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八正道の三、正語

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昨日の世田谷区大蔵、仙川河岸段丘下「はけ(崖から染み出す水)」溜まり。おしどり(鴛鴦)夫婦とは言うが、カルガモ夫婦。いつもこの2羽がいる。 * 先日上げた山躑躅や諸葛菜を撮ったカメラは、買ってもう十数年経つもので、近年はもっぱらiPhoneばかり使ってきた。しかしその超旧機種Nikon Coolpixのスペックがそう劣ったものではないことをそれら写真をここに上げてみて認識、再び使おうとSDカードのスロットとバッテリーをアマゾンから購入した。なにしろ光学ズームが10倍で、その点捨てがたいものだったのだ。 * 大谷さんがまた大活躍。敵投手に球をぶつけられたり、敵のキャッチャーにわざとではないにしろ左肘に牽制球をぶつけられて痛みが残り、昨日は投手のみ、DHはあきらめたそう。そして結果は今年サイ・ヤング賞が獲れるだろうというような出来。畏れ入るばかり。 しかしだ。その左肘に走った激痛に思わず「Fuc*!」と大声で叫んだシーンをTwitterだかYouTubeだかで見た。 野卑なことばを吐きたくなる気持ちは重々わかるけれど、しかし、大谷さんは人前でそれをやってはいけないと私は思うな。衣笠祥雄さんも言ってらっしゃる、プロ野球人は常に子どもの範たれ、と。 このfで始まるfour-letter wordはあまりに人口に膾炙していて、もはや悪態をつくときの常套語だからアメリカでも「How vulgar!」などと非難する人もほとんどいないだろう。しかし、人気者として、MLBのスーパースターとして、また娘を持つ父親としても公に使うべきでない。 私は鮮明に覚えているけれど、80年代初頭、「ジジイ」という語をTVで公然と使い出したのはビートたけしである。そしてもちろん対語の「ババア」も。育ちのいい私(!)は本当にショックを受けた。會津では決して言ってはいけない言葉だったからだ。 今やその両方とも平気の平左で公然と使う者おびただしい。さらには「クソ」付きで。ことばに慎みがない世になってしまったと思う代表例だ。 最後に言っておくけれど、私はそういうことばを決して吐かないのではない。独りでいるときには使ってしまうことがある。そしてその度に「和顔愛語」と唱えて合掌する。(ぷ)  

抜き身になるな

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  “We don’t take an oath to a king, or a queen, or to a tyrant or dictator. And we don’t take an oath to a wannabe dictator. We don’t take an oath to an individual. We take an oath to the Constitution and we take an oath to the idea that is America – and we’re willing to die to protect it.” 訳 : 「我々は国王や女王、専制君主や独裁者に誓いを立てない。そして、独裁者になりたがる者にも誓いを立てない。我々は個人に誓いを立てない。我々は 憲法 に誓いを立て、アメリカという理念に誓いを立てる。そして、それを守るために死ぬ覚悟がある。」 2023年、第一次トランプ政権で統合参謀本部議長であった マーク・ミリー陸軍大将の言葉だ。 * 自衛隊員を死なせたくないから、外交はとにかく最後の最後まで武力に依らないようにするのが政治家の、国民の、果たすべきことだ。自衛隊が好戦的内閣や政党と親和性が高くなってしまえば、自らを危険にさらすことになる。まさか「自衛隊員であることとは、死ぬことと見つけたり」ではなかろう。そういう隊員もいるだろうけれど、愛国心に燃える自分はどうあれ、仲間の体が吹き飛ぶところを見てみたいはずもない。しかし戦争とはそういうものだ。なるべく、最後の最後まで、自分たちが殺し合いを始めずに済む世のままでいてほしいと望むのが正しいに決まっている。 「あなたは抜き身みたいな人。よく斬れます。でも本当にいい刀は、鞘に収まっているものですよ。」 『椿三十郎』の城代家老奥方のことばだ。 英訳もいい。 “You're like a  drawn sword . Sharp,  naked without a sheath . You cut well . But good swords are kept in their sheathes .” * さて、庭の椿や柚子の葉が昨夜の雨でたくさん落ちた。今は晴れている。歩けるぞ。上のセリフのシーンが撮られた砧撮影所辺りを散歩...

