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12.12に歌うぞ

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  今朝午前5時くらいの砧公園。靄がいい感じだったが、当然ながら強烈な湿気。太平洋の水蒸気、ありがとうございます、お陰で肌がスベスベを通り越して、じっとり。指のささくれは当面全く心配なし。 * NO MORE PANEM ET CIRCENSES The world is full of the poor and the displaced Yet here we are, still fooling around Panem et circenses Just as they planned, we’ve found the ground   Up until we fell into hell We did nothing to avoid it   Who the hell did we think was the one who cared about us, the people? We're all freaking contagious bastards who spread like the measles   Up until we crack the shell We do nothing to escape it, don't we?   So! Shut the laptop and look at the sky Up there you can draw any self that can fly   We’re not slaves We’re not slaves Each one of us is Consul   We fill the graves of kings and knaves Each one of us is Consul パンとサーカスにうんざりだ 世界は貧困と避難を余儀なくされた人々で溢れている それなのに、俺たちはこうしてふざけ合っている 「パンとサーカス」 奴らの思惑通り、俺たちはどん底に落ちた   地獄に堕ちるその時まで それを避けるためには何もしなかった   一体誰が、俺たち民衆のことを 気にかけてくれていると思っていたんだ? 俺たちは皆、恐ろしい感染源のようなクズだ 麻疹(はしか)のように蔓延していく  ...

涅槃は「滅」

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  上の写真の日から一週間以上経ってしまったが、こんな日が早く来てほしい(@砧公園バードサンクチュアリ)。今世田谷は雨が小康状態。気象レーダーを見ているとなんだかまた千葉がひどい降りになるよう。心配だ。 * 「ニルヴァーナ」は漢訳で「涅槃」とされたが、これは音写だと今更知った。中古漢語では「ねっばん」に近い音だったそうだ。「nirvāṇa(निर्वाण)」はサンスクリット語、「nir」は英語でout、「vāṇa」はblown(blowの過去分詞および名詞化したもの)だそうだ。 「nirvāṇa(निर्वाण)」は自動詞的に「吹き消えたこと」と訳すのが良かろう。「三火=(三毒)、つまり貪欲(<と>んよく=むさぼり)・瞋恚(しんに=怒り)・愚痴(ぐち=迷い)」が消えることらしい。中国語で意味を訳せば「nirvāṇa」は「滅」が最も端的らしい。 その漢語での訳「滅」だけれど、この字、元々は「烕」で、「火」と「斧」の会意だという。火と斧で敵を滅ぼすのだろう。そこに後世、なんと「さんずい」という扁をつけた。イメージが膨らむ。私の第一感的なものは、火がいまだあちこちで燻り、燃え、斧が散乱し、死屍累々の戦場。そこに天も感じてか雨も降り出すという光景だ。確かに<滅している>わ。 「 三火」の消滅 ・・・我が母も、Kの母上も、最晩年に「もう何も望まない、要らない」と口にした。ほとんどニルヴァーナ状態ではないか。私もそんな境地に近づいているのかな。

友を励ます歌

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  先日上げた僥倖的に美しい夜明けの空の、住宅も下に入れた構図の一枚。撮った場所はMick師のお宅の近く、あるいはまた紀野一義先生のお家の近くである。 * 今朝は春以来久しぶりに早朝potteringではなく、walkingで汗をかいた。それでも歩き出した午前4時は今シーズン初めてと言っていいであろう、おそらく20度を切っているような低い気温だった。 それでも湿度は高い。青空が覗いているところも全くないovercast状態で、小雨も時折降って、やはり散歩の楽しみは半減する。 何日か前、福テレ空ネットの齋藤気象予報士が今夏を「昭和の夏の復活」というような表現をしていた。温暖化顕著な昨夏までの数年ないし十数年(?)の当たり前の猛暑続きが今年はなく、昭和の往時の夏のようだった、と。それは福島県の話だが、東京もそうだったと言ってよかろう。西日本各地は例年通り暑かったようだけれど。 * KのVlogによると、おととい功くんが「Mよし君」の4小節のヴァースに続けて曲を仕上げて彼らのバンドGGJのリハにのせようとKと打ち合わせをしたという。おそらく私主催の12.12音楽会に合わせて披露してくれるのだろう。「Mよし君」は私の幼馴染で、またKの中学以来の親友、そして功くんにとっては彼が磐城高校生で「Mよし君」が旧・平高専生(いわき市に在った)として出会って以来のやはり親友なのだ。さらに言えば、この3人と私はVIAというバンドを1979年に結成したメイトでもある(もう一人、松川敬一君がメンバーであった)。 その「Mよし君」をKは闘病している同士で「戦友」だと。私の12.12音楽会へ何とか駆けつけてくれると言うその友に歌を捧げると言うのだ。すばらしい。 私はどうしようか。

