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伯母の通夜、YAMAHA、 楠

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昨日は、義父の嫂、N家惣領J氏妻だったK子伯母様のお通夜だった。92歳没。会場は埼玉某所で、私は義父とクルマで行き、義父の娘は仕事場から直行した。 N家は過日書いたように元々の出は和歌山で、紀州藩士の家柄だった。階級は「定かでない」と義父の父は『私の歩いてきた道』という自伝で書いている。その、長くYAMAHA(日本楽器製造株式会社)に勤めた「義父の父」K三氏は、大阪・心斎橋の生まれ育ちだった。N家はゆえに関西が本拠だったわけだが、浜松本社で働いていたK三氏は転勤族となり、札幌の支店長時代に長男J氏がK子氏を見染めたという。その後K子氏は北海道で教員となったが、J氏との結婚のため上京した。 J伯父様はすでに10年以上前に他界している。相思相愛として親戚中に知られていた夫婦だったがゆえ、残されたK子伯母様は次第に心身共衰えていった。 N家には「いとこ会」があって、長年J伯父様が音頭をとってN家兄弟姉妹、その子達=いとこ達が年一回集まり会食をしていた。その会もJ伯父様の逝去もあり、またN家兄弟姉妹の高齢化(ほぼ全員が80歳を超えた)もあって9年ほど前の会を以て事実上終わりを迎えていた。しかし今回のK子伯母様の通夜と葬儀でその「いとこ会」が再開となったのは皮肉ではあるが、久しぶりに皆が集って一族の連帯を確かめ合えたのは伯母様のおかげである。 * YAMAHA楽器製造株式会社(元は山葉風琴製造所)だが、創業者は山葉寅楠である。そう、昨日の記事で論じた、あの紀州特有の名前、「○楠」だ。寅楠さんも紀州藩士の家の出だ。東京N家の祖となったK三氏は、大阪人として生まれ育ちつつ、縁有って父・亀楠と同じ「楠」の字が名前に入る、同じ紀州藩士の家柄の寅楠さんの会社に1925年に入ったのだ。 おもしろいものだ。

がっちゃんと飲みました

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  昨夜がっちゃんと我が地元祖師ヶ谷大蔵駅を出てすぐの居酒屋で楽しいひとときを過ごしました。なお、彼の顔は敢えてフレームに入れませんでした。彼は若々しいし、表情を公開しても問題はなかったとは思いますが、敢えて。 いわゆる「サシ」で飲食したわけですが、談笑は2時間半をゆうに超えました。 何度も書いてきましたが、プロのギターリストとして本当に長年やってきて、現役を貫いている彼には尊敬しかありません。彼のようなミュージシャンに「ライブやりましょう」と言ってもらえることを私は励みにしています。 1997年だと思いますが、G Stringの大阪・梅田での演奏が非常に良く、がっちゃんは絶賛します。スティックや聡作くん(G Stringのキーボード担当)らと高く評価しながら、彼は「もったいない」と思いつつ、「でもさ、まだMNEMOさんの声が衰えていないなら、こうしてもったいないと思っている気持ちを<今>ぶつけられるじゃないか」と思ったと言うのです。感激しました。 * がっちゃんが焼酎で割っているピンク色の液体、「バイス」と言うとのことで、一瞬「vice」、つまり「悪徳」という小洒落た趣旨の名前かと思いつつも、しかしおそらくそうではあるまい、きっと「梅酢」の重箱読みなのだろうと思ったらそうではないようです。戦後「ホイス」という同種の焼酎割りの液体があったそうで、それの<もじり>だそう。今度飲んでみっか。 私はbeerの後は、九十九里銘酒「梅一輪」を熱燗で一合。梅一輪がこの店の<デフォルト>清酒らしく、これはうれしかった。店員さんは全員南アジア系で、すばらしい接客だった。 がっちゃんは後、電車でひと駅ながら成城学園前駅で降り、高級住宅街を歩いて(それが乙だとのこと)多摩地区の何処かへ帰って行きました。 * いやあ、完全に花粉症にかかってしまった。もう昨日からティッシュ数百枚消費している。この歳で、とうとう。

