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久しぶりに野川公園へ

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  昨日午前、久しぶりに野川公園(所在地は調布市、小金井市、三鷹市などにまたがる)へ独り自転車で行った。写真は初めて行った、野川公園の隣と言っていい武蔵野の森公園で撮った。調布飛行場に隣接し、この写真を撮った直後に大型のセスナ機(?)が超近距離で着陸進入、ものすごい音、迫力であった。遊んでいるチビちゃんたちは慣れているようで、特に大興奮はしていなかった。 これは同地点でiPhoneカメラにより撮った写真。冒頭のは光学ズームが利くNikon Coolpixによる。 野川公園は娘が小さかった頃(1990年代)に家族で最も頻繁に行った都立公園だ。緑いっぱいで、本当に気持ちがいい。昨日は晴れたけれど、大汗をかくような暑さではなく、湿度もまた高くなく、恵まれた。 昔も旧ブログで同様のことを書いたのだが、世田谷区成城4丁目で野川へ出て、その土手道をずっと西進して野川公園へ至るのだけれど、途中何本もの道路と交差し、信号があるところもあれば、信号なしの横断歩道となっているところもある。後者では、行き交う自動車が止まってくれるのを待つわけだけれど、大半のドライバーは私のような野川公園を目指す自転車乗りに慣れているのだろうし、また緑多いところだからだろうか、心に余裕がある人が多いらしく、ほとんど待つことなく横断させてくれるのだ。 例外は1台だけ、人見街道と呼ばれる道との交差点で無視された。ナンバーを見ると横浜。 * Xを見ると、またまた我が女性宰相の「英語力」「コミュ力」のことが大いに話題となっていた。「米国議会立法調査官」という経歴をお持ちの方だから、当然ネイティヴ並みの英語力があるに決まっているはずなのに、G7の他の首脳らがテーブル外で話し込んでいるところで、彼女だけ席について椅子をクルクルさせている動画にはこっちが目眩がした。その話の輪に入って行っても理解できないのだからしかたがないと言えばしかたがない。 誤解しないでほしい。私は英語力がないことを揶揄ったり非難したりしたいのではない。彼女がさもその<麗しの言語>に熟達しているかのように経歴を語(騙)ったりしたこと、そう装うことを愚かだと言いたいのだ。 * 「福テレ空ネット」で斎藤気象予報士が明日福島県は梅雨入りになりそうだと言っていた。東京の梅雨の中休みも今日までらしい。 昨夜の地震はまあまあ揺れた。フィリピン海プレート...

1969年

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  Mooさんから、昨日の我が記事への反応をいただいた。名古屋の定時制高校に赴任した新人数学教師としてのお話である。 https://moo-new.hatenablog.com/ 「同僚教師たちと素晴らしい生徒たちに恵まれ、私の教師生活のスタートを飾るに相応しいものとなった」との締めの言葉には同慶の至り、今なら感知される「昭和的クサさ」がちっともクサくなかった、その時代の当たり前だった中の、Mooさんと生徒さんらの充実した青春物語に触れる思いをしつつ拝読した。感謝。 * 「 新人教師Moo」が名古屋へ赴任した年昭和44年(1969年)は、私が小6だった年、山内林子先生の特に厳しい算数の授業についていくのが大変だったことが第一の思い出だ。以前にも書いたが、どういう経緯だったか知らないけれども、我が「山内学級(6年2組)」は東京書籍の「新しい算数」という教科書の代表著者であった岩手大学・黒沢誠教授(後の学長)のご指導を受けるという栄誉があって、東北の方々から教師たちが見学に来たのだった。その日のため、とにかく特訓を受けた。1日全ての授業が算数という日もあった。 * そして話は大幅に跳ぶが、前年(1968年)小5のときに私は初めて自分の小遣いでThe Beatlesの Hello, Good-Bye のシングルを買ってますますこのバンドへの愛を募らせていたわけだけれど、彼らはこの年、最後のアルバム Abbey Road を録音していたのだ。 https://www.youtube.com/watch?v=KQetemT1sWc そのアルバム中、George Harrisonの Here Comes the Sun があって、Spotifyのデータでは、なんとJohn Lennonの Come Together 、そしてPaul McCartney の Let It Be (同アルバム収録ではない) という再生回数2位3位の曲をおさえ何とトップ、しかもそれらの2倍以上の数値(18.4億回)だという。 The Beatles最年少で、第三の男扱いだったGeorgeが超名曲 Something も発表し、このバンド最後のアルバムで一躍天才二人と並ぶ、あるいは凌駕する作曲家に成長したのだった。 そしてこのアルバムは、Paulのこの名言を以て実質 fine となる。 An...

