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Colorful World, Peaceful World

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  なんだか、あっしゃあ、写真のトリミングを怠る傾向がありますなあ。この写真も然り。まあ、いつかやりまっさ。 成城大学脇を東西に通る、つまり小田急線に並行する区道で撮った、もう2週間前くらいの日の出直前の景。 * 今日は夏至。奇跡の惑星・我らが地球の北半分にとって命の恒星・太陽のご尊顔を最も長く仰げる日だ(と言いつつ、良い子は直接仰がないように)。 そのありがたみを意識もせず、人間たちは争いまくる。天罰が下るよ、きっといつか。 * 今日は義父孝行の日(父の日)。夕方食事を共にする。義父は88歳、初冬に89歳となる。60年安保闘争のピーク時には大学4年だった。今日はそのことについても尋ねてみようと思う。 84歳になったばかりのPaulの5歳先輩だ。クラシック音楽ファンの義父(父親はYAMAHA=日本楽器の重役で自らバイオリンも弾いたこともあり)は、ちょいと年下のイギリス人バンド、しかも「騒々しい」音を撒き散らし、軽佻浮薄で由なしことを歌うあの4人にちっとも感心しなかったはず。義父の唯一<心許す>ポップ・ミュージシャンはCarpentersだ。古典音楽にも通じるRichardの編曲がすばらしく、もちろんKarenの美声が限りなく魅力的だからだ。 「安保反対!」はその闘争が終わった後でも、チビであった私すら覚えている。悲惨な戦争をしてしまってたった15年とかで、どうして日本が再び戦争に巻き込まれ、あるいは加担したりする発想になるのか信じ難いというのが当時の若者たちの思いだったはずだ。 そしてまもなく<平和の福音>を1963年、The Beatlesが世界中に届けだす。1967年には人類初の世界同時中継番組「Our World」で「All You Need Is Love」を歌って、特にベトナム戦争で揺れる世の中に世界平和を訴えた。サイケデリック文化、フラワー・ムーブメントは西側諸国の若者たちに急速に広がる。 戦争をする国には色がない。カーキ色や迷彩服の暗い緑・茶色・黒・ベージュくらいで陰鬱な世であり、だから無数に色がある世界はすなわち自由な世界、平和な世界だと言っていいほどだ。 そんな戦争時、人間が殺し殺されまいと右往左往しているのに関係なく、まさに超然として自然は時に人間をひれ伏せさせるような色彩を自ら纏う。それを目にした兵士たちがどれほど人間の、自分たちの、愚...

AI翻訳時代の陥穽

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  調布や三鷹(狛江もほんの一部)の野川沿い土手道の典型的風景。大好きだ。上流側奥の浮浪雲の姿がなんだかユーモラスだ。 * 私のXのタイムラインに並ぶ記事は、もちろんいわゆる「エコー・チェインバー」化ないしは「フィルター・バブル」化で偏っているだろうけれど、それがあったとしても我らが首相のサミットなどでの振る舞いに対する批判および嫌悪感を示すポストに溢れかえっていると言える。それらは要するに、「元米国連邦議会調査官」だったはずの人物がほとんどその肩書きが信用できないほど極めて稚拙な英語力しかないこと、そして英語で話されている内容に対し聞き取れていない(それ自体は罪でも咎でもない)ならそれなりの対処がある中、分かったようなふりをしつつしばしば大袈裟で下品な表情をつくることの不気味さ、おぞましさについてであって、こうした人物が国を代表していることへの嘆きなのだ。 彼女が国際会議などで英語原稿を読むビデオも拡散しており、それがAIに英語スピーチとして総合で「3.2/10点」と判定されていたりする。採点項目の中、「内容」だけが4点台だったが、これはライターが書いたのだから、彼女の手柄ではない。彼女が自分でもし原稿を英語で書いたら、悲惨なものになっていたのは疑いない。 そこで思った。 今AIの翻訳能力は非常に高く、日本語さえまともに書けていれば、かなりいい出来の英語に変換できる。後は、首相なのだから、政府内の最高レベルの添削者に仕上げをさせればいいわけだが(発音については措いておく)、ちょっと待てよ、と。彼女は果たして内容のある「まとも」な日本文が書けるのか、と。オバマ元大統領のスピーチの如き名文を。 この時代、英語を学ぶ小中高大学生らは、すでにAIの翻訳をどんどん使っているし、ゆえに例えば英単語暗記などに意味を見出せなくなる傾向がきっとあるはずだ。おそらくまもなく、非英語話者が自分のネイティブ言語を発話する途端に同時的に畏るべき精度で英語に変換する「AI Interpreter」が開発されるはずだ。だから、英語を学ぶべき理由がどんどん乏しくなっていくし、いずれなくなる、とも思うのではないか。 しかし、そこに重大な陥穽がある。 英語に変換される その元々の 言語、つまり自分の、英語ではない母国語の<内容>そして品格は、どう養われるというのか。他言語の学習により、母国語...

