ハート
がっちゃんと先日いろいろ話している中、AIによる楽曲作成のことを暫し梅一輪をちびちび飲みながら思案した。もうすでにAIが「作った」曲は世界中に流れている。Spotifyだかなんだか、すでにAIアーティストが人間の名とイメージを持って再生回数のtop 10などに入っているらしい。 私だって、AIでgenerateされた楽曲、また人工音声のヴォーカルに感動しかねない。いいものはいい、だ。もちろんそれがAIによるものだと聞かされたら、興醒めする。なぜか。それはハートがないからだ。AIにハートはないからだ。 AIとは知らずに聴いている中でそのハートを感じていることは大いにありうる。だから、「ハートがない」と言って興醒めするのはいわゆる「後付け」の理由なのだが、だらしはなくとも、その、見破れなさならぬ<聴き破れなさ>は、どうしようもない。作品が人間によるものかAIによるものかなど判定しようがないところまで来ているのだ。 そんな時代に、もし私がこれからもミュージシャンとして作品を生み出すなら、一体どうすればいいのか。AIを味方にするか、あるいは徹底的に避けるか。単にコンピューター制御のシークウェンスなどならとうの昔から使っている。そのプログラミングを私や多くのミュージシャンたちがやってきた。しかしさすがにAIに曲の創作の任に当たらせたことなどない。そういう使い方なら、ミュージシャンの独自性は保たれており、そのやり方でいいに決まっているのだから、これからもそうするし、さらにはますます音楽を徹底的にアナログ化する方向へ逆に走るかも知れない。 私のようなsingerは、ただハートで歌うしかない。その「ハート」とは何か。声帯に微妙な振動と温みを与える心臓の鼓動、それがもたらす熱かるべき血流だ。それはこの生への、この世への、そして愛するひとへの、愛情と哀切の肉体的反映なのだ。