さういふ境地

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輝く若葉を見て清新な気持ちにならない人などいないだろうね。すがすがしい、その一言だ。この写真についての情報を見ていないので、おととし撮ったこの木立が砧公園のものか、国分寺崖線のものかは分からない。どっちにせよ、世田谷の緑だ。 * YouTubeで荘子の言葉をうつらうつら、眠りに入る前に聴いていた。 Happiness is the absence of the striving for happiness. 楽は無求にあり。求むれば則ち失う。 荘子は上のままのことを書いたわけではないらしい。英文を私なりに訳せば、「幸福とは幸福を求めることがないということだ」となる。 さらに 『荘子』外篇・至楽篇(しらくへん)における髑髏(しゃこつ)との対話部分では、 髑髏曰:「死、无君於上、无臣於下、亦无四時之事、從然以天地為春秋、雖南面王樂、不能過也。」  (「死せば、君上(くんじょう)に无く、臣下(しんか)に无く、亦四時の事无し。従然として天地を以て春秋と為す。南面王の楽と雖も、能く過ぎざるなり。」 ) すなわち、 「 死ねば、上に君主もなく、下に臣下もない。四季の労苦もなく、ゆったりと天地とともに永遠の時を過ごす。南面して王となる楽しみでさえ、これに及ばない」 と。 養老孟司さんも、スマナサーラ師も、生老病死を見て見ぬ振りをし、自分は死なないとすら思っているような現代人に呆れていらっしゃる。お二人とも今癌を患い、その「四苦」の真っ只中におられるけれど、「道(TAO)」の何たるかを知っておられるからすこぶる泰然としたものだ。(スマナサーラ師の場合はそれを「道=無為自然」とは言わず、無執着と言うか 。) さういふ境地に、私はなりたい。

こてんぱん

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人の悪口を言うのは褒められたことではない。言いたくなってしまうのはしかしほとんどの人の性、実にhumanなことだとも言える。 それでも、根も葉もないことで悪口を言うのは褒められたことではないどころか罪である。 私は敬宮愛子内親王が皇位を継がれるのが正しいと思っているし、内親王のファンだけれど、現行の皇室典範の<欠陥>ゆえに「皇嗣」などというご身分になった秋篠宮のご長男が<無用に>叩かれることについては眉を顰めるしかない。 ご長男は本当にお気の毒だ。誤った「伝統」解釈の犠牲者とも言える。 おととし玉川大学のビオトープを訪れた際、ご長男は「<しかくい>ですか」と関係者に尋ねた。ある植物を見つめながらの発言だった。彼を好ましく思わぬ人々の中に、「<四角い>ですか」と尋ねるなど小学生かなどと悪口を言う者がネット上にそれなりの数現れた。しかし彼の問いは見ている植物がカヤツリグサ科の「シカクイ(=四角藺)」であるかどうかを尋ねるものだったのだ。 * 下旬にまたがっちゃんと会食することになった。私からのリクエストに応じてくれたのだ。それまでに何かしら彼にギターを弾いていただく計画を練っておきたいと思っている。そのことにつき、話し合えればと。  

自由を削がれて喜ぶ(rock) musicianなどいるか!

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もう10年以上前の今頃に撮ったヤマツツジ。日本百低山に数えられる(ウソ)川崎市多摩区の枡形山(標高84m)の山腹に自生している。 * ロックがイコール反体制であるかどうか。体制がしっかり人権を尊重する民主主義の良い形態をとっているのなら、反体制的であるべきはずもない。なんだか「ロック」という言葉がこの国では一人歩きしている。 ロックの黎明期は知らず、以降それを巨大な音楽ムーブメントにした歌手やバンドのうちのひとつがBeatlesであることには誰も異論を挟めない。Beatlesはpeace & loveだと言った。人種差別にも強く反対した。その頃、世はベトナム戦争で世界史的危機にあった。彼は経済体制とかには全く頓着しなかったはずだ。彼らの富は資本主義体制だからこそ生み出されたのだし。要するに、自由、平和(非暴力)、平等(福祉)が尊重される社会ならOKだったのだ。 JohnおよびBeatlesは1968年に、 if you go carrying pictures of Chairman Mao You ain't gonna make it with anyone anyhow と Revolution で歌っている。「毛首席(=中国共産党、冷戦の東側リーダーの一人)の写真を持って行っても、誰とであれ、どういう形であれ、成功はしないぜ」。 この歌でJohnは<革命が破壊なら俺を当てにすんな>とシングル盤では歌っていて、しかし、他のバージョンでは「当てにしろ」とも歌うのだ。そんな政治的なことをロック音楽で語りつつ、最後は「Don't you know it's gonna be all right?」と連呼する。楽観主義だ。つまり、どうせうまくいくんだから、殺し合いとかはやめておけ、意味ないぜ、ということだろう。 私はrock musicの本質とは自由だと思っている。ほぼ何にも囚われなくていいのだ。もちろんそれゆえ醜悪な音にもなりうる。それで皆から忌避されても、それはそれ。とは言いつつ、どんなに自由とは言っても、楽典的音楽理論的制約はどうしたって残る。また、技量的なスタンダードももちろんある。下手くそではどうにもならない。こうした制約の中の自由だ。逆に言うと、制約はそれだけだ。 誰もが首肯できる制約はありつつも、なにしろ自由を否定するro...

