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杜、森

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砧公園バードサンクチュアリの椅子に座ってさっき撮った一枚 逆光ハレハレだけど、まあ、いいや * 私が神社仏閣が好きなのはなにしろまず杜があるからさ。都市の中でも田舎でも、木々に囲まれる神社仏閣の建物の美に感嘆しない人なんていないでしょ。 ああいうのを造ってしまう人々のこころ、なんだよ。美意識なんだよ。それに共感することが結局信仰心なんだと思う。雪の夜の神社仏閣なんて、もう、温帯モンスーンの島国の建築文化として極みまで行っているでしょ。そこにお燈明だよ。どんだけ美しくなりゃ気が済むんだって思うほどだ。 その文化に私は属していると思っているし、属したいのだよ。 だから国家神道を奉じているとしか思えないような神社なんかには辟易するよ。日本文化を声高に誇るのはまあいい。けれど、実はそんな野暮をしないのがそれこそ日本文化じゃないのか。「いいものだ」と心の中、思っていればいい。誇りすぎて、他国を、その民と文化を、蔑ろにするなんて、どうやって神社仏閣のたたずまいから出てくる態度なのだろうか。信じがたい。 * 「ブラタモリ」、見たよ。毎日のように歩いたり自転車に乗ったりして行くところが紹介されてた。成城学園構内は入ったことないけれど。 あれ見てて、「憧れの高級住宅地」ということばが何回か言われて、「ち」と舌打ちする人もたくさんいるだろうよ。ブルジョアの街の紹介なんて、反感を持つ人もきっと多くいるはず。私も、狛江や喜多見などに暮らしていなかったら、そして今砧に住んでいるけれど住んでいなかったなら、きっと「だからどうした」とTVをオフったろう。 でもね、成城はね、特に3丁目と4丁目はね、高級だ低級だとかの不動産屋的値踏みとかを超えていいところなんですよ。ひとえに国分寺崖線の段丘の緑があるからなの。その緑を育む「はけ」と川(野川)があるからなの。大江健三郎さんが4丁目に住んだのは、ただ憧れの柳田國男の例に倣っただけではないんだ。いつでも、たとえ四国の山村の森の規模には到底敵わなくとも、フィトンチッド漂う静寂の地へ行けたのですよ。新宿から10数分の駅を持つ街であっても。大江さんばかりでなく、そういう住宅地を求めた人々が集まったのが成城なんですよ。 「ブラタモ」、次回は東宝砧撮影所へ行くらしい。(もう行ってるんだけどね。)

「解」

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昨日、夕暮れの空 そうそう。なんだか私は神仏への信仰心篤い、宗教爺さんのように思われているかもね。 確かに科学でなんでも説明がつくなんて思っていないし、17歳最後の日々で幽霊は見るし、29歳のときには愛猫チロ昇天の奇跡は体験するし、世の中は今だって、そしてこれからも、ずっと不思議はあるし、中でも生命・存在の不思議に一般解は永劫出てこないと思っている。 「解」はそれぞれの人が見つけるもの、感じるもので、決して他の人にそのままシェアできない。まあ、多くの人が見つけられも、感じられもせず、終わるのだろうね。  私はもう見つけたか?いや。でも薄々、ある刹那ないしは瞬間、感じることがあるとは言えるかな。 それを言語化するのは今のところ無理。そんなこと言ってたら、もう時間はそうないのだし、言葉にできぬままになっちゃうぞ。そうだね。 どうしても今言語化すると、まず歌に、楽曲に、その「解」は織り込まれているだろう、ということ。不肖私が作り、歌うものにもあるし、もちろん他のすばらしい音楽家たちの作品や歌唱にも。自分が、音楽家が、「大好きだ、私はこれと一体だ」という時空間の一瞬のありさま、たたずまいを表現できたとする音の中にあるのだ。 その「解」はもちろん数値でもないし言葉でもない。自分が溶け込んだある時空間の一瞬のありさま、たたずまいの、音としての現れ(表れ)なのだから、流れてしまうものだ。 私は、そしておそらく多くの音楽家たちは、生命・存在の不思議へのその瞬間的に出現する「解」を歌い、奏でるのだ。

