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Adventureなき余生にて

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庭の乙女椿が満開となっています。 * https://www.youtube.com/watch?v=wInKrN1Igtw&list=LL&index=23 この「口コミ」は非常に興味深いのです。老後に友達はいらない、というもの。交友を遮断して、自分の趣味などにのみ残された時間を遣っていくという考え方ですね。交友はもう余生を過ごす身には煩わしい、鬱陶しい、面倒臭いと。中には交際費として支出する金がない、年金が少ないから、というのも。 まずね、出不精になるんですよ、私の場合はね。そういう老人、多くないですかね。メイジャーな飲み屋街まで出ていくのに乗る電車の中、そして着いてからの雑踏がひたすら疎ましい。人口密度なんて測るのもバカバカしいような田舎がいいなと思うリタイア組は多いでしょう。 若い頃ウキウキして歩いた渋谷や新宿、池袋なんてもう本当に船乗りにとってのバミューダ・トライアングルくらい忌避する場所です。 Mooさんのお宅へお邪魔した旅の道中、Kと幸夫ちゃんにはどうしてそれほど繁華街を嫌うのかを有体に話しましたっけ。 若い頃、私にはthe center of Tokyoに属せるはずだという自信があったのです。會津の片田舎生まれの若者ではありましたが、Mick師匠にデモテープを認めていただいて、青山で出会い、まもなくEUROXの一員として六本木や銀座で録音をするようになり、G Stringとしての第2のデビューでは、事務所は赤坂ですしね。録音は六本木、上用賀、そしてミックスはロンドンのAir Studiosですよ。そういう場所が自分の<仕事場>なら、「I belong here!」と自分も大都会の一人だと思ってしまう。とすればそこを行き来するファッショナブルなTokyoitesと自分は同等なのだなどと自惚れてしまう。そしてそこにはadventureがいっぱいだと興奮する日々でしたよ。 今は昔。 砧公園も多摩川も平日の閑散ぶりが好ましく、さらには夜中出かけて行って、人っこ一人いない闇の中歌を歌う。Mick師を囲む会はこの頃は1年に一遍、登戸や和泉多摩川という半田舎(失礼)で集まるのです。このあいだガッチャンと飲んだのも地元砧の焼き鳥屋。Kとは八幡山や彼の地元新井薬師辺りの店です。 もうadventureもない、そしてそれを望みもしない歳となって、不特定大...

事故というより未必の故意

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上は世間を最近騒がせた砧公園のソメイヨシノとヒマラヤスギ。とは云えこの2本が倒壊したのではない。しかしこの写真を撮った直後に立て続けにこの2本の同類が近くで倒れた。 Accidents will happen.  高校一年生の時、willを未来の助動詞ととって「事故は起こるだろう」と訳すしかなく、なぜ「事故は起こるものだ」という格言の訳になるのかさっぱり分からなかった。もちろん今は分かる。 3.11である。大地震、大津波はまさにwill happenの例だったが、原発のメルトダウンは起こってはならない事故だった。為政者や技術者たちが、そして原発からの電力を利用した東電管轄内の利用者たち(私も含む)が、事故は必ず起こるものという真理を軽視した結果としか言いようがない。 軽視が悪質度を増し、未必の故意までいく場合もある。Mooさんが書かれていた、富山市の、氏の馴染みの交差点で起きた自動車事故は、ほとんど事故というより未必の故意による殺人と言ってもいい。同じような準殺人は、数年前世田谷区用賀の246号交差点で起きている。信号を無視し猛スピードで交差点に進入したクルマに吹き飛ばされ、タクシー運転手の方が<殺された>。 福島第一原発の「事故」も主に為政者と東電の未必の故意の結果だったと言って差し障りがあるか。2006年、共産党の吉井秀勝議員が「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」を提出。 この中で、地震や津波による外部電源喪失、非常用電源の故障、冷却機能の停止が炉心溶融を引き起こす可能性を具体的に警告していたのだ。 ところが当時安倍第一次内閣は、総理大臣名義で「日本の原子炉施設は外部電源に加え、非常用所内電源を備えており、冷却が可能」「(スウェーデンで起きた非常用電源の故障など)同様の事態が発生するとは考えられない」など、安全性を強調し、具体的な追加対策を講じなかった。 誰か責任とったっけ? 去年九月、常磐道を仙台まで北上した際、線量計が道路脇に設置されている福島第一原発立地自治体及び隣接自治体数市町村を通ったが、大熊町とかでは放射線量が今でも周辺自治体のより1桁や2桁違っていたのに驚き、恐怖したものだ。 * さて、今日忘れもしない14:46、黙祷を捧げよう。

