投稿

Merciless Killers, Don & Ben

トランプははっきり、境界性パーソナリティー障害あるいはナルシシズム性パーソナリティ障害を患っていると言ったら、精神科医でもないのにと非難されるだろうか。 そもそも、元大統領夫妻をゴリラとして描くAI動画を出して罵倒したり、自分に反対する国民たちに排泄物を空から投下して嘲笑うmovieを作って喜んでいる米国大統領などいて良いはずがない。どうかしているのだ、彼、そしてそれを止めない取り巻きたち。 今イランの猛烈な反撃でトランプは焦っているに違いない。さらなる暴発が憂慮される。アメリカ国民の中でもこのイランへの攻撃に賛成する者は相対的に少数らしい。では多数派はなんとかこれ以上の暴挙を食い止めねばならない。 去年6月、トランプはバンカーバスターでイランのウラン濃縮施設などを「完全に破壊した」と言ったではないか。それゆえ今回の先制攻撃(国際法違反)の理由はなかったはずで、己に関するEpstein Filesへの関心を逸らすことが本当の理由だったのではとすら思える。 情報が錯綜し、またfake newsのあまた発せられており、困惑するだけだけれども、児童生徒であれ、赤ちゃんであれ、トランプとネタニヤフの愚かな決断で失われなくてよかった命がすでにこの世を去っている・・・ その事実で言える、あいつらは人殺しだ!

Awful...The World Being Ruled by the Fools

政府がバカすぎて、もう呆れ果てて、そして究極には花鳥風月を愛でる生き方が否定されているわけであって、極楽蜻蛉の私はどうしていいか分からない。 KOIZUMI Jr.は今朝の会見でアメリカとイスラエルのイラン攻撃を政府として支持すると言った。憲法前文の精神は一体どこにあるのか?アメリカのやることなら、そのリーダーがたとえ「deranged(多くの米国民がヤツに使う形容詞)」でも追随するというのか。 情勢分析も何もない!ただ一点、武力による現状変更には反対するという大原則に従って非難するだけだろうに。そしてそうせずに支持する?! 俺はなんという情けない政府の下で暮らしているんだろう。 爺が四季の変化を愛でて暮らすお気楽ではあるが人畜無害な日々の大元、すなわち平和を、脅かすどころか現実に壊している者たちへの憎悪で私は苦しい。

"Millions of people or more might die? Who cares?" ---Donald Trump

 アメリカとイスラエルのイラン攻撃が始まったそうだ。国際法違反は明々白々。これが第三次世界大戦へつながる可能性は誰も否定できない。トランプとネタニアフの狂気に世界が付き合わされ、そして多くの人々がこれから殺されていく。 なんという愚かな生き物だ、人間。

「その私」が<いる>と自覚する私

イメージ
  https://www.youtube.com/shorts/5ifhzLmct-0 Norwegian Wood はビートルズ1966年発表の楽曲(上のURLはawesomeなギター演奏)だけれども、邦題「ノルウェーの森」は誤訳だ。しかし、この題をつけた人は正確な訳では色気も何もないのを知っていたのだろうと思う。「ノルウェー産の木材」ではどうにもならない。だからわざと誤訳したのだろう。しかし、だ。Johnはその意味の英語タイトルが思わせぶりなあの歌にふさわしいと思ったのだ。日本語では情緒に欠けてNGだが、英語ではそんなことは決してない。不思議な現象だ。研究の余地がある。 村上春樹氏はそのレコードの邦題をそのまま小説名にした。「Wood」が「森」ではないことは彼も承知だったそうだ。 CHORUS部の || Em | * | * | * | F#m7 | * | B7 | * || のコード進行はすばらしい。特にF#m7で私はこの曲に最初に親しんだ頃の自分に戻る気がするのだ。圧倒的に若かった、あの頃の自分に、1、2秒の間。Em4小節での哀愁が、F#m7でふと弛む。その<ゆるみ>がなんとも心地良いのだ。その心地よさを最初に感じた10歳凸凹の私・・・その私が今もいる、と思えるのだ。 * 昨日はA級順位戦最終局。推しの伊藤匠二冠がまだA級にいないこともあって特段の感想もないのだけれど、直前インタビューでの発言でもまた明らかになった佐々木勇気八段の天真爛漫、純粋無垢にはときどき心打たれる。本当に真っ直ぐな青年だ。 A級優勝者、すなわち名人挑戦者は決まらなかった。永瀬九段と糸谷八段が共に敗れて7勝2敗、プレーオフとなったのだ。この頃ますます永瀬さんのことを尊敬するようになった私だ、糸谷さんも魅力的な棋士だけれど、永瀬応援だな。 降級は渡辺九段と中村太地八段。中村さんは実力がはっきり足りない。なんと竜王戦では下から2番目のクラスの5組なのだ。しかも最下位6組降級もありうる今である。順位戦だけはなんとかA級3期を保持したが、実力相応のことではなかったとしか言えない。捲土重来を期待する。

