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今日も雑記(いつもか)

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この3月の写真だが、国分寺崖線の緑を求めるときに私がよく通る成城2丁目のある一角、豪邸が並ぶ。NHKブラタモリは明日この成城を取り上げると義父から聞いた。番組表を見たらその通り、野っ原が都内有数の高級住宅地に変貌するいきさつなどが紹介されるらしい(もちろん私はそのことについてよく知っている)。それにしてもいつロケに来ていたのかね。 * 田村正和さん(成城4丁目に住まれ、成城学園の中高大学卒)のことを昨日書いたが、時代劇スターとして彼に並ぶ二枚目俳優は栗塚旭さんだ。お二人ともこの世を去られてしまったね。 新選組(血風録、燃えよ剣)シリーズ、用心棒シリーズでの栗塚さんのニヒルな演技は本当に男も惚れる。そして左右田一平さんと島田順司さんとのトリオは時代劇史上でも特筆すべき「三匹モノ」だ。(島田さんは87歳でご存命らしい。うれしい。) * ものもらいを患っている。困ったもんだ。小学生の頃以来。免疫力が落ちているか。 * 茨城県南部・・・地震速報でよく見る地域名。まさに鹿行(鹿嶋、行方)地域を含む。中央構造線の東端と思しきところだ。また地震があったという。さほど大きくなかったらしい。鹿島神宮と香取神宮の「要石」が大地震を封じてくれているのかな?(微笑)

今日は長文なしで

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  そろそろ早朝ウォーキングかサイクリングに切り替える季節だ。夜の砧公園も魅力的だったが、やはり太陽に当たらないとよろしくないという想いが募ってくる。もちろん朝や昼に日光を浴びてはいるけれど。 今日明日は仕事なので、その準備でここでの長文を書くのは厳しい。 このGW中、CS放送ではVeraや古畑任三郎の一挙放送が行われた。さらに先ほどは時代劇専門チャンネルでやはり田村正和さんの「若さま侍捕物帳」が放送され、あまりのいい男ぶりに目がクラクラした。 成城4丁目のご自宅(大豪邸)は主人を失って今どんな様子なのだろう・・・その前を通るたびに思う。合掌も欠かさない。スターになるために生まれてきたような人。お自宅もその上に建つ国分寺崖線上を散歩されるのが趣味だったというけれど、草刈正雄さん、故・小澤征爾さんなどの成城居住の有名人とすれ違ったことがあったのだが、田村さんとは一度もお見かけすることはなかった。もしお会いしていたら私はあまりの感激に卒倒していたのではないか。 さて、準備だ。

2026年5月3日 鹿島城と根本寺間往還での想い

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YouTubeで、1963年に行われた鈴木大拙の講演を聴いた。1時間足らずのもので、彼の思想の一部を語るに過ぎないのだけれども、演題が「最も東洋的なるもの」というのだから、その思想体系の大本の部分が語られたことになろう。 彼が強調したのは「自然」ということばだった。欧米人はキリスト教の影響でこの世の生き物や事物は神により造られし(=被造)ものとするが、東洋では正に「自ずから然らしむ」ものなのだと。これは多くの人にとってよく耳にする論だが、1963年当時ではそういうこともなかったであろう。 それを聴いていて思ったのが、ラテン語 natura はまず「course of things」の意味だと語源辞典は言う。「ことのなりゆき」であり、鈴木が講演で後に語る中国の「道(Tao)」と取っても差し支えない意味だ。また「文字通り」と辞典は言いつつ、「生まれ、誕生」とも解す。「生まれ出ずること」なのだ。ここにキリスト教の影響はない。 そして神の被造物としての自然というキリスト教の考えが広がり、 natura は「生まれ・される(講演での鈴木の言い方)もの」となっていった。「自ずと生まれる」から「生まれさせられる」ということである。 さらに聴いていて思ったのは、和辻哲郎や、特に内山節の論、すなわち<日本語に自然に当たる大和言葉が存在しなかったことは、日本人が自然を客体化せず、その一部として包摂されていたことを示す>という主張である。 鈴木は明治以降日本人もこの自然客体化を欧米思想、主にドイツ思想からの影響でし始めたと言う。そこから「自然を征服する」などという考えも生まれてしまった、と。延いては、対立するものを包含せず、殲滅するという考え方に傾いていってしまったのだ。 さて、この講演を 砧公園を歩きながら聴いていて、私は根本寺と鹿島城址の城山往還の間思ったこととを重ねていた。 憎むべきは薩長中心の明治新政府による廃仏毀釈だな、と。そして、本地垂迹説からの神仏混淆・習合なる仏教と神道のどちらかによる<征服>ではなく<混淆>という知恵を持った我らが遠い祖先の「和の精神」、そのすばらしさである。 根本寺はかつて鹿島神宮と一体的とまでは言えなかったらしい(鹿島神宮寺がそうであったが、江戸最末期天狗党の乱で焼失した)が、廃仏毀釈という暴力・弾圧にめげずに神職鹿島家の墓所があり続けるほどで、その...

