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「昨日春立って」雑記

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  故・石原慎太郎氏が都知事時代、彼の最大の功績がPM(粒子状物質)を排出する車両を規制する2001年から施行された条例を出したことだ。上は昨日の砧公園の梅、真っ青な空に映える。東京を中心とする首都圏(1都3県)の人口は3千7百万人であり、そんな世界最大規模の密集地の空がこれだけ青いのは奇跡的ですらある。むろん石原さんだけの功績ではないけれど。 東京は冬場特に空気が澄む。季節風が絶えず吹いているからだろう。それにしても、昨日は私、「なんて澄んだ空だ!」と本当に叫んだほどだ。 * 朝の砧公園には近隣各所の保育園児童が保育士さんたちに大勢連れられて入ってくる。保育士さんたちは圧倒的に女性で、子ども好きだから当たり前なのか、柔和な表情の人ばかり。すれ違うとき、私が園児たちに目を細めていると、保育士さんたちはまず例外なく「おはようございます」と言ってくださる。 園児たちの未来が平和な世の中で展開されますように! * その園児たちが落ち葉の上や芝生の上で戯れている横で、大きな常緑広葉樹をしみじみ眺めていた。遠くからはクスノキかとも思えたけれど、樹下には無数のドングリ。その木なんの木気になる木、となって検索をかけようかと思っていたら、最近設置された立て看にドングリがなる樹木についての情報が書かれており、葉っぱの形状、またもちろんドングリの形状からそれがアカカシであることが分かって、気も晴れた(笑)。 ドングリを成す樹木にはアカカシのように常緑のものや落葉するものもあって、代表的なのはコナラやクヌギだ。この「子」たちの新緑や紅葉はすばらしい!常緑、落葉、どっちもいいよね。なお、 ドングリ(acorn)を成す木はほぼ全てブナ科の木だ。

やはり「和顔愛語」

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誰もが知っていることだけれど、言葉は因となり果となる。行為と同じだ。「言動」と一括りにするのはだから正しい。しかしみなこのことを知っていても、吐かれる言葉は無形だから畢竟無いも同然だと思ってしまう傾向があろう。例えば、ひどいことを言ってしまっても撤回できると思っている。あるいはもっと卑怯なことには、言ったこと自体を否定できると思っている。 そうはいかない。 善因善果という仏の教えは尊い。善い言葉を放てば、いずれ善い報いが来る。逆もまた真。 著述家菅野完さんが昨日大阪でトークショーをいわゆるライブ・ハウスで仲間と催したそうで、立錐の余地もないほどの客入りだったそうだ。これまたいわゆる「ワン・ドリンク制」で、客は最低一杯の飲み物をオーダーせねばならない。 トークショーの冒頭、菅野さんの目の前数十センチに位置した「おっさん(60歳から70歳代らしい)」が、その「ワン・ドリンク」が遅々として手元に来ないことに腹を立てて、「俺のウーロン茶まだ来ぃへんのか」と言い、店の人が丁寧に謝っているにも関わらず、「はよせぇよ、アホ!」と言い放ったというのだ。菅野さんは瞬間猛烈に怒り、「金は返すから出て行け」とその御仁に2分間ほどそれだけ超至近距離でドヤし続けたそう。 「和顔愛語」は私が座右の銘として毛筆して部屋に貼ってある「大無量寿経」の言葉。和やかな、穏やかな表情で愛ある言葉を発することを教えている。亡き紀野一義先生の御本で学んだ。 「おっさん」は追い出されても文句は言えない。しかし追い出した菅野さんもきっと「 金は返すから出て行け」の後に「ドアホ!」と、いつも彼が気に食わぬ言動をした人間に吐いているように言っているはず。そこで、どっちもどっち。 私も 「和顔愛語」を座右の銘にしているからといっていつも実行できているはずはない。できていたら私は菩薩に近い。できないから毛筆して部屋に貼っているのだ。 それでももちろん常に 「和顔愛語」できる者でありたい、あらねばと思っている。