Apple

イメージ
ずっと「Odeon」レーベルだったBeatlesのレコードが自社Appleのになったのは1968年、シングル・レコードの「 Hey Jude c/w Revolution 」発売からだった。皮が黄緑色の🍏の皮付きの絵がA面で、半分割った果肉の絵がB面のセンター・レーベルに印刷されたのだが、その図柄が大好きだった。 上に掲げた、私が昨日撮った写真のリンゴは王林だ。ゴールデン・デリシャスと印度を掛け合わせて福島県が開発したという(1952年命名とのこと)。Apple Corpsのは「グラニー・スミス」でオーストラリアで偶然生まれた品種らしい。 ところで、Steve Jobbsがビートルズ・ファンゆえに(これは本当)自分の会社をApple Inc.と名付けたというのは誤りだそうで。ただし、Macのスタートアップ・チャイムの「ダーン(Bong!)」はBeatlesの「 A Day in the Life 」における最後のコードからインスパイアされたのは本当だ。ただしもしこのことに商標問題から拗れたことがある双方のこともあり、コンピューターのことのみに集中し「音(楽)」関係のことには立ち入らないとしていたはずのApple Inc. に対し Apple Corpsの方が また訴訟を起こすとしたら、直接の相手はJobbsではなく、Apple Inc.のサウンド担当者Jim Reekesだったよう。おもしろい話は続くが、ここまで。 * 私が中学時代大好きだったBadfingerというバンドはこのApple Corpsのアーティストだった。Beatlesと変わらぬ青リンゴのセンター・レーベルのレコードは、さらにこのBadfingerへの私の愛着を深めたものだ。 そのBadfingerがバンド終末期にAppleを離れWarner Brothersへ移るということがあった。その移籍直前に彼らは「 Apple of My Eye 」を発表した。 https://www.youtube.com/watch?v=T4GvCAuyJzc 邦題は「懐かしのアップル」だった。う〜ん、苦しいな。中学3年生だった私はその題名に大いに戸惑ったものだ。旧約聖書に出てくる慣用句が大元らしく(しかし今でも使われる)、ピッタリの邦訳はないだろう。すっきり訳せば「宝物」だ。これから去るAppleというレコード会...

ハート

イメージ
がっちゃんと先日いろいろ話している中、AIによる楽曲作成のことを暫し梅一輪をちびちび飲みながら思案した。もうすでにAIが「作った」曲は世界中に流れている。Spotifyだかなんだか、すでにAIアーティストが人間の名とイメージを持って再生回数のtop 10などに入っているらしい。 私だって、AIでgenerateされた楽曲、また人工音声のヴォーカルに感動しかねない。いいものはいい、だ。もちろんそれがAIによるものだと聞かされたら、興醒めする。なぜか。それはハートがないからだ。AIにハートはないからだ。 AIとは知らずに聴いている中でそのハートを感じていることは大いにありうる。だから、「ハートがない」と言って興醒めするのはいわゆる「後付け」の理由なのだが、だらしはなくとも、その、見破れなさならぬ<聴き破れなさ>は、どうしようもない。作品が人間によるものかAIによるものかなど判定しようがないところまで来ているのだ。 そんな時代に、もし私がこれからもミュージシャンとして作品を生み出すなら、一体どうすればいいのか。AIを味方にするか、あるいは徹底的に避けるか。単にコンピューター制御のシークウェンスなどならとうの昔から使っている。そのプログラミングを私や多くのミュージシャンたちがやってきた。しかしさすがにAIに曲の創作の任に当たらせたことなどない。そういう使い方なら、ミュージシャンの独自性は保たれており、そのやり方でいいに決まっているのだから、これからもそうするし、さらにはますます音楽を徹底的にアナログ化する方向へ逆に走るかも知れない。 私のようなsingerは、ただハートで歌うしかない。その「ハート」とは何か。声帯に微妙な振動と温みを与える心臓の鼓動、それがもたらす熱かるべき血流だ。それはこの生への、この世への、そして愛するひとへの、愛情と哀切の肉体的反映なのだ。  

新しい一片の感覚にも、自分の古い全過去がある

イメージ
小林秀雄『考えるヒント3』文春文庫pp240-241より長く引用する(いやあ、書き写すの大変だ)。なお改行は読みやすいように私が勝手に行っている。送りがな、句読点など原文のままである。 「古いものの中の何が新しいものに抵抗しているのかに注意する者は少い。いや、実際それは、こびり附いて落ちぬ汚れに過ぎぬのか、それとも確かに抵抗している生きた何ものかであるか、そう問うてみる者さえ少いのです。 併し、このささやかな問いこそ大切なのだ。本当の文化評論家が、先ず叩かねばならぬキイなのであります。誰も人間の進歩を望まぬ者はない、だが所謂進歩主義者は、最初から間違ったキイを叩く、と言うより、ピアノが違っている、と言った方がいいかも知れない。彼はcultureというピアノを叩くのではない、techniqueというピアノを叩く。 一国の文化も、一人の人間のように生きているもので、古いものと新しいもの、変らぬものと変るものとが、その中で肉体と精神の様に結ばれている。文化は、物が変化する様には決して変って行くものではない、人間が成長する様に変化して行くものだ。 もし一国の文化にも人間の様に自覚能力があれば、自分の新しい一片の感覚にも、自分の古い全過去があると言うであろう。進歩主義者の誤りは、かくの如き有機体に対する全体的直覚を持たず、文化という因果の鎖を*つまぐるところにあると思う。」 *「つまぐる」爪繰る。指先で次々と数珠などを手繰る。 もう20年近く前の今頃、私は千葉県北東部をランダムにクルマで走っていた。大好きな匝瑳郡旧・光町の尾垂浜が目的地だった。最短距離などを目指さず、寄り道を楽しんでいたのだ、北総(下総)台地の 田舎風景が慕わしくて。 失われた旧ブログにも書いたけれど、佐倉市なのか八街市なのか、あるいは酒々井町、山武市のどこかなのか分からないが、ある集落でクルマを降りた。道端の梅が見事だったからだが、ふと見ると近くの低い里山麓にこじんまりとした鳥居があり、そこから数十段の階段が見えたのだ。左右の斜面は笹藪や低い木で覆われていた。登り切った先も緑に覆われていて、神社や祠があるのかは不確かだった。 一緒にいた義父の娘と私だけ、他に誰もいなかった。数戸しかないような本当に静かな集落だった。階段を登りながら、私はじわりじわりと懐かしみ、親しみ、そして慕わしさを募らせていった。初めて来...