2026年5月2日、尾垂浜に立ち寄っての想い

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5月2日、東京を出てまず向かったのは九十九里。神栖への途上であるのだし、立ち寄らない手はない。 尾垂浜より銚子の犬吠埼を望む ハマヒルガオが咲いていた 4月末はおろか、5月に入っても天気予報はなんだか不確かで、雨も覚悟しての出発だったけれど、我がうるわしの(!)尾垂浜(千葉県匝瑳郡旧・光町、現山武郡横芝光町)は快晴で、浜風でなく陸風が快く吹いていた。 旧・光町は匝瑳(そうさ)郡に属したので下総国の一部だったが、上総国山武郡に属する旧・横芝町と平成期に合併、人口の多い横芝に泣く泣く(?)従って上総に属すことになった。こういう<国跨ぎの合併>はそう珍しくはないようだが、田舎の市町村では珍しかろう。旧・光町の古老などは、下総と上総は全然違うなどと言って反対を貫いた人もいたのではないか。 この九十九里地域の上総と下総を分けたのは栗山川で、南側の上総、北側の下総という図式、この川がかなりはっきりとそれぞれの側の文化をも分けた。今でも横芝光町の町長が合併後20数年経っても住民の「日々の暮らしの中にも文化の違いを感じとれます」と認めているほどだ。 栗山川は元々「(高)句麗山川」であったらしく、下総台地に在る水源(成田市)近くの香取市栗(=句麗)源(かとりし・くりもと)に入植していた高句麗からの帰化人が名付けたという言い伝えがあるのだ。そして確かに高句麗からの人々がそこに暮らしていたらしい。 ところが元正女帝の御代(霊亀2年、西暦716年)、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷して、初めて高麗郡を置く(続日本紀)」という勅命が発せられた。栗源の高麗人は移住させられ、高句麗(高麗)王族の高麗王若光(こまのこきし・じゃっこう)の下、後の埼玉県旧・高麗郡(今の日高市や飯能市などの市域に当たる。1896年入間郡発足に伴い廃止)の開拓に当たったというのだ。 話は跳ぶが、同じ帰化人でも、同盟国だった百済からの人々は優遇され、畿内に居住が許された(摂津の百済郡)。当時<僻地>の高麗郡や新羅郡(埼玉県新座辺り)に高麗人や新羅人が住まわされた=開拓をさせられた=のとは大違いだった。 ・・・さて、九十九里の、我がうるわしの尾垂浜、旧・光町のことだが、まだ記すことがある。この記事は、もし同好の士が居られればその方々のため、そして主に娘や孫のために書いて...

