mooさんのお家を訪ねた折、夕食後幸夫ちゃんが上のような<議論の楽しさ>を求めてきたのだった。テーマは特に限られていなかったと記憶するが、彼の期待にどれほど応えられたかは知らない。それでも最後に「こういう話をしたかったんですよ」と彼は言ったのだ。激論と言ってもいい場面もあったなあ。 その中で、私は新右翼の「一水会」が正論連発していると言った。幸夫ちゃんは少し色をなして何か反論し、私は日本共産党のシンパであるMooさんに意見を求めると、「(一水会は)非常にまともなことを言っている」と応じて座が一瞬静まった。 今、女性天皇・女系天皇を完全に否定する者たちを、日本共産党も一水会も猛批判している。その論拠は概ね共通であって、至極「まとも」である。 今上天皇の一人娘(敬宮愛子さま)の処遇を、某県・ど田舎の衆議院議員などがしたり顔で決めるなどという...

真矢はクレマチスのやうに

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2年前の今頃撮った玉川野毛町公園のフェンスに絡まっていたテッセン(=クレマチス)。なんだか日本画ティックな図柄である。「clematis」はギリシア語由来でズバリ「蔓」の意味だ。「テッセン」の名の由来はまさに「鉄線」、茎=蔓が鉄線のように硬く切れにくいから。 この子(!)はキンポウゲ科に属するので毒(プロトアネモニン)がある。ご注意。 * 「教室の女王」の最終回が昨日CSチャンネルで放送された。もう21年前の作品ゆえ、今更何をここで語る、というところだけれど、今でも見る価値があると言う人も多いとのことで、確かに人生や社会の不条理をズバリ突いた「女王」教師阿久津真矢による「名言」もあったりする。しかし、これはいただけないというのもあって、筆頭は、 「愚か者や怠け者は、差別と不公平に苦しむ。賢い者や努力をした者は、色々な特権を得て、豊かな人生を送ることができる。それが、社会というものです」 だろう。 「愚か者や怠け者」が「差別」され「不公平」に苦しむとはどういうことか。「差別」ではなく<因果応報>だろうに。「賢い者や努力をした者」の「色々な特権」とは何のことで、「豊かな人生を送れる」と断言できる根拠は何なのか。 私なら、 「愚か者や怠け者は、相応の報いを受けてしまいます。賢い者や努力をした者は、物心両面で豊かな人生を送ることができる可能性が高くなります。しかしそれでもそういう果報者であっても突然の不幸に襲われもする。それが、社会をつくっている人間という生き物の実相と言えましょう」 と言うかな。 さらに児童からの「なぜ人は勉強するのか」という問いに真矢は、 「勉強は、しなきゃいけないものじゃありません。したいと思うものです。これからあなた達は、知らないものや、理解できないものに沢山出会います。美しいなとか、楽しいなとか、不思議だなと思うものにも沢山出会います。そのとき、もっともっとそのことを知りたい、勉強したいと自然に思うから人間なんです」 と答える。とすると、「勉強したいと自然に思うから」「人は勉強する」となって、トートロジカルな感が否めないけれど、発言の大部分には共感する。そして私ならもう少し補強して、 「勉強は、しなきゃいけないものじゃありません。人は勉強をしたくなるものなのです。これからあなた達は、知らないものや、理解できないものに沢山出会います。美しいなとか、楽...

梅雨寒の朝に

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起きたらやっぱり雨。さすがにカッパを着てあるいは傘をさして歩く気にはなれなかった。そんなもんで、こうやって朝も早よからブログ更新。 今朝ははっきり梅雨寒。この「梅雨寒」は比較的新しい季題ということで、芭蕉や蕪村、一茶などによるこれを用いた句はない。ならば私がー 梅雨寒や 布団を抱きて 夢覚めぬ * YouTubeでまず関東の歴史を辿るうちに古河公方と堀越公方のことを解説するものを見て、鎌倉公方成立に遡ったり、逆に永享の乱に進んだりしているうちに、やはりどうしても西日本の戦と言っていい応仁の乱に来てしまった。 日本史を学んだ人なら分かるだろうけれど、この応仁の乱ほど複雑な背景と進展ぶりを持つ出来事は珍しいと言っていい。私は受験生の頃、この乱のことは「試験には出ない。出たらもうあきらめる」という姿勢で本番に臨んだ。つまり不勉強のままにしたのだ。そして幸い、私が受けたどの大学もこの乱について出題しなかった! しかしまあ、人間とはいかに貪欲であることかと呆れる。なにしろ出世欲・名誉欲、そして体面保持のために、どれほど愚かになれば気が済むんだと言いたくなる。 ・・・今の宰相さまもちっとも変わらないね。 * 「嘉吉の乱」はかなりドラマティックだ。これをクライマックスにする大河ドラマを作ったらよかろうに。「籤引将軍」こと室町幕府第六代将軍足利義教が、赤松満祐の屋敷において「結城合戦(これは関東・茨城での戦い)」勝利を祝う場での猿楽鑑賞中、そのホストたる赤松の家臣らが乱入、首を刎ねられるのだ。義教による「万人恐怖」の横暴の果てであった。 もう「何度やったの」と呆れるばかりの信長、秀吉、家康モノから離れなよ、と言いたい。特に秀吉モノには辟易。彼という人間が大嫌いだからだ。 追記 義教だけでは「大河」にはならんわな。足利の十五代の将軍全部を扱ったらおもろいのんとちがいますか。