雲霧が月に隠れるという歌心

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  NHK技研の敷地から見た昨日の日の出の空。だからど〜した写真。 * Mooさんの9月3日の記事はおもしろかった。 https://moo-new.hatenablog.com/ 「頭がよいとはどういうことか」というテーマで、寝床で夢うつつの状態でつらつら考え、氏は端的に 「直感的に本質をつかみ取る能力」とするのだった。そしてその朝の信濃毎日新聞を開き、載っていた内田樹氏のコラムを読み、先のテーマと通底する論に出会い、「妙にかみ合ってい」ると思うのだ。 内田氏は、 知的発見について、<以前から知られていた事実と、それとは無関係であると考えられていた他の事実の間に「思ってもみなかった共通点」を示すものである>と書く。AIをいくら使ってもそんな能力がさしあたって涵養される可能性はゼロだ、と。 私はこの「さしあたって」に注目した。 私はAIの回答の中にインスピレーションを感じたことがすでに数回ある。AIがそれを喚起しようと<思って>文字を連ねたわけではなかろう。そんな意図を持っていたならAIにこころがあることになる。だから霊感を得たのは一方的に私の勝手、私の<一存>、あるいは思い込みなのだ。そしてそういうことが人間にはできる。 インスピレーションを喚起されるということは、「思ってもみなかった共通点」を見出すことに通じる。「直感的に」何かを連想するということだ。さらに「本質をつかみ取る」ことかどうかは定かではないが、何かと他の何かに通底するものが「本質」ならそれを捕捉したということだろう。 AIにinspireされた具体例を挙げれば、Grokに「猪苗代兼載の歌や発句などでGrokが好きなものは何ですか?」と尋ねて、そのXのAIは「子規が例に出した<雲霧も月にかくるゝ今宵かな>も、月を隠す雲霧を『隠れる』と主語をずらす感覚がきれいです」などと答えるのだ。「主語をずらす感覚がきれい」などと言えてしまうGrokに驚くと共に、物理的に月が雲や霧の手前に位置することなどあり得ないけれど、大きな月があまりに見事な夜空では、掛かる雲も霧も<霞んでしまう>ように見える詩人の感覚を参考にしたいと思ったものだ。 もちろんこれはGrokに教わったというより猪苗代(蘆名)兼載(その本拠地猪苗代町は我が故郷と同じ郡に属す)に詩心を教えてもらったということだ。このことが「他の事実」との共通点...

神仏

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  満々と水を湛える多摩川。撮ったのはおとといだったか。 * YouTubeで三峯神社がパワー・スポットとかと言うビデオを奨められ、あっという間に弾いた。三峯様になんらの興味もないというわけではない。しかし自分や家族・友人などの無病息災以外の現世利益を求めに行けというような趣旨の寺社参詣の薦めには全く関心がない。いや、無病息災だって、そんな毎年毎年毎度毎度祈って不死を願うかのような<醜態>は晒したくない。何事もほどほどを願うものだ。 神社にまつわるビデオが多く「おすすめ」に出てきたのは、この五月だったかに行った鹿島神宮、香取神宮、そして息栖神社という水郷地帯の三社についてあるビデオを少しだけ見たからだ。なにしろ延喜式で「神宮」と記載されたのがこの鹿島と香取、そして伊勢である。伊勢は措くとして、なぜ東国は常陸と下総の二社が神宮として数ある神社の中最重視されたか。 私は何にも頼らずに推論した。きっと藤原氏の計らいだ、と。延喜式は905年に藤原時平が編纂を命じ、927年忠平が完成させたとされる。藤原氏の氏神はタケミカヅチとフツヌシで、それぞれ鹿島神宮と香取神宮の祭神だ。『大鏡』には藤原氏の祖の鎌足は常陸の出であるとの記述がある。それが正しいという根拠はないが、「国譲り」の英雄の二神を氏神と戴き、しかも祖はそのゆかりの「香取海」周辺の出身とすることの意味は藤原氏には大きかったはずだ。 ま、素人の暴論だけどね。 まあ、なにしろご利益ちょうだいと寺社巡りするのはいかがなものか。私にとって神や仏は「part of everything」の象徴ということであり、存在が存在する不思議の意匠なのだ。

