円谷さんの街に住んで
昨日の東宝撮影所付近の仙川。桜がかろうじて残る。向かって右側、そのまま行けば東宝が昔誇った大プールが在った。「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」(1960年)や「モスラ」(1961年)などをそこで撮ったのだ。その特撮監督が円谷英二さんだった。 彼を取り上げたNHKの「英雄たちの選択」を見た。「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年)が戦意高揚のための国策映画とされて1948年公職追放された。食い扶持に困って、証明写真ボックスの走りの機械を発明、福井市のデパートに20台の発注を受け納品となったが、それらを運ぶ列車が福井地震に見舞われ、おじゃんになってしまう。どん底だ。 そして朝鮮戦争が1950年に勃発、GHQの方針は大転換、「反共の砦としての日本」が形作られてゆく。A級戦犯の岸信介はじめ、太平洋戦争を指導したり煽ったり賛美した者たちが赦されていった。円谷も赦された。 1901年福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)に生まれた飛行機好きの田舎の一少年だった。メカが好きで、すなわち手先が器用な工学少年とも言うべき人で、政治的なことなどにはほとんど無縁だったろう。<ただ>好きなことをやっているうちに国策映画に携わっていたというのが真相だろう。「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と、ほぼ同い年の1902年生まれの小林秀雄は言っている。それと同じことだったろう。小林の続けての言葉、「黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない」とまでは言わなかっただろうけれど。 小林は戦後あからさまに反核の姿勢を示すことはなかった。一方円谷は、1954年の第五福竜丸の被爆事件があって、東宝が「ゴジラ」を企画することで飛躍の時を迎える。低予算ではあったが、円谷は特撮監督として後に世界的な評価を受ける作品を残した。そして「ウルトラマン・シリーズ」。ところが彼は「怪獣映画の円谷」と呼ばれたが、不満だったという。自分はそれ以外でもいい作品を作ったという自負だ。そのひとつが1961年の「世界大戦争」だ。彼ははっきり「水爆や原爆の実験に反対する意味でこの映画を作った」と言っている。 私の住む砧地域は、東宝の街でもあれば、円谷プロの街だ。砧と祖師谷を貫く祖師谷通りの「ウルトラマン商店街」は彼へのオマージュそのものだ。この細い道を円谷は無数回と言っていいほど行き来したはず。公職...