2026年5月2日、尾垂浜に立ち寄っての想い
5月2日、東京を出てまず向かったのは九十九里。神栖への途上であるのだし、立ち寄らない手はない。
尾垂浜より銚子の犬吠埼を望む
ハマヒルガオが咲いていた
4月末はおろか、5月に入っても天気予報はなんだか不確かで、雨も覚悟しての出発だったけれど、我がうるわしの(!)尾垂浜(千葉県匝瑳郡旧・光町、現山武郡横芝光町)は快晴で、浜風でなく陸風が快く吹いていた。
旧・光町は匝瑳(そうさ)郡に属したので下総国の一部だったが、上総国山武郡に属する旧・横芝町と平成期に合併、人口の多い横芝に泣く泣く(?)従って上総に属すことになった。こういう<国跨ぎの合併>はそう珍しくはないようだが、田舎の市町村では珍しかろう。旧・光町の古老などは、下総と上総は全然違うなどと言って反対を貫いた人もいたのではないか。
この九十九里地域の上総と下総を分けたのは栗山川で、南側の上総、北側の下総という図式、この川がかなりはっきりとそれぞれの側の文化をも分けた。今でも横芝光町の町長が合併後20数年経っても住民の「日々の暮らしの中にも文化の違いを感じとれます」と認めているほどだ。
栗山川は元々「(高)句麗山川」であったらしく、下総台地に在る水源(成田市)近くの香取市栗(=句麗)源(かとりし・くりもと)に入植していた高句麗からの帰化人が名付けたという言い伝えがあるのだ。そして確かに高句麗からの人々がそこに暮らしていたらしい。
ところが元正女帝の御代(霊亀2年、西暦716年)、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷して、初めて高麗郡を置く(続日本紀)」という勅命が発せられた。栗源の高麗人は移住させられ、高句麗(高麗)王族の高麗王若光(こまのこきし・じゃっこう)の下、後の埼玉県旧・高麗郡(今の日高市や飯能市などの市域に当たる。1896年入間郡発足に伴い廃止)の開拓に当たったというのだ。
話は跳ぶが、同じ帰化人でも、同盟国だった百済からの人々は優遇され、畿内に居住が許された(摂津の百済郡)。当時<僻地>の高麗郡や新羅郡(埼玉県新座辺り)に高麗人や新羅人が住まわされた=開拓をさせられた=のとは大違いだった。
・・・さて、九十九里の、我がうるわしの尾垂浜、旧・光町のことだが、まだ記すことがある。この記事は、もし同好の士が居られればその方々のため、そして主に娘や孫のために書いている。私は娘とこの場所に関するシェアすべきことがたくさんあるからだ。今でも娘の母方の祖母がここに別荘を持っている。
そんなわけで「以降続く」とさせていただく。
コメント
コメントを投稿