根本寺

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  松尾芭蕉による1687年『鹿島紀行』にある名句「月はやし梢は雨を持ちながら」は、鹿嶋市宮中に在る根本寺(こんぽんじ)を訪れた際の旧暦八月十五日(つまり満月の夜)に詠まれた(写真はその根本寺境内に在る句碑)。 雨上がり、かろうじて真円の月は雲の合間から見える、しかし雲の移動の速さから、芭蕉は逆に「月はやし」と観た。一方目を少し下に移すと、寺の周囲の木々の葉はたっぷりと雨の雫を載せている・・・「持」っているのだ。 根本寺は、「城山」と呼称される常陸平氏大掾氏庶流の鹿島氏が平安末期に築いたという大規模な山城趾(あと)の麓(実際は城山と連なる甕山=みかやまの麓)に在ると言ってよい。今回お寺と今は公園になっているその城址を往復したが、もう初夏と言っていい日差しの下、なかなか大変な移動となった。けれども、周囲の緑が非常に美しく、またGWの真っ只中ながらも静かで、それこそ一句捻りたくなる想いがした。 桃青や 句碑は若葉に埋もれをり 「城山」は今でも鹿嶋市の地区名になっており、旧鹿島郡宮中村の一部だった。その「宮中」とはもちろん鹿島神宮の境内地ということで、根本寺はその「宮中村字城山」に在ったわけだ。根本寺は寺伝で聖徳太子の開基としているくらいの古寺であって、それを信じれば、鹿島神宮を大きな存在にしたと言っていい藤原鎌足を祖とする藤原氏の擡頭前に存在していたことになる。 武甕槌(タケミカヅチ)を祭神とした鹿島神宮だけれども、記紀にも、また有名な「常陸国風土記」にもその記述はないから、鹿島神伝説は藤原氏が<後付け>をしたのであろうと私は睨む。713年ごろ編纂の「風土記」にあるのは、「香島(かしま)の天の大神」としての記述で、「神武東征」より前の神の存在である。それが武甕槌であるとは記紀にも記されていない。「香島」が「鹿島」として遣う字を違えたのも、藤原氏擡頭後(723年)のこと。<タケミカヅチが鹿島から白鹿に乗って奈良の御蓋山(=三笠山、藤原氏氏社の春日大社の神体山)へ>という伝説も鎌足さんの嫡子不比等さんが創作したのではないでしょうかね。 (おもしろいことに、奈良の鹿が茨城=常陸の鹿とDNA的に縁がないことが証明されているのですよ。笑。そうなると、「アントラーズ」は「鹿の角」のこと、この名も不比等さんの創作ゆえのことか!) さて、私が今回の1泊2日の旅でもっとも感銘を受...

スポーツを楽しめる世のままで

帰京しました。 今日はもうクタクタで詳細は明日ということにしますが、今回の神栖宿泊の最大目的は今日の鹿島アントラーズvs町田ゼルビア の試合観戦でした。結果は1対1、しかしPK戦で鹿島の勝ちということになりました。それでも試合は前半、町田の方がはっきり優勢だった。後半は拮抗したかな。 憲法集会が各地で行われている中、極楽蜻蛉の所業ではありましたが、3万超の観客はスポーツを楽しめる世の中であり続けることが何より大事なのだと主張しているようにも思えました。 とりあえず、今回はここまで。

今神栖にいます

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茨城県神栖市に来ています。息栖神社が在る、茨城県最南西で93,000人が暮らす街です。鹿嶋市の南ですね。第一印象は、区画整理がしっかりされているきれいな街、というところ。 食事はこの「つかさ」さんでとりました。本当に、「食べログ」通りのすばらしい店で、全てのメニューが美味。御歳76歳の大将と話が弾み、梅水晶とデザートのアイスクリームをサービスしていただきました。また絶対に訪れたい! さて、なにゆえ神栖に来たのか。その理由は明日書きますね。 副次的な目的としては、「東国三社」への参拝です。神栖市に在る息栖神社、鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮がその「東国三社」で、大和朝廷の東国遠征や支配の最前線であったのでしょうね。 また、中でも鹿島神宮については「トーホグマン」でも何ページにも渡ってそれにまつわる空想を書き連ねたものです。境内にある「要石」は地震を抑えているのです。だからこそ、全国に鹿島社は広がり、地震という災厄から守っていただこうということになった。先日震度5強を記録した大町市の鹿島槍ヶ岳も、鹿島社が在るからこそその名なのです。 そして鹿島の鹿が奈良へ・・・そう、鹿島の神タケミカヅチが白鹿に乗って奈良・御蓋山に来られた、と藤原氏の氏社である春日大社の社伝は言います。鹿島には鎌足神社が在って、タケミカヅチこそ藤原鎌足の祖先ないしは彼その人ではないか、藤原家は元々常陸(ひたち=茨城)の出ではないかというロマンある推測ができるわけです。(できない?) その鎌足神社の近くになんと根本寺が在る!これは行かなきゃね。