根本寺

 


松尾芭蕉による1687年『鹿島紀行』にある名句「月はやし梢は雨を持ちながら」は、鹿嶋市宮中に在る根本寺(こんぽんじ)を訪れた際の旧暦八月十五日(つまり満月の夜)に詠まれた(写真はその根本寺境内に在る句碑)。

雨上がり、かろうじて真円の月は雲の合間から見える、しかし雲の移動の速さから、芭蕉は逆に「月はやし」と観た。一方目を少し下に移すと、寺の周囲の木々の葉はたっぷりと雨の雫を載せている・・・「持」っているのだ。

根本寺は、「城山」と呼称される常陸平氏大掾氏庶流の鹿島氏が平安末期に築いたという大規模な山城趾(あと)の麓(実際は城山と連なる甕山=みかやまの麓)に在ると言ってよい。今回お寺と今は公園になっているその城址を往復したが、もう初夏と言っていい日差しの下、なかなか大変な移動となった。けれども、周囲の緑が非常に美しく、またGWの真っ只中ながらも静かで、それこそ一句捻りたくなる想いがした。


桃青や 句碑は若葉に埋もれをり


「城山」は今でも鹿嶋市の地区名になっており、旧鹿島郡宮中村の一部だった。その「宮中」とはもちろん鹿島神宮の境内地ということで、根本寺はその「宮中村字城山」に在ったわけだ。根本寺は寺伝で聖徳太子の開基としているくらいの古寺であって、それを信じれば、鹿島神宮を大きな存在にしたと言っていい藤原鎌足を祖とする藤原氏の擡頭前に存在していたことになる。

武甕槌(タケミカヅチ)を祭神とした鹿島神宮だけれども、記紀にも、また有名な「常陸国風土記」にもその記述はないから、鹿島神伝説は藤原氏が<後付け>をしたのであろうと私は睨む。713年ごろ編纂の「風土記」にあるのは、「香島(かしま)の天の大神」としての記述で、「神武東征」より前の神の存在である。それが武甕槌であるとは記紀にも記されていない。「香島」が「鹿島」として遣う字を違えたのも、藤原氏擡頭後(723年)のこと。<タケミカヅチが白鹿に乗って奈良の御蓋山(=三笠山、藤原氏氏社の春日大社の神体山)へ>という伝説も鎌足さんの嫡子不比等さんが創作したのではないでしょうかね。

(おもしろいことに、奈良の鹿が茨城=常陸の鹿とDNA的に縁がないことが証明されているのですよ。笑。そうなると、「アントラーズ」は「鹿の角」のこと、この名も不比等さんの創作ゆえのことか!)


さて、私が今回の1泊2日の旅でもっとも感銘を受けた根本寺と鹿島城趾の往復での想いです・・・すばらしかった、とにかく、インスピレーションの礫がビシバシと私の頭にぶつかってきました。

根本寺は山号を「瑞甕山(ずいようざん)」と言います。芭蕉の句にまつわる記述での「寺の周囲の木々」の一部を成すのが何と言っても寺の裏山の「甕山(みかやま)」の緑(=瑞)です。この「甕」は「みか・かめ・もたい」と訓読みされ、そうなると、「香島」は「みかしま」に由来するという説が本当らしくなってきます。眼下に鰐川という河川を生み出す、緑豊かな住みやすい海抜25mほどの土地こそ「城山・甕山」であって、そのうち、太古、おそらく縄文の昔に作られた「甕」がたくさん出土する山として一方が「甕山」と呼ばれていた可能性があるわけです。「城山」はこの「甕山」と一体と言っていい高台です。後年鹿島氏が本拠とするのは当然というような天然の要害であり、また鰐川沿いは良い耕作地だったはずです。

現代においては、甕山も城山も崖地であって、斜面崩壊が常に懸念される場になっています。そこを擁壁で囲った業者は「根本(ねもと)工務店」さんでした。茨城には本当に多くの根本姓の方がおられます。

その「根本」は、「根本寺」の熱心な檀家の一人(?)が家名としたことから始まったのではないでしょうか。日本の苗字は地名由来が8割と言います。「根本」もそうかもしれません(根本という地区名はいくつかある)が、しかし字面だけ見れば抽象名詞でしょう。最初から地名ではありえません。

私は「根本」姓のルーツ(根本)は、この常陸国鹿島の根本寺にあると推定することになったのでした。

(アントラーズの試合観戦についてはまた後日。)




城山からの眺め。西の潮来市方面を望む。




根本寺境内と背後の甕山。芭蕉(桃青)の「寺に寝てまこと顔なる月見哉」の句碑。

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