天津神3神を私も尊崇はするが

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 5月3日、神栖市に在るホテルを日の出前に出て撮った一枚。 * 神栖には息栖神社があり、これは「東国三社」と一括りされる古社のひとつ。残りは鹿島神宮と香取神宮である。香取神宮のみが利根川を挟んで南の下総(千葉県)に在り、あとの二社は常陸(茨城県)に在る。国(県)を跨ごうとも三社が成す三角は狭く、互いの関係性は歴史の素人でも深そうに思える。 義父の娘はこの三社をしっかり回り、御朱印をいただき、また「東国三社」参り完遂の証の「東国三社守」を手に入れた。私は運転手であって、それぞれの神社に着けば境内をウロウロしていただけ。信仰心は厚くないのだ。 というのは、私は神社なら国津神系をより崇敬するからだ。私の田舎では成立がはるかに古い(778年と言われている)天津神系の大山祇神社が有名だし、私も尊崇するけれど、町の地区単位で言うと熊野神社(村の鎮守の神という感じの小さな社)により親近感を覚える。これは室町時代に越後街道沿いの宿場となる町の原型が造られた頃に勧請・造営されたらしく、我が根本家はもともと二本松の者ゆえその頃には全く縁もゆかりもないけれど、遠く後年、大正期に移り住んだ我が祖父は間違いなく村の鎮守、産土神である「熊野様」をより身近に感じ信仰したに違いない。熊野様は、その祖父や祖母が檀家となって後年その墓所に眠ることになる曹洞宗常楽寺の北に隣接しているのだ。薩長中心の明治政府が推進した野蛮な政策である廃仏毀釈前はきっとこの常楽寺と熊野神社は一体だったはずだ。 熊野大社は主神がスサノオであり、国津神系だ。しかし、さすがは神仏習合のふるさととも言うべきこのお社(熊野権現)は、スサノオの「姉」アマテラス(天津神)も祀っているわけで、ここでも「国天習合」とも言うべきmingling(混淆、だが、混ざる要素は明確に区別できる形での混合で)ぶりだ。こういうところが私は好きなのだ。 また我が街区(原町と言う)の東隣の本町という街区は諏方(諏訪)神社を鎮守としている。諏訪大社も国津神系である(それはそうだ、主神タケミナカタは出雲大社の主神オオクニヌシの息子なのだから。そのタケミナカタを 出雲から諏訪へと追いやったのが、鹿島神宮主神タケミカヅチだ)。 そして過去に記したけれども、天津神系の大山祇神社の宮司様はなんとこの諏方神社の神主でもいらっしゃる。この辺りのいい意味でのいい加減さ...

今日も雑記(いつもか)

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この3月の写真だが、国分寺崖線の緑を求めるときに私がよく通る成城2丁目のある一角、豪邸が並ぶ。NHKブラタモリは明日この成城を取り上げると義父から聞いた。番組表を見たらその通り、野っ原が都内有数の高級住宅地に変貌するいきさつなどが紹介されるらしい(もちろん私はそのことについてよく知っている)。それにしてもいつロケに来ていたのかね。 * 田村正和さん(成城4丁目に住まれ、成城学園の中高大学卒)のことを昨日書いたが、時代劇スターとして彼に並ぶ二枚目俳優は栗塚旭さんだ。お二人ともこの世を去られてしまったね。 新選組(血風録、燃えよ剣)シリーズ、用心棒シリーズでの栗塚さんのニヒルな演技は本当に男も惚れる。そして左右田一平さんと島田順司さんとのトリオは時代劇史上でも特筆すべき「三匹モノ」だ。(島田さんは87歳でご存命らしい。うれしい。) * ものもらいを患っている。困ったもんだ。小学生の頃以来。免疫力が落ちているか。 * 茨城県南部・・・地震速報でよく見る地域名。まさに鹿行(鹿嶋、行方)地域を含む。中央構造線の東端と思しきところだ。また地震があったという。さほど大きくなかったらしい。鹿島神宮と香取神宮の「要石」が大地震を封じてくれているのかな?(微笑)

今日は長文なしで

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  そろそろ早朝ウォーキングかサイクリングに切り替える季節だ。夜の砧公園も魅力的だったが、やはり太陽に当たらないとよろしくないという想いが募ってくる。もちろん朝や昼に日光を浴びてはいるけれど。 今日明日は仕事なので、その準備でここでの長文を書くのは厳しい。 このGW中、CS放送ではVeraや古畑任三郎の一挙放送が行われた。さらに先ほどは時代劇専門チャンネルでやはり田村正和さんの「若さま侍捕物帳」が放送され、あまりのいい男ぶりに目がクラクラした。 成城4丁目のご自宅(大豪邸)は主人を失って今どんな様子なのだろう・・・その前を通るたびに思う。合掌も欠かさない。スターになるために生まれてきたような人。お自宅もその上に建つ国分寺崖線上を散歩されるのが趣味だったというけれど、草刈正雄さん、故・小澤征爾さんなどの成城居住の有名人とすれ違ったことがあったのだが、田村さんとは一度もお見かけすることはなかった。もしお会いしていたら私はあまりの感激に卒倒していたのではないか。 さて、準備だ。