Paulの84歳誕生日

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  砧公園はいつまで経っても「黄黒テープ」が取れないまま。春に倒木事故が相次いでの措置で、一本一本安全性の確認中、なのだ。 * 昨日はPaul McCartneyの84歳誕生日だった。まだ現地時間なら当日だ。 彼の歌の中、一番好きなのはどれかと問われたら、好きなのだらけで優劣つけ難しというよりないのだけれど、パッと思いつくのは、You Never Give Me Your Money、We Can Work It Out、For No One、Here, There, and Everywhere、Hello, Goodbye、Hey Jude、Penny Lane、The Night Before、Fixing a Hole、The Endと、まあ、いくつもあるけれど、きっと「あ、まだあった!」となるパターンだ。 Johnとのライバル関係で、彼は特に共作をしなくなってからはいつもJohnのに劣らぬ、あるいは凌ぐ作品を目指した。 The Beatlesがどんなバンドよりもすごいのは、4人構成のバンド内に4人のsinger-songwritersがいたことだ。曲は、歌は、<四花>繚乱、アルバムは見飽きない花園だ、ということ。その内の3人が歴史的な名曲をものす才能の持ち主なのだから、信じ難いほどだ。イングランド北西部の港町Liverpoolの狭い地域で3人の天才がほぼ同時期に生まれ、後に知り合い、バンドを組んだという奇跡。 PaulはこのThe Beatlesを最も愛した。 Revolver というアルバムを発表し、1967年夏Brian Epsteinという「マネージャー」が亡くなった時点ですでにバンドの分解は始まっていたのだが、Paulがリーダーシップを発揮し、何とかそれを食い止めてきたのだけれど、それが他のメンバーには専横とも感じられるようにもなり、さらにJohnとGeorgeがそれぞれが独自の歌世界を追求するようになって、1967年から2年ちょっとでどうにもならなくなった。その絶望からLet It Beが生まれたのは疑いようがない。 PaulとRingoがまだこの世にいてくれている事実に、そのことを意識する時いつも震撼する。Paulについては声帯の衰え顕著で、新作が出たけれど、<同じ>singerとしてはもう聴きたいとは思わなくなった。切なすぎるからだ。...