引退

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世田谷通り、砧3丁目側から撮った。反対側は、写っていないが、国立の成育医療研究センターで、元は国立大蔵病院、さらにその前身は陸軍第二病院で、亡き父が一時期入院していた。 30年前、大阪でギグがあり、2泊したのだったか。帰京してここを通ったとき、私はしみじみと「This is where I belong!」と心の中英語で叫んだ。当時は狛江市東野川2丁目に暮らしていたが、東名の東京用賀インターで降り、世田谷通りに入ってから、たった2泊3日の旅であっても、幼い娘が待っている狛江に帰ることが待ち遠しく、この写真の辺りに来て「MNEMO圏」に入ったという実感があったのだ。ここから太陽の方向へおよそ5キロほどで我が家であった。 * https://www.youtube.com/watch?v=p4tSCtwIJMI アゼルバイジャンというカスピ海西に位置する国がある。9割以上がイスラム教徒の国だけれども、世俗主義的で、そう厳格ではないそうだ。それゆえか、上のようなオーケストラが存在する。 演奏しているのは芥川也寸志さんの「トリプティーク」で、見事なものだ。4年前の演奏らしいけれど、「コンマス」が演奏が終わって泣いている。おそらく最後のコンマスとしての演奏だったのだろう。 きっと彼は私と同世代、もしかすると同い年かもしれない。一線を引く・・・そのときの<絶奏>が「 トリプティーク」とは! 彼はオーケストラの内規だかで一定の年齢で引退となったのか、それとも、そうではないが後進に道を譲る時が来たと考えたのか・・・またそれとも、これ以上演奏力を一定レベルに保つのはむずかしいと考えたか。 身につまされるな。  

俳句のひとつも詠んでみろ

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昨日の日没、世田谷区大蔵と砧の境、世田谷通りを跨ぐ橋からの一枚。富士山の少し南に日は沈む。見惚れる人が他に2人。品のいいお婆さんが、私の「あのクレーンがなきゃなあ」という声に反応して「そうですねぇ」と話しかけてきた。「お婆さん」と言いつつ、私のほんの数年先輩でしかなかろうから、最初から「ほぼ同輩の女性」と書けばいいのか。(笑)義父の娘は、「クレーンはそれはそれでいい景色を成している」と言った。そういう感覚もあるね。   そして反対方向、つまり東に向くとほぼまん丸な月が。与謝蕪村の名句「(菜の花や)月は東に日は西に」を 先取りした景 となった。 この蕪村の名句は、まず柿本人麻呂の「東の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ」の半日逆のバージョンと言える。また、丹後(今の京都府北部)民謡に「月は東に昴(すばる)は西に」というフレーズがあって、摂津(今の大阪府と兵庫県が重なるところ)出身の蕪村さんは詩歌の大先輩である人麻呂さんの和歌はもちろん、さらにきっとこの江戸時代編纂の民謡集「山家鳥虫歌」に収められた句も知っていたはずなのだ。というのは、丹後には 「与謝」という名の村在り、蕪村さんの母方の出身地とかとも言われており、それゆえ「与謝」を名乗ったのだから。母の故郷の歌をきっと知っていたはずだ。 この 「月は東に昴は西に」の後「いとし殿御(とのご)は真ん中に」という歌詞が続く。そうなるとなるほど西に在るのは「日」ではなく「昴」でなくてはならない。日は暮れていなければならない。春、夜の帳がすっかり下りれば、西の山(中国山地東端)の端に見えるのは愛らしい<すばる>。そして対置される東の光の主は柔らかい白色の月でなければね。 東の月と西の昴の間のちょうど真ん中に愛しい人がいる・・・ かういふ歌心、詩心こそが<一部>が大好きでやたら尊がる「日本人」といふ人たちのこころなのだ。詩歌のひとつも作れず、汚いことばばかり遣ふやうな者が「日本人」を語るといふこれ以上ない皮肉。

Que l'on est

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朝日に輝くヌマスギ Il vaut mieux être haï pour ce que l'on est qu'être aimé pour ce que l'on n'est pas. ― André Gide 「ありのままの自分で嫌われる方がありのままではない自分で愛されるよりましだ。」 (訳は私。「自分が何者であるかによって嫌われる方が、自分が何者でないかによって愛されるよりも良い。」と訳している人もいる。)   フランスの小説家 アンドレ・ジッドの随想集「 Feuillets d'automne」(秋の葉)にある言葉だそうだ。ジッドというと、三遊亭歌奴(後の圓歌)の「授業中」という新作落語にその名が出てくる。名前だけは小3くらいの頃から知っていた。ジッドは日本で言えば明治2年の生まれ、昭和26年まで生きたわけだけれど、いわゆるカミングアウトした同性愛者として先駆け的な人だった。 私にはその指向は全くないが、ジッドのこの言葉には100パーセント同意する。寂しいから、気が紛れるからとかで<らしくない自分>で人付き合いして、その人たちに好かれたとしても私には何らの意味もない。この歳回りとなって、もう本当に一期一会の気持ちで人とは会うべきで、そのとき自分を偽っていたのでは話にならない。自分の思想・哲学を、そして趣味を分かち合えぬ人と寸刻も過ごしてはならないとまではもちろん言わないけれども、もったいない、他にやることがある、と思わないのではもう掛ける言葉もない。 私は、どんなこと(犯罪は除く)であれ、やり切ったという経験のある人、しかも私がそのやり切ったことを評価できる人としか付き合いたくはない。そういう人の前で私も<安心して>「ありのままの自分で」いられるのだ。そういう人は人生の要諦を知っているからだ。