チョカモカ

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早朝成城3丁目の公園近くに在るお家のフェンス前に咲く、チョコレートコスモス。「チョカモカ」という品種らしい。遠くから見て、その際立つ花の色合いで茎が相対的に存在感を失くし、まるで蝶の群れが舞っているようだった。なんと私は急ブレーキをかけて戻り、背景をぼかせるNikonを持ってこなかったことを悔いつつ撮った。 * 佐々木朗希投手が圧巻のパフォーマンスで、世界の野球ファンたちを唸らせた。去年とかはあまりの不調でダッグアウトの中で泣いていたんだっけ。よかったね、another baseball prodigy from Iwate! スポーツってね、こんなご時世に何が野球だ、サッカーだ、などと言われかねない<play>、つまりは「お遊び」だ。けれどね、主にアメリカ合衆国を始め、中米、カリブ海諸国と、日本や韓国の選手が集うMLBでは、本当に国籍や「祖先起源集団(「人種」という言い方の代替)」の違いを超えて尊敬し合う図式が見られて胸が熱くなるんですよ、私はね。 サッカーだってそうだよね。世界中のチームが祖先起源を異にする人々で構成されていて、いいプレイをするかという1点で互いが競い、優れる者を謙虚に尊び、讃え合うのだ。もちろんその図式が徹底されてはいない事例がしばしば見られるのは確かだけれど、例えば最近だと、スコットランド・リーグ1部セルティクスFCの前田大然は、前年度リーグ年間MVP、セルティック年間MVP、SPFA年間最優秀選手賞を総なめ(個人賞三冠)したりし(今年度もすばらしかった)、スコットランドのフットボール・ファンにはすでに忘れられない日本人プレイヤーとなっている。 スポーツがこうしたうるわしい異文化・異民族間の人間交流を実現する側面を本当に称揚したい。 チョコレートコスモスはメキシコ原産だそう。日本の高温多湿には弱いそう。でも日本に入ってきて、「チョカモカ」という品種が生み出され、街中で普通に見られる花となっている。そして私のように、その美しさを愛でる者がいるのだ。

まさに「フラワーピープル」

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  昨日朝の空。成城大学脇を通る仙川の歩道から撮った。繊細な雲の美に目を奪われた。 今朝は昨日の朝に比べ一段と寒くなった。「涼しい」ではない、寒いのだ。珍しいではないか、近年の「盛夏先取りの灼熱の六月」を考えると。空は厚い雲に覆われ、北東からの風が吹いていて、東北でなら「やませ」と呼ばれる冷たい風だ。 * 何も書くことがない。 というか、書こうとするものがあっても、相当に時間を要するものになるのが必定。評論家としてここに書いているわけでもないし、億劫になる。 我が家から3番目に近い小さな公園・・・と言うよりは、谷戸川沿いの遊歩道だ。 ここの花を季節毎という感じで植え替え、手入れするおばあちゃんがいらっしゃる。「おばあちゃん」と言いつつ、私とひょっとすると同い年だったりするのかな。 お会いすると「おはようございます」、「ご苦労様です」、「ありがとうございます」とご挨拶し、労い、感謝する。しっかり明るく返事をしてくださる。今夏未だすれ違わない。まあ、私がここを通るのは今の時期だと午前4時台だから当然か。 こういう方は、資材提供は区からされるものの、無報酬で働いてくださっているという。頭が下がる。こういう方をこそ須く褒賞すべきだ。 それでも、こういう方の多くは「そんなご褒美をいただくためにやっているわけではありません」と辞退されるのではないだろうか。