昭和的クサさ

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姉の手による紫陽花。 * 今日も湿気はありつつ、冷房は一切要らない梅雨寒の東京である。 TVをつけると、CS放送で1962年日活作品『いつでも夢を』が放映されていた。途中から見て、途中でチャンネルを変えた。 1962年の東京が映し出され、都心の基幹道路の様子に本当に驚いた。恐ろしいほどの交通量で、排ガスがひどく、いくら高度成長期のこととは云えあまりの環境への無関心ぶりだ。無関心どころか、それが経済成長、首都東京というものだというような趣さえあった。主演の吉永小百合さん演じる「ひかる」がその煤煙の匂いさえも好きだというセリフを語らせられるのだ。そう語った荒川だかの土手下で相手役の浜田光夫さんと見つめる空はスモッグで霞んでいる。それでも、その空を好きだと言わせてしまう青春映画が当時大変な人気だったのだ。 私の生まれた昭和30年代は、そういう時代だったのだ。工業化こそすなわち先進国であるということ、第一次産業が比率的に小さければ小さいほど誇らしい国のありさまなのだ。はっきりそういうふうに私は社会科の授業で習った。だから、福島県でもいわき市(まだ5市4町5村の合併前だった。合併は1966年)と郡山市が「常磐・郡山地区」として「新産業都市」として1962年・昭和37年に国に指定されたとき、會津の人間たちは垂涎の的としたものだった。「いいなあ、浜通りと中通りは。會津を置き去りに発展していくんだなあ」というような思いだったろう。後年昭和40年代半ばに私はそのことを社会科の授業で知って、「差別じゃないか」と思ったことをよく覚えている。 また話は『いつでも夢を』に戻す。 前述のように途中から見て途中で見るのをやめたので、その間だけの筋書きを書くと、浜田さんが演じた少年は定時制高校の生徒で、すでに工場で働いているのだが、貧しい家庭をさらに支えたいと一流企業就職を目指し、勉学にも励み、学校も力強く応援し、推薦もしたのだが、結局その企業は「定時制高校の生徒と全日制の生徒のいずれを採るかとなったらやはり全日制だ」と少年を不採用にする。少年は衝撃を受け、自暴自棄になってしまう。吉永さん演じる町医者の娘ながら准看護「婦」でやはり定時制高校に通う「ひかる」を中心に周りの友人たちが少年の立ち直りを促すというものだった。 Mooさんは東北大理学部を卒業されてから、まず名古屋の定時制高校で教鞭を取られた...