「難を転じる」南天を掻敷にした料理などを食したい

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「七人の侍」の、志村喬さん演じる島田勘兵衛が剃髪するシーンを撮ったのは世田谷区大蔵3丁目の仙川ほとりだったが、その近くの藪に「何という端正なfoliage! この少し鈍い光沢がなんとも美しい!」と思わずシャッターを切った。よく見ると家の庭にも在る南天であった。しかし、こんなに艶はないぞぉ。 南天のことをWikiで調べていたら、南方熊楠の名が出てきたので以下のことを思い出した。 義父の娘の曾祖父は和歌山県の人で、名を亀楠(かめぐす)と言った。「熊楠」が熊野権現信仰と、御神木の楠から由来するのは明白で、亀楠さんの名の由来は長寿の動物とその常緑のありがたい木の名の組み合わせからと言っていい。 この「楠」の字を名に入れる風習は、南紀(和歌山県南部)特有らしい。他には先述のように「熊」、そして藤白神社(神職は穂積・鈴木氏)からの「藤」の字が尊ばれたそう。ゆえに「熊楠」というのは紀州においておめでたい字が2つも使われているわけだ。 クスノキと言えば私にとっては(漱石病罹患期の)都心居住時代北の丸公園で冬季に特に親しんだ樹木ということになる。常緑広葉樹のクスノキは會津にはなく(クスノキは関東が北限)、珍しかった。春に新しい葉が出てくるのだが、その若緑が本当に美しいのだ。 熊楠の名言・・・ 「学問は活物で、書籍は糟粕だ。」 植物学者になりたかった私は、また今日も野に出よう。

You can't say it, but you can show it

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  東名高速、800m地点の脇に咲くダッフォディルズ。 沈丁花も蕾が綻んだ株がちらほら見られるようになっている。ダウンとかの厚手のコートを着て歩いていると暑すぎる季節がやってきた。 * 歳をとると、宗教臭くなったり(いわゆる「抹香臭い」)、哲学的になったりするのはしかたがない。お迎え近くなって、我が人生とは何か、何だったかと振り返るのはごく自然なことだし。そして「我が」人生を超えて、命とは、宇宙とは、存在とはと問いだすのだ。 Wittgensteinが「論理哲学論考」で形而上的なことについては沈黙せねばならないと言ったのは有名なことだけれど、しかしだからといって彼が形而上のことをないと断言したのではない(らしい)。語ることはできなくとも、<示すことはできる>としたと。 彼は後に「哲学探究(彼の後期の思索)」で言語は道具であって、多様な言語ゲームの集合と言い出して、前期の「言語は世界を論理的に写(映)すもの」という考えを翻すけれど、それでも「論考」の考え方は多くの人に今でも影響を与えている。 そう、美や神、価値、人生の意味など、どんな哲学者も正確に語ることはできないけれども、人間はそれを<示すことができる>とするideaに私は惚れる。 藝術家こそ、それを示すことのできる人間なのだ、と。

今年、茨城ダービーがあっぺや

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  大昔、もう10年以上前、鹿島神宮を参拝しての帰りに撮った、利根川の向こうに沈む太陽。この頃私は東日本大震災と原発事故を経験して『トーホグマン』という物語を書いていたのです。鹿島神宮には地震を抑えているという「要石」があり、また鹿嶋市周辺には日本保守主義・官僚主義の元祖とも言ってよい藤原鎌足の出身地伝説もあり、さらに藤原家の氏寺奈良の興福寺、 氏神武甕槌(タケミカヅチ)を祀る、興福寺と 一体である春日大社では、鹿島から武甕槌が白鹿に乗り 御蓋山(みかさやま、春日山)に 降臨したということで、その神話伝説を<関東で>感じ取ることができる楽しさでクルマを飛ばしたのでした。 茨城県というのは、群馬県や栃木県という同じ北関東の県と並んで目立たぬ都道府県のランキングで1、2、3位を争っているのですが、とんでもないですよ。奈良があの鹿や寺社で国際的に人気の観光地になっていますけれど、それは常陸国=茨城県の鹿嶋(市はこう漢字で表記する)に負うところなのですから、茨城県民としては、その大元にもおいで、と言いたいところでしょう。 武甕槌は、出雲から信濃・諏訪へと建御名方(タケミナカタ)を追いやった神様です。要は、初期弥生人と後期弥生人ないしは初期古墳時代人の争いだったのでしょう(いい加減なこと言うな!)。 さて、鹿島アントラーズが昨日1勝目を挙げました。Epsonが在る諏訪(正確には茅野)を根拠地のひとつにしようと努力中のJ3松本山雅FCが対戦すればおもしろいのになあ。過去山雅がJ1にいたときに4戦(1勝2敗1分)しているようだけれど、いつか松本・諏訪FCとなって、タケミナカタ(諏訪大社)とタケミカヅチ(鹿島神宮)の因縁の試合が見られるといいなあ(勝手なこと言うな!)。