水無月雑記 2

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先ほど、日の出直前の成城学園、小田急自転車置き場。 この近くを流れ、過日氾濫が懸念された仙川は、大量の水が流れたことで今一時的に川底がきれいになって清流のようになっている。結構なことだ。 家から出るとまず上着が要るなと思うほどに肌寒い。よほど運動をしない限りは汗をかくことも全くない、清々しい天気、気温だ。梅雨寒ではないのに、そして晴れているのに気持ちのいい空気というのは、まるで秋の朝のよう。うれしかばい。 * 自転車といえば道交法改正しても遵法意識、ちっとも改善が見られんばい。どがんなっとると。 * 世の中には、役者に、それも主役になるために生まれてきたとしか言いようがない人がいるものですね。昨日チャンネル・サーフしていたらまず「眠狂四郎」が画面に。成城4丁目住人だった田村正和さんだ。ハンサムばかりの役者三兄弟の中でも抜きん出て二枚目で、主役になるに決まっているような人だった。そして次には「女王の教室」の天海祐希さん。私は2005年のこの作品をついぞ見たことがなかったが、引き込まれたしまった。全くありないスパルタ指導法だし、さらに学校の運営側もこんなに一教師を自由にさせるはずもないし、荒唐無稽の一言ながら、それでも<unrealゆえの劇>ならその劇として成立しているのはもちろん、中毒性のあるものとなっている。完結編までもうビデオ予約した。 天海さんには近づきがたいくらい人間力の発散がある。こういう人、女性がいるのだなあとただただ感心する。

12.12 Reminder 3

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東京は台風一過ですばらしい快晴とはなっていませんが、日の出直前の東の空は美しかった。 そして「返り見すれば月傾きぬ」ならぬ「虹現れぬ」でした。早起きは三文の徳だ。 * 私は1979年に私の幼馴染である金子光良くんの呼びかけでVIAと後に呼称することになるバンドに参加しました。金子くんは横浜市に在る某大学の軽音楽サークルに属しており、融通が利いたために私たちはその大学の講堂で練習をすることができたのです。ギターは金子くんのいわき市時代の友人川口功くん、ドラマーは松川敬一くんで、二人は武蔵野の某大学でのサークル活動で知り合っており、ベースはK、そして金子くんがギターと松川くんが来られないときにドラムス、さらにヴォーカルで、私もヴォーカルおよびドラムスでした。 お遊びのバンドが多い中、VIAはかなりの線まで行っていたと思います。なにしろ松川くんがほとんどすでにプロ・レベルに達していたのが大きかった。 しかし、VIAはいろいろあって2年ほどで活動停止となりましたが、私のソロ活動(デモテープ制作)では皆が協力してくれ、それが当時Warner-Pioneer社でディレクターをされていたMick師の耳に留まり、私は当時TAOの3人を紹介され、その4人が母体となって後にEUROXになっていくのです。 12.12のギグというか「音楽会」では、そのVIAのメンバーたち、EUROXのメンバーたちも全員ではないにせよ集ってくれるわけです。そして今回の私がヴォーカルの4-pieceバンドでは、G Stringの2人のメンバー(がっちゃんとスティック)とTAOそしてEUROXの岡野治雄くんが奏で合ってくれます。(なお、2001年、私と岡野くん、スティックでDeafening Daphneというトリオを結成して活動をしてきました。解散はしていません。^^;) VIA、EUROX、G String、Deafening Daphneでの作品、そして私のソロ作品を、ゆる〜く演奏したいと思っています。そしてBeatlesを中心のカバーもね!

英語の歌詞なんて「イキフン」でいいんだよ

  Mooさんによると安曇野は台風一過となって暑くなったそう。東京は今雨は止んで、空気は湿気があるものの冷たいと言っていいでしょう。昼には我が(!)野川と仙川にlevel 4の警報が出たりしていました。我が家はその2河川も含めた多摩川水系が造った河岸段丘上に在るので、洪水などはまず心配ありません。また段丘の際でもないので、土砂崩れなどもありません。怖かったのは風ですが、今回は何事もありませんでした。 そのMooさんの台風一過写真を見て、下に目線を移すと、「ことば」の塊、すなわちスタンザらしきものがあって、「MNEMO」の文字も。 はっきり言って転載するのもつらいのですが・・・ 愛はCry 泣いて泣き続けてそれでも Never can stop my heart 忘れられない あなたが好きだから 愛はCry 誰にも言えなくてそれでも I say my life for you あなたが すべて 私には あなただけ 某日本を代表する技巧派の歌手が歌われたとある楽曲の歌詞の一節。作詞者の名は出しませんが、これで飯を食ってきたのならゆるい業界ですなあ。 Mooさんは「I say my life for you」に引っかかったらしいのですが、私はまずいきなり「愛はCry」にほとんど絶望的言語センスのなさを感じました。「愛は泣く」ということなら、「愛はcries」ですが、それじゃ<文法に縛られすぎてダメ>とかおっしゃるか。大体副助詞「は」なんか要らないしね。「愛cry」にすれば「I cry」に通じてまだ納得がいくけれど、全然感心しない。「愛は泣くこと」という意味なら「愛はcrying」だし。もしかして「愛は暗い」のダジャレ?寒いし。 「Never can stop my heart」でまた絶望。主語はどこ?Neverで始めたらNever can I stop my heartという倒置構文にしなければ。「I can never stop my heart」でしょうよ、普通は。また「stop my heart」って何?「心臓を止める」?「こころを止める」ってこと?どういうこと?まあ、英語には「My heart goes out to you(など)」という悔やみや慰めの表現があるけれど、「心が出て行く」と言えるなら「止める」こともあり得るだろうってこと?で、「止められない...