今年紀野先生13回忌か

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  昨日、もう午後6時というのにまだまだ明るい夏至前の砧2丁目と4丁目の境、標高56メートルのところで撮った雲。ここは東京23区で最高地点と言っていい(ほぼ同じ標高で練馬区関町南4丁目がある)し、世田谷区内なら文句なく1位の標高なのだ。 この後「三本杉」と呼ばれる砧1丁目の交差点近くにあるサミットでさくらんぼを買った。すばらしい色合い、そして今食したが、甘い! 昨日は歩いているうちに少し暑さを感じたけれど、まだまだ近年の<あの>異常な蒸し暑さとはなっておらず、今日も涼しい曇天の世田谷である。 * 「師」と呼べるほどのお付き合いをいただいたわけではないけれど、「我が師」と言いたい狛江市猪方在住の仏教学者で宗教家の紀野一義先生が亡くなって今年の師走で13年になる。2010年だったか、私は紀野先生と<とうとう>狛江の多摩川土手道で邂逅したのだった。1990年辺りで、中村元先生の御本に出会い、その「弟子」と言ってよい東大印哲の後輩にして教え子、そして数冊の著作を共にした紀野先生の<わかりやすい>ご著作にもほぼ同時的に出会ってから20年ほど経ってのことだった。 私は、紀野先生が狛江、しかも多摩川のほとりに住んでいらっしゃることは ご著作での記述から 1990年にはもう知っていた。だからいつかはお会いできるのではないかとずっと待望していたのだった。先生が亡くなられるおよそ3年前にその希望が叶った。 先生はその場で署名入りのご著書を数冊くださり(奥様が走って持ってきてくださった)、その後葉書や手紙のやり取りをしていただいた。ある講演では、私との出会いを感慨深くお話しになったそうだ。 なのに先生がお亡くなりになったことを知ることなしに時間が経ってしまい、不義理をしてしまった・・・。無念だった。 しかし、世田谷に移った今でも、先生のご自宅近くの先生と遭遇した地点を通ることは多く、その度先生のお名前を念じる。まさに念仏である。先生のご遺影(先生が下さったお写真)は書斎に掛けてある。 『正法眼蔵随聞記』に「畢竟して何の用ぞ」という言葉があり、それを紀野先生は『仏教のキイ・ワード(講談社現代新書530)』で取り上げ、私が後々今に至るまでずっと考えさせられるほど印象的な解説をされている。 “But in the end, what availeth it?” 「畢竟して何の用ぞ。」 ...

雷、心太

今朝は昨日の朝よりもまた一段と寒かった。半端な長袖ではとても自転車で風切ることはできなかったのだ。この涼しさの<貯金>があって、これからやってくるだろう酷暑も少しは納得してやろうという気になる。(笑) * 昨日首都圏を襲った「ゲリラ豪雨」だが、世田谷区ではそう激しくことにはならなかった。今日も大気が不安定になるところがあるらしい。雷は家の中にいる分には嫌いではない。いや、それどころか楽しみですらある。 数年前、まだ狛江市東和泉在住の頃のある夜、多摩川土手からなんと栃木・群馬の雷雲と稲光、雷電が見えたのだ。雷雲下の方々には申し訳なかったけれど、本当にすばらしい、息を呑む光景だった。 會津の田舎では、あまり雷にまつわる記憶がない。けれども、私の生家の真南にはその名も「雷山(正式には羽黒山か)」という小高いところがあった。よほど落雷があったところなのだろう。ここは幼稚園児や小学校1年生のための遠足の地でもあり、飯豊連峰の眺めは抜群である。 この山から少し西へ行くと「會津三観音」のひとつで、大同2年(807年)に徳一大師により創建と伝えられる如法寺がある。ここへも子どもの頃よく行った。家からの標高差は100メートルくらいだろうけれども、雷山へのルートとは違う<羊腸の小径>があって、夏にここを登り切ると茶屋に辿り着く。ここが出す心太(ところてん)が絶品で、それが食べたくて登ったことも幾たびかあった。当時20円だったと記憶するが、どうだったろう。 昨夏そこへクルマで行ってみると、なんとその茶屋が復活していた。長く店を閉じていたはずだったが。登坂の苦労もなかったし、腹も満たされていて、結局入らなかったが、うれしいことであった。

A Day in the Life (June 11, 2026)