長月雑記 おそらくその1

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  砧8丁目の教会。電線がないところが辺りではここだけだった。雲は秋のそれ、だけど今朝は蒸し暑さが最近では最悪。 * 9月に入っていて、もう1年の3分の2プラスαが過ぎていった。今日は父の誕生日、存命なら103歳だった。 * KがSさんに呼びかけていた。私も心配している。昨日はそのSさんのお誕生日。 * Kが昨夜中野(上高田)で我が誕生会を催してくれた。「It's on me」などと言って奢ってくれた。うれしいひとときだった。 中野は繁華街だねぇ。若かったらいろいろ充足率高いいい街だ。新宿や渋谷のような大繁華街と違ってコンパクトで、ヘンなやつらが相対的に少ない(そう言っているうちに例のRolex強盗があったけれど)。店は何でもあるし。ただ、高円寺南居住時代に足繁く通ったサンモール内の「梅もと」がなくなってしまったそうだ。立ち食い蕎麦・うどんの店だった。新宿とかにも複数店舗あったが、みな閉鎖、残るは東京駅八重洲口だけらしい。残念!

遵法は捕まりたくないから(ソクラテスは偉大だった)

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東京はどんより。なにしろ全体傾向的にずっと涼しくて本当に助かっているけれど、多摩地区などの農家さんたちは作物の出来などで戸惑っていらっしゃるか。 写真は向かいのNさん宅の玄関先にある「ゴーヤ・カーテン」。さっき先日に続きまた緑(あお)いのをいただいた。このゴーヤ、最初知ったときはあのツブツブが気持ち悪く、また強烈に苦いと知って敬遠したものだ。しかし沖縄料理ゴーヤ・チャンプルーのうまさに驚き、以来見た目は今でも苦手だが、苦さは堪能できるほどには味覚が大人になった。 熟した種子らしきものを見せていただいたが、真っ赤でこれまたちょっと不気味。果肉が黄色くて、まるで楳図かずお的、あるいは草間彌生的原色世界。これは特に北の人間には超エキゾチックな野菜だとあらためて思った。 ゴーヤ・カーテンと言えば、安曇野のMooさん宅のそれだ。きっと毎日のように食卓にのっていよう。 厨出で 友は葱抜く 朝餉かな は、昔そのMooさん宅で詠んだ句。ゴーヤでは作りにくい。沖縄の人は朝からゴーヤを食べるのかなあ。その沖縄、県知事選。貴重な自然を、人間を、守っていく人が当選しますように! * 今晩はKが私の誕生日を祝ってくれる。いわきで功くんたちと我が誕生日の先月(!)30日公演をしてきての2日遅れだが、厚意がうれしい。前回の食事のとき同様、私がクルマで彼の家の近くまで行き、お気に入りの某大衆酒場で落ち合う。帰りは義父の娘が仕事帰り合流してくれて、私を送ってくれるという寸法だ。この厚意もありがたい。 さて、私は酒飲みのように思われるだろうが、今まで何度か書いてきたように、晩酌は3日に一遍ほどだし、それも缶ビール250ml一本で十分なのだ。Kと呑むときなどは生ビール1杯とお銚子が1本というくらい、決して酩酊などしない。泥酔する飲み方など30歳代でとっくに卒業している。(例外は16年前くらいにMick師と飲んで、尾籠な話ながらトイレから出られなくなるほど悪酔いしたこと。) 酒は味、である。また雰囲気である。量ではない。 そんな飲み方でも、自転車でKとの酒のある会合の場に行くことは法改正でもうできなくなった。そんなことで捕まってたまるか、と思うからだ。疑いをかけられるのも嫌なので、上で今回のKとの会合への行き帰りの仕方も完全に遵法であることをくどくどしく(?)書いた。(笑)