Ian, how dare you...

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もう11年前、「安保法制」反対デモに参加したのだった。そのことにつき同じ思いの人たちと声を上げたのは心強く、うれしい経験だった。参加者は2万人を超えていたらしい。 今、同じように高市内閣に反対し、戦争をやめろ、戦争に加担するなという声が全国各地で公然と上がっていることに11年前の気持ちが蘇っている。 写真は右下がりに撮れているが、それが却って<国の揺れ>を感じさせている。自画自賛だが、いい写真だ。 その高市サマがDeep PurpleのドラマーIan Paiceらを招いて、自分のサイン入りのスティック(!)を贈呈したそう(気味が悪くて詳細を知る気になれない)だ。 Ianはあのトランプ=高市会談での報道を見なかったのだろうか。見ていないとしても、見ていたとしても、私はIanに大いに失望するのを禁じ得ない。見ていないならあまりに不勉強だし、世界情勢について無関心に過ぎる。また見ていたなら、百数十人の無辜のイラン人少年少女を殺して恬として恥じない、良心の呵責を感じていないトランプを称揚する政治家と、たとえ宣伝のためとは云え、表敬訪問するなどrock drummerとしてと言う前に人間としてあり得ない。 少年時代、「パープルとツェッペリン」がハードロックの最高峰と並び称されていて、私はどっちも好きだったけれど、Led Zeppelinの方に断然知性を感じていた。それが決定的だったというわけではないけれど、音楽的に対等ならZeppelinが勝ちだと思っていた。Deep Purpleは大好きになった途端(あくまで私の時間軸でのことだが)、リード・ヴォーカリストIan Gillanが抜けてしまった。そして次にはギタリストRitchie Blackmoreも。Led Zeppelinにはそういうことがなく、最後はドラマーJohn Bonhamの不慮の事故死で、事実上解散となった。バンドとしての結束もLZの勝ちだと思う。 Ian Paiceは本当に高市っつぁんが言うように「神様のよう」だった。特に「Fireball」のドラミングには圧倒された。テクばかりでなく、センスの良さにも本当に心酔した。 でも、もう、彼は「神様のよう」ではなくなった。

Je pense

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歳をとればとるほど執着が少なくなるのは本当だと思う。無くなるというのではもちろんない。少なくなるのだ。考えてみれば当たり前で、執着したところで、それが<長期戦>になると見込まれれば刀を鞘に収めるしかない。戦う自分がそれまでもたないのだから。 少なくなった執着の中、最期まで残るのは生きることへのそれだろう。それすらもなくなったら、お釈迦様の境地である。 何かしら生きている実感が欲しいというのは理解できる。しかしそれが功を焦ることにつながるのなら「今更なんだね、いい歳して」と言うしかない。承認欲求というのは死ぬまでついて回るのだろうけれど、しかし、それより大事なのは、<やっていることの誠>だ。 なんだそれは。 生きている実感を求めているのなら、それはどうすることで得られるというのか。暇つぶし程度のことではどうにもならない。生きている実感を得るためにしていること、それを作品ということにすれば、その作品はそれまでの<自分のすべての投影>である。「やっていることの誠」とはだから、作品に対しての誠実、なのだ。自分のそれまでの営為が素人域を脱していないのなら、今やっているのも素人のそれであって、ただの暇つぶし、やっているフリ、だからますます生きている実感から遠ざかって虚しい。ただし、素人は素人なりに生きている実感があると言うのなら、それはそれ、否定はしないけれど。 パスカルはそういう営為を「divertissement(気晴らし=暇つぶし)」と言って、それは<自己欺瞞を深め、真実(神や永遠の救い)から目を背けさせ、気づかぬうちに死へと導く>のだと。さらに、<人間のすべての不幸は、一人で部屋に静かに座っていられないところから来る>とも。 座ってばかりいては体に悪いから、彼の言葉を全て拳拳服膺するわけにはいかないけれど、外に出て何かやっていれば充実だとする短絡は本当にいけない。 ではMNEMOはどうなんだ、こうした論を展開しつつ、一体何を今していると言うのか。お前の「生きている実感」はどう得られているのか。 そうね、いい音楽を聴き、本を読み勉強をし、若者に英語を教え、外に出て大きな空を見、木々に囲まれる。これで十分だなあ。 そして<いつか>それら営為から掴んだことを歌にする。 (いつだよ!) (だから、焦ったってしょーがねぇんだよ。)