12.12 Gig Reminder 2

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  もう15年前とかになりますか?写真データはもうない複製なので・・・。左から治雄ちゃん、がっちゃん、スティックです。右の人物はスタジオ・オーナーでエンジニアのKonさん。 とにかくこの3人と12.12に奏で合います。 そして5時間の断続的な「音楽会」では、川口功くん主宰のGGJも出てくれることになりました。 https://www.youtube.com/watch?v=1W0AApGwHl4 このバンドにはKもいます。リューマチの彼が、ベースを再び弾ける状態になっていますようにとただ祈る! * そのK、昨日下高井戸での仕事が終わり、MooさんとNさんのタマネギ、そして余っている苦めなドリップcoffeeを取りに来てくれました。ハーゲンダッズを8個もお土産にして。 ひとしきり話をして、台風も接近中ということで彼は帰って行きましたが、荒玉水道道路(砧から高円寺陸橋下まで直通)でスイスイ行ったようで、予想よりも早く帰宅報告のメールをくれました。

水無月雑記 (多分その1)

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Mooさんのタマネギと、向かいのNさんのタマネギを切って混ぜ、そしてMooさんのキャベツを刻んで作った豚肉生姜焼きです。 * 先ほど大蔵運動公園内で撮った東天紅。 この「東天紅」は鶏が夜明けに鳴き出す声を模しつつ、その東の空が紅く染まるひとときを表す和製の句だそうだ。 台風が接近中とのこと。確かに西の空はもうすっかり厚い雲に覆われている。勢力がほとんど衰えないまま近づくというから、みなさま、気をつけましょう! 紫陽花に 雫あつめて 朝日かな(加賀千代女) というような台風一過の日になればいいのですが・・・。

1991年大河ドラマ『太平記』

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NHK大河ドラマ『太平記』は1991年の作品であり、この年の師走に娘が誕生した。それだけでも忘れられない年になったが、私はその頃新百合ヶ丘でも英語を教えており、駅周辺の整備がかなり進んでいて、津久井道(世田谷通りの延長)を挟んだ北側の丘を昼食休憩中に歩いていた多分この季節、つまり初夏に、ドラマで描かれる、本当は厭戦の人であったという尊氏像に感銘を受けて、 When There's No-One Left to Hear という歌が降りてきたのだった。 上はKがeditしてくれたショート・バージョン。演奏は発展的にG Stringになる前のELIXIRで、drumsがスティック、bassが山口じゅんさん、keyboardが佐々木聡作くん、そして名ソロを弾いてくれたguitarの川口功くんであった。録音は一口坂スタジオで、ディレクターは米人Steven Plunkett、ミキサー&エンジニアはイタリア系AussieのJohn(ファミリーネームは失念)であった。 新百合ヶ丘のその丘から北や東を望めば多摩川方面であって、条件が良ければ東京タワーも見えた。戦いの地となった矢野口や分倍河原、関戸もそう遠くない。<自分たちの幸福のために>14世紀に殺し合った人々のことを思ったのだった。 新田義貞が多摩での戦いにおける討幕軍の主要人物となったけれど、尊氏の足利家に比べれば、新田氏は同じ八幡太郎義家の子・義国の流れであっても家格がはっきり劣っていたという。主に足利家が北条氏ともそれなりの交誼があったからで、反面、新田氏は頼朝挙兵時に協力せず、北条氏とも無縁、官位もゼロで実質清和源氏嫡流筋となる足利氏の分家扱いだった。それゆえ義貞は今こそ家運の劇的上昇の機会ととらえ、後醍醐天皇の討幕の綸旨に従ったのだ。そういう野心も痛々しく感じつつ、しかし、もし私が義貞だったらどう動いただろう、などと夢想した。 稲城市矢野口は私のサイクリングコース内にあって、そこで特に義貞の遺子・義興が謀られて殺される戦いがあったと言われたら、そのことを想いながら、川の流れをじっと見続けた日もあった。 (戦史に残る「矢口」は稲城市のではなく、大田区の地区名であり、戦いもそこで行われたのであって、新田神社や武蔵新田もそちらにあるのだし、稲城市矢野口は関係がないとの説が有力だ。私もそうだろうとは思うものの、しかし...