2026年5月3日 鹿島城と根本寺間往還での想い

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YouTubeで、1963年に行われた鈴木大拙の講演を聴いた。1時間足らずのもので、彼の思想の一部を語るに過ぎないのだけれども、演題が「最も東洋的なるもの」というのだから、その思想体系の大本の部分が語られたことになろう。 彼が強調したのは「自然」ということばだった。欧米人はキリスト教の影響でこの世の生き物や事物は神により造られし(=被造)ものとするが、東洋では正に「自ずから然らしむ」ものなのだと。これは多くの人にとってよく耳にする論だが、1963年当時ではそういうこともなかったであろう。 それを聴いていて思ったのが、ラテン語 natura はまず「course of things」の意味だと語源辞典は言う。「ことのなりゆき」であり、鈴木が講演で後に語る中国の「道(Tao)」と取っても差し支えない意味だ。また「文字通り」と辞典は言いつつ、「生まれ、誕生」とも解す。「生まれ出ずること」なのだ。ここにキリスト教の影響はない。 そして神の被造物としての自然というキリスト教の考えが広がり、 natura は「生まれ・される(講演での鈴木の言い方)もの」となっていった。「自ずと生まれる」から「生まれさせられる」ということである。 さらに聴いていて思ったのは、和辻哲郎や、特に内山節の論、すなわち<日本語に自然に当たる大和言葉が存在しなかったことは、日本人が自然を客体化せず、その一部として包摂されていたことを示す>という主張である。 鈴木は明治以降日本人もこの自然客体化を欧米思想、主にドイツ思想からの影響でし始めたと言う。そこから「自然を征服する」などという考えも生まれてしまった、と。延いては、対立するものを包含せず、殲滅するという考え方に傾いていってしまったのだ。 さて、この講演を 砧公園を歩きながら聴いていて、私は根本寺と鹿島城址の城山往還の間思ったこととを重ねていた。 憎むべきは薩長中心の明治新政府による廃仏毀釈だな、と。そして、本地垂迹説からの神仏混淆・習合なる仏教と神道のどちらかによる<征服>ではなく<混淆>という知恵を持った我らが遠い祖先の「和の精神」、そのすばらしさである。 根本寺はかつて鹿島神宮と一体的とまでは言えなかったらしい(鹿島神宮寺がそうであったが、江戸最末期天狗党の乱で焼失した)が、廃仏毀釈という暴力・弾圧にめげずに神職鹿島家の墓所があり続けるほどで、その...

2026年5月2日、尾垂浜に立ち寄っての想い

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5月2日、東京を出てまず向かったのは九十九里。神栖への途上であるのだし、立ち寄らない手はない。 尾垂浜より銚子の犬吠埼を望む ハマヒルガオが咲いていた 4月末はおろか、5月に入っても天気予報はなんだか不確かで、雨も覚悟しての出発だったけれど、我がうるわしの(!)尾垂浜(千葉県匝瑳郡旧・光町、現山武郡横芝光町)は快晴で、浜風でなく陸風が快く吹いていた。 旧・光町は匝瑳(そうさ)郡に属したので下総国の一部だったが、上総国山武郡に属する旧・横芝町と平成期に合併、人口の多い横芝に泣く泣く(?)従って上総に属すことになった。こういう<国跨ぎの合併>はそう珍しくはないようだが、田舎の市町村では珍しかろう。旧・光町の古老などは、下総と上総は全然違うなどと言って反対を貫いた人もいたのではないか。 この九十九里地域の上総と下総を分けたのは栗山川で、南側の上総、北側の下総という図式、この川がかなりはっきりとそれぞれの側の文化をも分けた。今でも横芝光町の町長が合併後20数年経っても住民の「日々の暮らしの中にも文化の違いを感じとれます」と認めているほどだ。 栗山川は元々「(高)句麗山川」であったらしく、下総台地に在る水源(成田市)近くの香取市栗(=句麗)源(かとりし・くりもと)に入植していた高句麗からの帰化人が名付けたという言い伝えがあるのだ。そして確かに高句麗からの人々がそこに暮らしていたらしい。 ところが元正女帝の御代(霊亀2年、西暦716年)、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷して、初めて高麗郡を置く(続日本紀)」という勅命が発せられた。栗源の高麗人は移住させられ、高句麗(高麗)王族の高麗王若光(こまのこきし・じゃっこう)の下、後の埼玉県旧・高麗郡(今の日高市や飯能市などの市域に当たる。1896年入間郡発足に伴い廃止)の開拓に当たったというのだ。 話は跳ぶが、同じ帰化人でも、同盟国だった百済からの人々は優遇され、畿内に居住が許された(摂津の百済郡)。当時<僻地>の高麗郡や新羅郡(埼玉県新座辺り)に高麗人や新羅人が住まわされた=開拓をさせられた=のとは大違いだった。 ・・・さて、九十九里の、我がうるわしの尾垂浜、旧・光町のことだが、まだ記すことがある。この記事は、もし同好の士が居られればその方々のため、そして主に娘や孫のために書いて...