「解」
昨日、夕暮れの空
そうそう。なんだか私は神仏への信仰心篤い、宗教爺さんのように思われているかもね。
確かに科学でなんでも説明がつくなんて思っていないし、17歳最後の日々で幽霊は見るし、29歳のときには愛猫チロ昇天の奇跡は体験するし、世の中は今だって、そしてこれからも、ずっと不思議はあるし、中でも生命・存在の不思議に一般解は永劫出てこないと思っている。
「解」はそれぞれの人が見つけるもの、感じるもので、決して他の人にそのままシェアできない。まあ、多くの人が見つけられも、感じられもせず、終わるのだろうね。
私はもう見つけたか?いや。でも薄々、ある刹那ないしは瞬間、感じることがあるとは言えるかな。
それを言語化するのは今のところ無理。そんなこと言ってたら、もう時間はそうないのだし、言葉にできぬままになっちゃうぞ。そうだね。
どうしても今言語化すると、まず歌に、楽曲に、その「解」は織り込まれているだろう、ということ。不肖私が作り、歌うものにもあるし、もちろん他のすばらしい音楽家たちの作品や歌唱にも。自分が、音楽家が、「大好きだ、私はこれと一体だ」という時空間の一瞬のありさま、たたずまいを表現できたとする音の中にあるのだ。
でもその「解」は数値でもないし言葉でもない。自分が溶け込んだある時空間の一瞬のありさま、たたずまいの、音としての現れ(表れ)なのだから、流れてしまうものだ。
私は、そしておそらく多くの音楽家たちは、生命・存在の不思議へのその瞬間的に出現する「解」を歌い、奏でるのだ。

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