もうだめかもしれないね

不勉強な者および知らないことを知らないと言えず謙虚になれない者の社会における発言権が拡大したと思えるのは私だけだろうか。 ちょうど身体能力では到底普通の人間が敵わぬ者がいるように、思考能力でもそういう優れた者がいる。それはもう、如何ともし難い。例えば、100メートル走17秒台の者はどんなに努力しようが9秒台のスプリンターに追いつきようがない。脚が遅い者がでは陸上短距離界のことについて云々しようとするだろうか。また云々したところで誰がその論の説得力を感じようか。同じように、思考力並外れた人間に、脚が速いだけが自慢の者が複雑な問題の解決法を語り合うことができるはずもない。 民主主義の恐ろしさはそこにあるだろう。今のところ最も合理的で理性的な政治システムだとは思うけれど、「民」が暗愚であったら、暗愚主義になってしまう。ナチも表面上はワイマール憲法下の選挙を通じて政権を獲ったと言える。(ただしその得票率は37.3%だったし、その選挙もすでに共産党への弾圧など、恐怖政治下のことだったから公正とは言い難かった。また議会がヒトラーを首相に選んだのではなく、ヒンデンブルグ大統領から任命された。) そのヒトラーが思考能力に長けた、知らないものは知らないと謙虚な指導者であったはずがない。彼の狂信でなんと軍民合わせてドイツは700万ほどの国民を失った。さらに他国の軍民合わせて1,500万〜2,500万人の範囲で殺戮したのだ。 もう二度とこんなことは起こり得ないと思えるほど、人類は暗愚がもたらす恐怖、悲惨を体験したはずだった。 ところが、どうだ。人類は「進化」したか? Trumpの発言を、ほぼリアルタイムでTwitterで確認している。ほとんどどころか間違いなく狂気ないし暗愚からのものだ。こんな大統領を世界で最も先進的だったはずの超大国が抱えている今、なのだ。

全員よく頑張った

短信。(誰に?) 高3生、今日の発表で全員が第一志望に合格ということになった。 すべて人に自慢できる(彼ら彼女らはしないけど)大学だ。私も久しぶりに過酷な授業運営となったが、報われた。

イッちまったなあ、MNEMO (グハハ)

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2日前、世田谷区大蔵の「やっちゃば広場」で満開を迎えていた河津桜。 * 私が有神論者であるのはもう何度も表明している。とは云え、まさか白髭のおじいさんを神と思っているはずもない。究極仏(我々のこの宇宙ではつまり釈迦牟尼)さまも神である。こうなると汎神論だが、そうではない。スピノザの「神即自然」やペレニアル哲学、インド哲学の梵我一如、そして本邦なら本地垂迹説の考え方に与する。 ちなみにアインシュタインもスピノザの考えを支持している。 イスラエルの神とイランの神の戦いと称して殺し合う今だ。スピノザもアインシュタインもユダヤ人だぞ。まずは仕掛けた方のネタニアフよ、同胞の偉大な先輩を見習え。 * Mooさんが氏のこれまでの主に公的な歩みについて書き連ねておられる。八十路に入られたからそれを契機に来し方を振り返っておられるわけだろうが、一つの区切りをつけておられるとも言える。 私もやたら過去のことを思い出す。理由は主に「暇になったから」だ。振り返ると、何か達成したかという視点を持ちがちだ。しかしそういう視点だけで回顧反省するのは素朴すぎるのではないか。何かを達成したと思えるから人生有意義で、何かについては中途半端にしたとか失敗したとかと認識して人生無駄にしたとするのは愚かではないかと思い直すのだ。 自分の善い行いが後世につながれていくのはもちろんうれしいことだ。しかし「うれしい」と感じる主体はすでに他界しているのだ。そんなことを感じる主体でなくなっていても、いいではないか、つながっている、自分の為した善なることの影響が続いているという事実があるだけでいいのだと思える人は強者だ。 私はこの世を去った後も「うれしい」と感じる主体であり続けると思っている。同様によろしくないことをした自分の罪も引き受けたままになるとも思っている。仏教は「無我」と言うし、お釈迦様に逆らえるはずもないが、しかし、私は意識は常住だと思えてならないのだ。仏性は不滅なのだ。あるいは量子意識理論(ペンローズなどによる)。そして私自身の根拠としては、18歳になる直前だったか当日だったかにした心霊体験が大きい。 人間は、自分がしたことが後の世でどうそこに生きる人々、動物、植物に影響しているのかを確認しなければならない存在なのではないかとすら思う。それでうれしかったり、罪悪感に苛まれたりをいわばずっと繰り返す。そして...