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  久しぶりに写真を撮ったなあ。今朝、夜明け。 * ポタリングの後庭仕事。枯葉・落ち葉をまとめるのと、草毟り。さすがに汗をかいたけれど、午前4時に自転車を漕ぎ出したときは長袖でも寒かった。他所は知らねど、東京 の今年の六月は実に快適な気温と言っていい。珍しいことではないか。 * Kがおととい私と別れて電車での「帰りが寂しかった」とVlogでつぶやいていた。その寂寥がよく分かる。私が彼の立場だったら間違いなく同じに感じた。彼はさらに「あと何回N(=私)とこうして会えるのだろうか」とも。嫌なことを言うな、ではない。その通り、もうそう多くないよな。「どっちが先か」で、彼は病気もしたし、今も身体のところどころに不調を抱えているがゆえだろう、「俺だ」と言ったけれど、「そんなの分かるかよ」と私は応じた。お互い、そんな日を迎えたくないが、いつかは必ず・・・。 * 昨日昼、土日なく働いた義父の娘が代休を取って、「COSTCOへ行きたい」とのこと。道路が混んだりしたらこっちの仕事が影響を受けるぞと思い渋っていたのだが、「COSTCOに行くのはエンタメなの」だと気晴らしを求める彼女に<孝行>するよりないと思い定め(!)、川崎市川崎区の「倉庫店」へ。 Naviの推奨で、まず環8、瀬田で246へ入り、旧道から多摩川沿線道路というルートだった。以前行った時は環8で大鳥居(大田区西糀谷)までずっと東進するコースを薦めてきたのにどういうことなのか。Naviにも気分があるのか。 多摩川沿線道路はかなりの基幹道路だと思うのだが、ずっと凡そ昔のまま、片側1車線。いや、それだから懐かしくていいねぇ。交通量少なく、快適なドライブだった。 店では肉や魚のなかなか贅沢な商品をホールセールで購入、当分それらが食卓に並ぶ。いつもはOKストアで週単位での<こじんまりした>食品を買っているわけで、それはもう、確かに冷凍前提の大量購入は気晴らし、エンタメになると合点した。 帰りもまだまだ午後3時台で交通量は多くなく、ストレス・フリーなcrusingとなった。

生徒の興味をひく授業

昨日はKとかなり長く一緒にいて、食事もし、さまざまなことを語り合った。そんな彼は今日中野の自宅から横浜市西区の現場へと向かう。なんという遠距離。彼が工事関係者から好かれ、信頼されているからこそ、つまり引く手数多ということ。それでも体調万全とは言えぬわけで、無理はするなと言うしかない。 * 「女王の教室」最終回で「仰げば尊し」が歌われた。私も中学の卒業式で歌ったけれど、「今こそ別れめ」のところの「め」について何も知らぬままだった。中学の国語の先生も全く触れなかった。今なら「こそ」という係助詞が「別れむ」にある助動詞「む」を已然形するからのことと知っている。「<こそ>已然、<や・か・ぞ(ぅ)・なむ>は連体形」と自ら五七五にして覚えたのはなんと私が塾で国語を担当させられたときだった。意味は中学生当時でも類推していた通り「今こそ別れましょう」ということだが。 こんなことをなぜ今書くのかというと、教師という人は、折りに触れ生徒に何かしら彼ら彼女らが既知としていることに関連づけて教えるべきポイントを解説すべきだ、ということを「今こそ言はめ」と思ったからだ。それにより少しでも生徒の興味を惹きつけられるではないか。 「仰げば尊し」を歌わせられる。ではその歌詞に中学国語の古文の分野で教えられるポイントが実際に使われていることを一言でも触れてくれていたら、なんと以降の歌唱の出来ばえにも影響することも十分ありうる。なぜ「今こそ別れむ」ではなく「今こそ別れめ」なのか。その「め」のところを納得しての[me:]は知らぬままの[me:]とはきっと違う響きになるはずだ。 こういうことは他の教科にももちろん言える。私は数学の教師には全く恵まれなかったと思っている。もちろん自分の頭の悪さを自覚した上で言っている。実際生活で使う加減乗除以外のことを知る・学ぶのがなぜ必要で、またそういう算数を超えた数学という教科の諸分野のおもしろみを、そしてそうした数学の概念を考えついた偉人たちのことをも教えてくれていたなら、と悔しく思う。 今まだ英語をお教えしている私は、できる限りそのことに留意して今日も・・・。