正月尽随想

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  真紅の木瓜の花 前にも書いたかもしれないが、成城1丁目の7-11、深夜早朝シフトの店員はとてもハンサムな南アジアないし中東系の若者で、日本語も態度もすばらしい。私がもし彼ほどに若い頃彼のお国と言わずともどこか外国でコンビニ店員を勤められたかと問えば、ただただ首を振るだけだ。 こういう優秀な外国人をも含めて十把一絡げで排斥しようという「日本人」に心底絶望する。この手の者は日本版ICEができるなら志願するんだろう。 * https://www.youtube.com/watch?v=809SkMvOPUE 歩きながら久しぶりに3代目三遊亭金馬さんの落語をいくつも聴いた。1963年(昭和38年)に他界された、昭和の名人の一人。いくつかの演目では志ん生も文楽も圓生も小さんも敵わない。江戸(!実際はすでに東京市だが)本所の生まれ育ち、下町の江戸っ子とはこういう人だったのだという、無形文化財のような人だった。 上の「浮世床」では、子どもたちの爆笑が何度も聞こえる。おそらく1960年前後の高座であって、もし亡くなる年あたりのものなら、「38豪雪」の年、私は幼稚園生であって、かすかに記憶が残る。金馬さんの咄を聴いていると、幼い頃の冬の記憶が蘇るのだ。 私の家の前は老舗の旅館で、あの頃、冬は雪国全体が除雪のしようがなくなって国道すらストップが当たり前、旅館の駐車スペースが意味がなくなってただの広場となった。そこにカマクラを造らせてもらったものだ。私は幼すぎてその<造成>の有力な人手にはなれなかったが、十能(じゅうのう=小さな和式シャベル)で壁を叩いて雪を固めたりはした。兄や姉たち、その友人たちが頑丈に、また細部まで、仕上げてくれた。灯明が点るまさに暖色の内部はひたすら美しかった。 変な懐古趣味で語るのではないつもりだ。あの頃のほとんどの大人たちは、戦争に辟易した人たちばかりだった。どれほど平和が大切かを身に染みて知る大人たちの子どもとして平和は当たり前になった。すばらしい時代だったと思う。そしてその子どもたちの中から、戦争が再びできる国にすることを当たり前と言う大人へと育っていく者が出てきた。全体主義、独裁国家の脅威を声高に言い、自らも自由のない国へと変えようとする絶対矛盾を抱える国にこれからますますなっていくのか。

「傘寿?気分は当年とって30」と洒落られるか

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  仙川のほとり、大蔵のはけ * 東京8区(港区と渋谷区)で自民党公認の「裏金議員」Mが、「外国人の方、増えてきています。私たちの生活のエリアまで入ってきている。そういうことに対する不安や戸惑い」と街頭演説で言った。外国人嫌悪=xenophobiaを訴えればトレンドに乗ると思っているんだろう。 アホか。 港区と渋谷区に住む外国人はセレブが多く、高額納税者の半分が外国人だという。きっと8区に限らず一般論として言ったとか釈明するんだろうけれど、そのMが不安や戸惑いを覚えるほどに外国人を入れたのはどの政権だったのか。裏金を申告せずに自分の口座に入れて「管理していた」Mにこそ不安どころか絶望、戸惑いどころか怒りしか感じないが、どうしてくれる? おいらは東京6区に住み、確かにここも外国人が多い。明らかに外国出身者がコンビニで昼も夜も早朝も働き、飲食店でもせっせと接客し、また工事現場で肉体労働をしている。一体この方々がいなくてどう経済が回るというのか?それがダメなら、そんな国にしたのはどの政権だったのか?民主党の「子ども手当」法案が可決されるとき、「愚か者め!」となじったのは誰だった?少子化になんらの有効な手立てを打てずにきたのは何党の政権だった? * 昨日のMooさんの傘寿コメントが身につまされるものだった。私の近未来の思いがすでに述べられている、という感じ。きっとMooさんの感懐は私の80歳時の感懐だ。 https://moo-new.hatenablog.com/ 問題は、私が傘寿まで生きていられるか、だ。 * おととい高3の授業が終了した。本当に久しぶりの1月末までの高3授業だった。高3クラスではここ十年ほど推薦試験で早々合格を決める生徒ばかりだったのだ。共通テストの英語がどういうものかを私も十分学習できた。しかし、もう結構だ。来月からは週2コマ、いよいよ私の音楽的、詩的表現活動を本格化させるぞ! 有言不実行になりませぬように! アホか。