人間サンクチュアリ

 砧公園で桜の木が倒れて七十代女性がケガをしたという。お気の毒なことだ。軽傷とのことらしい。お見舞い申し上げる。 そこはサイクリングロードの北西端で、私も頻繁に通る。サイクリングロードとは云え、joggersやwalkersも通り、数としてはそちらの方が自転車乗りより多い。 枝が落ちることはしょっちゅうだから、私も常日頃は気をつけている。今回は倒木だから深刻だ。管理事務所(都)も毎日木の状況を確認しているのだろうけれど、万全ということはあり得ない。 同じ目に遭いたくないなら、木立の下や傍に近づかなければ良いのだけれど、危ないからと公園から樹木を取り去ったら一体何に憩いを見つけると言うのか。快を得られるところには必ず相応のリスクがあるというのは真だ。風光明媚なところは、火山地帯だったり、洪水危険地帯だったり、熊が出たり。美しい海岸や臨海の保養地には津波や高潮のリスクがあり、さらには鮫に食われる不幸もあり得たりするところもある。 私はもちろん今回のことで砧公園を避けたりはしない。都立公園の中でも出色の類であり、23区内の都立公園ではおそらく一、二を争う緑豊かな人間サンクチュアリだ。

伊藤二冠A級昇級

  何にも浮かれられない日々だけれど、昨夜は伊藤匠二冠のB級1組最終戦を観ずにはいられなかった。9割方負けだったのだが、最終盤大逆転で勝利、10勝2敗でA級昇級となった。 相手は2番目に好きな澤田真吾七段だったので複雑な想いはあったけれども、なんとその最終盤、伊藤二冠は負けても同時に対局開始していた他のB1組のライバル二人がすでに負けており、昇級が確定していた。それを知ることなく(おそらく)、ギリギリ大逆転で勝って文句なしの頂点カテゴリーへの到達を果たしたのだ。 世田谷区弦巻の大天才、おめでとう! * 一方同い歳の愛知県瀬戸市の大天才藤井六冠は、不調を託つ。有力棋士たちの総研究、総攻撃がいよいよ六冠を苦しめ出した。先陣は伊藤二冠、まず叡王城と王座城を落とした。彼により藤井難攻不落説が完全に揺らぎ、永瀬、増田がそれぞれ王将城、棋王城陥落を目指し続いているのだ。将棋界は群雄割拠の様相を帯び始めている。 * 群雄割拠、戦国時代で、将棋界はなんと低迷するという予測がある。「パックス・藤井ア=Pax Fujiia」の天下泰平、彼の人気継続こそ将棋界の繁栄なのだ、と。一理あるけれど、ではPax Fujiiaが続くマンネリが本当に安定した将棋界活況をもたらすのか。 囲碁界は今本当に手酷いことになっている。棋戦が2つ3つと消滅しているのだ。長兄が世話になった会津中央病院が主催していた女流棋戦の立葵杯もそのひとつ。賞金700万円だったか。日本棋院はこのまま行けば立ち行かなくなり、今や市谷の本部を売り出す羽目に陥っている。一力遼さんの国際的な活躍も焼け石に水のようだ。女性棋士も世間の下世話な耳目を集められていない。 娯楽多様化の時代、将棋と囲碁がいつまで、どこまで、一定の数のファンを集められるのか、考察が必要だ。