「世田谷区狛江」は実現しなかった



大昔、今頃の季節に撮った狛江の多摩川べり。この男性のこころの中は、きっと詩で、歌で、満たされていたにちがいない。

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幾度も書いてきたことだけれど、狛江市は本当に私の人生を変えた。この地に高円寺から移ってこなかったならと思うとゾッとする。もちろん、誰にとってもある選択の結果はとらなかった方の選択とは違う結果になるのが当たり前も当たり前、その後者の「結果」はいつまで経っても仮想的なもので、その優劣を語っても詮ない。それでも、なのだ。

私が狛江市の存在を知ったのは、杉並区高円寺在住時よく一緒にクルマに乗り<遊んだ>大学時代の後輩が世田谷通りを使って行く川崎市の某所に住んでいたことで、彼の家へ行くときにその世田谷通りの東京都の終点である多摩川べりの街、すなわち狛江市を、何度も通ったからだ。狛江が高円寺を去るときに向かうべき地の最有力候補になった決定的要因は、その空が広いから、だった。會津の片田舎出身の二十代前半の男にとって、「本当の空がない」高円寺から逃げ出すなら、そして東京で音楽を続けて行くなら、狛江しか私には選択肢がなかったのだ。本当の空があるところで私は自分の歌が降りてくるのを待つ----それは消極的な姿勢では決してなかった。逃避ではあったが、歌うたいとして必要な陰棲あるいは遁世だった。

ということなのだよ、娘よ、孫よ。

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その狛江市。1970年に日本第2位の狭さで市制施行。それまでは行政の効率化で同じ北多摩郡の調布市(当時町および神代町)との合併を都から促され、町民の多くもそれに賛意を示していたらしいが、当時の町長が世田谷区への編入を強く主張しかなりの悶着があったという。

町長は、特別区への編入ということで狛江が世田谷の一部になれば都市整備が早く進むという主張だったらしい。その際、たとえば調布町および神代町と例えば「北多摩市」として合併し、「北多摩市狛江」となるより「世田谷区狛江」という名称に憧れを抱いたこともあろう。

それに反対した議員が多数派だったのは、世田谷区の一部になれば、町議会はなくなり、区議会議員として広い世田谷区(当時東京23区最大)を回らねばならず(地域毎の配分はない)、多くが議員身分を失うのが嫌だったというのもあったらしい。

まあ、狛江市は「東京の中の田舎」だし、それがいいのだけれど、議会も田舎だ。狛江を形成する昔の和泉村、猪方村、駒井村、岩戸村、覚東村、小足立村の地主さんたち、つまりは各村の名主階級や有力な農家の子孫が今でも議員をやっている例が多数であるはず。

私は1985年に狛江市に移り、市内を転々としたが、まず旧猪方村に住み、和泉村、覚東村、そして再び和泉村に暮らした。当たり前かもしれないが、大家さんはみなその村の地主、旧名主階級の人だったなあ。

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伊藤匠叡王、第四局負け。終盤はずっとAbemaで観ていた。ガックリ。またもやフルセットとなったが、ぜひ防衛を!
 

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