いつまで経ってもmountain-nearing

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上は狛江市元和泉・五本松近く、これまで何度も写真を撮ってきた地点からの多摩川。おとといの景。上流方向最遠に見える山は大岳山(1266m)、その背後に御前山(1405m)だ。秩父・奥多摩山塊の一部である。 https://www.youtube.com/watch?v=63Z-nRZWFkc 上は我が故郷西會津町が細々ながらがんばって制作している地元PRビデオのひとつ。最近のもので、福島市出身のタレントでエベレストも登頂した「なすび」氏が町の低山を登るもの。この回はやはり福島市出身の「役場」職員(=地方公務員)の菅野さんがお相手で、西會津と喜多方市の境に聳える鳥屋山(580.6m)に登るもの。 この菅野さんは相当に変わり種な女性と言っていい。県都福島市から県の北西の端、新潟県と山形県に接する山間の<過疎地>である西會津町へ「直感」で「ここに住みたい」となって、そこで職を得て住んでいると言うのだ。驚いた。町の人はみな「やさしくて温かくてすっかり西會津に染まってしま」ったと言うが、そりゃそうだ。こんなに若い女性が移住してきてくれたら、日本のどこの地方自治体でも大歓迎だろう。 なすび氏が最後に食べる味噌ラーメンは「えちご屋」の自慢。店主は我が次兄の同級生。名前の通り、西・新潟県東蒲原郡から我が町の西端の県境(鳥居峠)を越えて大昔(?)移住してきた越後=新潟人だ。お隣の「日本3大ラーメン」のひとつである喜多方ラーメンに負けぬものを作ろうとがんばっておられる。 Mooさんが(またMooさんの記事からのinspirationかい!)最新記事で、若かりし頃に富山の地元の立山連峰、また「北アルプス」の槍ヶ岳などをお父上と登った記憶を辿っておられる。 そう、この稿の冒頭からの通奏低音は「山」である。 昔書いたように、私自身は高1か高2の頃、遠足で磐梯山に登ったが、それ以前も以降も全く登山をしたことはない。あの田中陽希氏の百名山トラバースものから俄然興味を持ったけれど、だからといって「では私もclimberになるぞ!」とは思わなかった。 すばらしい趣味だと思う。危険が伴うけれど、それは平地で歩いていたって自動車や自転車にぶつかる危険はあるのだし、どっこいどっこいとまでは言わずとも、リスクなしで感動的な非日常の景色に出会うはずはないのだし、しかたがないことだ。ただしもちろん入念な計画と装備...

七百年前の訓戒

四十にも余りぬる人の、色めきたる方、おのづから忍びてあらんは、いかゞはせん、言に打ち出でて、男・女の事、人の上をも言ひ戯るゝこそ、にげなく、見苦しけれ。 大方、聞きくゝ、見苦しき事、老人の、若き人に交りて、興あらんと物言ひゐたる。数ならぬ身にて、世の覚えある人を隔てなきさまに言ひたる。貧しき所に、酒宴好み、客人に饗応せんときらめきたる。 徒然草の第百十三段である。MNEMO流に訳してみよう。 四十を過ぎて好色に走っているような人、もしもそれがこっそりとなされているようなら、困ったものだ。声高に男女のことや他人の身の上のことなどをふざけて言いふらすのは、年甲斐もなく、見苦しい。 大体、聞き苦しく、見苦しいことというのは、老人が若い人に交わって、彼ら彼女らに「おもしろいだろう」などといろいろ話して悦に入っていることだ。大したこともない人間であるくせに、高名な人と近しいかのように話したりする。金もそう持っていないのに、酒宴を好み、人にご馳走しようなどと調子に乗っていることだ。 「四十」が老境とされた平安末期および鎌倉初期、現代人にはびっくりでしかないけれど、つい最近まで「人生五十年」とされたわけだから当然と言えば当然だ。 次に同じ徒然草第百六十八段。 年老いたる人の、一事すぐれたる才のありて、「この人の後には、誰にか問はん」など言はるゝは、老の方人にて、生けるも徒らならず。さはあれど、それも廃れたる所のなきは、一生、この事にて暮れにけりと、拙く見ゆ。「今は忘れにけり」と言ひてありなん。 大方は、知りたりとも、すゞろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。「さだかにも辨へ知らず」など言ひたるは、なほ、まことに、道の主とも覚えぬべし。まして、知らぬ事、したり顔に、おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人の言ひ聞かするを、「さもあらず」と思ひながら聞きゐたる、いとわびし。 訳すのが面倒なので、サイトに載っていたものをそのまま転じる。 一芸に秀でた老人がいて、「この人が死んだら、この事を誰に聞いたらよいものか」と、言われるまでになれば、年寄り冥利に尽き、生きてきた甲斐もある。しかし、才能を持て余し続けたとしたら、一生を芸に費やしたようで、みみっちくも感じる。隠居して「呆けてしまった」と、とぼけていればよい。 おおよそ、詳しく知る事でも、ベラベラと言...