ユウェナリスもびっくり

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  精一杯のzoomで撮った翡翠(かわせみ)くん。ちょっとピンボケだね。野川で撮ったのだが、確か三鷹市大沢の町内だったと思う。「水辺の宝石」という異称を持つ鳥で、なんと東京の野川でも仙川でもそう珍しくない。 * 今朝東京は雨。自転車による逍遥徘徊は厳しい。 * 世の話題事欠かない現代だけれど、今日本ではかなり多くの人の関心がフットボールのW杯とやはり大谷さん&Dodgersに向けられていると言えよう。私は概ね「国民的熱狂」とかには醒めている立場だが、冷笑しているとかではない。才能と努力の塊のような人々が最高度の技を競い合うのを見るのは愉快だし、感動もする。 しかしいつもこういう大規模スポーツ大会がある度思い出すのが、古代ローマの風刺詩人ユウェナリス(Juvenal)の『諷刺詩(Satires)』第10歌(紀元100年頃)「パンとサーカス(panem et circenses)」のことだ。為政者が食べ物と娯楽さえ与えていれば、民は政治に無関心になって御し易い、というような意味だ。 今の日本では(他国にはもっと深刻な例があろうが)、その「panem」すら安定して手に入れられない人もかなりいる。貧困率は2021年時点で15.4パーセント=約2千万人(厚労省調査。等価可処分所得127万円未満の人)。5年経った今、より深刻になっているのか? 企業倒産件数は2025年度全体で約10,300件(2年連続1万件超)であり、アメリカのイラン攻撃による原油不足で今年はきっとそれを上回るだろう。失業者、生活困窮者が確実に増える。さらに、AIに仕事を奪われる人も。 そして貧困の中「一発当ててやる」と気負う若者などが相当数出てしまう。それがスポーツなどによる栄達への意志に向かえばいいが、「闇バイト」に手を出すことになってしまったら最悪だ。

久しぶりに野川公園へ

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  昨日午前、久しぶりに野川公園(所在地は調布市、小金井市、三鷹市などにまたがる)へ独り自転車で行った。写真は初めて行った、野川公園の隣と言っていい武蔵野の森公園で撮った。調布飛行場に隣接し、この写真を撮った直後に大型のセスナ機(?)が超近距離で着陸進入、ものすごい音、迫力であった。遊んでいるチビちゃんたちは慣れているようで、特に大興奮はしていなかった。 これは同地点でiPhoneカメラにより撮った写真。冒頭のは光学ズームが利くNikon Coolpixによる。 野川公園は娘が小さかった頃(1990年代)に家族で最も頻繁に行った都立公園だ。緑いっぱいで、本当に気持ちがいい。昨日は晴れたけれど、大汗をかくような暑さではなく、湿度もまた高くなく、恵まれた。 昔も旧ブログで同様のことを書いたのだが、世田谷区成城4丁目で野川へ出て、その土手道をずっと西進して野川公園へ至るのだけれど、途中何本もの道路と交差し、信号があるところもあれば、信号なしの横断歩道となっているところもある。後者では、行き交う自動車が止まってくれるのを待つわけだけれど、大半のドライバーは私のような野川公園を目指す自転車乗りに慣れているのだろうし、また緑多いところだからだろうか、心に余裕がある人が多いらしく、ほとんど待つことなく横断させてくれるのだ。 例外は1台だけ、人見街道と呼ばれる道との交差点で無視された。ナンバーを見ると横浜。 * Xを見ると、またまた我が女性宰相の「英語力」「コミュ力」のことが大いに話題となっていた。「米国連邦議会立法調査官」という経歴をお持ちの方だから、当然ネイティヴ並みの英語力があるに決まっているはずなのに、G7の他の首脳らがテーブル外で話し込んでいるところで、彼女だけ席について椅子をクルクルさせている動画にはこっちが目眩がした。その話の輪に入って行っても理解できないのだからしかたがないと言えばしかたがない。 誤解しないでほしい。私は英語力がないことを揶揄ったり非難したりしたいのではない。彼女がさもその<麗しの言語>に熟達しているかのように経歴を語(騙)ったりしたこと、そう装うことを愚かだと言いたいのだ。 * 「福テレ空ネット」で斎藤気象予報士が明日福島県は梅雨入りになりそうだと言っていた。東京の梅雨の中休みも今日までらしい。 昨夜の地震はまあまあ揺れた。フィリピン海プレ...

