「我が愛、言わずとも知れ」は傲慢
またもや砧公園、昨日の午後の景。NikonとiPhoneのカメラの解像度差などを確かめようと行ったのだった。上に掲げた写真はiPhoneによるもの。Nikonのは、以下の通り。 どちらも調整をしていない画像。Nikonはオート設定で撮った。明らかに後者が暗めに撮れている。嫌なら調整せよ、ということだ。 * Mooさんの最新記事で、ドイツ語「Diktatur」の訳語についての件(くだり)があった。「プロレタリアート<独裁>」か「プロレタリアート<執権>」か。不破哲三さんは「執権」とした。「独裁」より<フワッ>としている訳だ。 残念ながらこのくだらないシャレ以上のことはそのMooさんの記事について語らない。 私がおもしろいと思ったのは、「Diktatur」や英語の「dictate」はラテン語 「 dictāre」 から由来しており、「繰り返し言う」、「強調して言う」との意味だったことだ。私はMooさんの記事を読むまで「繰り返し言う」ことの大事さを考えていたのだ。 独裁か執権かというようなことではなく、愛する人へ「愛している」と繰り返し言う dictāre が必要ではないのか、と、と或る人物に言いたい衝動に駆られていた。言わねば分かってもらえない。どんなに愛していようと、そう言い、それに伴う行動をとらないで、どう自分の愛が証明されるだろう。 私は孫にメロメロになるけれど、娘への愛には及ばないとはっきり娘自身に告げたことがある。こそばゆい話ではあるが、また愛情の多寡の序列など語るべきではないけれど、この世で一番愛おしいのは、ラテン語で「dictāre」する、つまり何度も、強調して言うけれど、娘である、と。父と子の関係はそうあるべきではないのか、とすら思う。