1969年

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  Mooさんから、昨日の我が記事への反応をいただいた。名古屋の定時制高校に赴任した新人数学教師としてのお話である。 https://moo-new.hatenablog.com/ 「同僚教師たちと素晴らしい生徒たちに恵まれ、私の教師生活のスタートを飾るに相応しいものとなった」との締めの言葉には同慶の至り、今なら感知される「昭和的クサさ」がちっともクサくなかった、その時代の当たり前だった中の、Mooさんと生徒さんらの充実した青春物語に触れる思いをしつつ拝読した。感謝。 * 「 新人教師Moo」が名古屋へ赴任した年昭和44年(1969年)は、私が小6だった年、山内林子先生の特に厳しい算数の授業についていくのが大変だったことが第一の思い出だ。以前にも書いたが、どういう経緯だったか知らないけれども、我が「山内学級(6年2組)」は東京書籍の「新しい算数」という教科書の代表著者であった岩手大学・黒沢誠教授(後の学長)のご指導を受けるという栄誉があって、東北の方々から教師たちが見学に来たのだった。その日のため、とにかく特訓を受けた。1日全ての授業が算数という日もあった。 * そして話は大幅に跳ぶが、前年(1968年)小5のときに私は初めて自分の小遣いでThe Beatlesの Hello, Good-Bye のシングルを買ってますますこのバンドへの愛を募らせていたわけだけれど、彼らはこの年、最後のアルバム Abbey Road を録音していたのだ。 https://www.youtube.com/watch?v=KQetemT1sWc そのアルバム中、George Harrisonの Here Comes the Sun があって、Spotifyのデータでは、なんとJohn Lennonの Come Together 、そしてPaul McCartney の Let It Be (同アルバム収録ではない) という再生回数2位3位の曲をおさえ何とトップ、しかもそれらの2倍以上の数値(18.4億回)だという。 The Beatles最年少で、第三の男扱いだったGeorgeが超名曲 Something も発表し、このバンド最後のアルバムで一躍天才二人と並ぶ、あるいは凌駕する作曲家に成長したのだった。 そしてこのアルバムは、Paulのこの名言を以て実質 fine となる。 An...

昭和的クサさ

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姉の手による紫陽花。 * 今日も湿気はありつつ、冷房は一切要らない梅雨寒の東京である。 TVをつけると、CS放送で1962年日活作品『いつでも夢を』が放映されていた。途中から見て、途中でチャンネルを変えた。 1962年の東京が映し出され、都心の基幹道路の様子に本当に驚いた。恐ろしいほどの交通量で、排ガスがひどく、いくら高度成長期のこととは云えあまりの環境への無関心ぶりだ。無関心どころか、それが経済成長、首都東京というものだというような趣さえあった。主演の吉永小百合さん演じる「ひかる」がその煤煙の匂いさえも好きだというセリフを語らせられるのだ。そう語った荒川だかの土手下で相手役の浜田光夫さんと見つめる空はスモッグで霞んでいる。それでも、その空を好きだと言わせてしまう青春映画が当時大変な人気だったのだ。 私の生まれた昭和30年代は、そういう時代だったのだ。工業化こそすなわち先進国であるということ、第一次産業が比率的に小さければ小さいほど誇らしい国のありさまなのだ。はっきりそういうふうに私は社会科の授業で習った。だから、福島県でもいわき市(まだ5市4町5村の合併前だった。合併は1966年)と郡山市が「常磐・郡山地区」として「新産業都市」として1962年・昭和37年に国に指定されたとき、會津の人間たちは垂涎の的としたものだった。「いいなあ、浜通りと中通りは。會津を置き去りに発展していくんだなあ」というような思いだったろう。後年昭和40年代半ばに私はそのことを社会科の授業で知って、「差別じゃないか」と思ったことをよく覚えている。 また話は『いつでも夢を』に戻す。 前述のように途中から見て途中で見るのをやめたので、その間だけの筋書きを書くと、浜田さんが演じた少年は定時制高校の生徒で、すでに工場で働いているのだが、貧しい家庭をさらに支えたいと一流企業就職を目指し、勉学にも励み、学校も力強く応援し、推薦もしたのだが、結局その企業は「定時制高校の生徒と全日制の生徒のいずれを採るかとなったらやはり全日制だ」と少年を不採用にする。少年は衝撃を受け、自暴自棄になってしまう。吉永さん演じる町医者の娘ながら准看護「婦」でやはり定時制高校に通う「ひかる」を中心に周りの友人たちが少年の立ち直りを促すというものだった。 Mooさんは東北大理学部を卒業されてから、まず名古屋の定時制高校で教鞭を取られた...