1991年大河ドラマ『太平記』
NHK大河ドラマ『太平記』は1991年の作品であり、この年の師走に娘が誕生した。それだけでも忘れられない年になったが、私はその頃新百合ヶ丘でも英語を教えており、駅周辺の整備がかなり進んでいて、津久井道(世田谷通りの延長)を挟んだ北側の丘を昼食休憩中に歩いていた多分この季節、つまり初夏に、ドラマで描かれる、本当は厭戦の人であったという尊氏像に感銘を受けて、When There's No-One Left to Hearという歌が降りてきたのだった。
上はKがeditしてくれたショート・バージョン。演奏は発展的にG Stringになる前のELIXIRで、drumsがスティック、bassが山口じゅんさん、keyboardが佐々木聡作くん、そして名ソロを弾いてくれたguitarの川口功くんであった。録音は一口坂スタジオで、ディレクターは米人Steven Plunkett、ミキサー&エンジニアはイタリア系AussieのJohn(ファミリーネームは失念)であった。
新百合ヶ丘のその丘から北や東を望めば多摩川方面であって、条件が良ければ東京タワーも見えた。戦いの地となった矢野口や分倍河原、関戸もそう遠くない。<自分たちの幸福のために>14世紀に殺し合った人々のことを思ったのだった。
新田義貞が多摩での戦いにおける討幕軍の主要人物となったけれど、尊氏の足利家に比べれば、新田氏は同じ八幡太郎義家の子・義国の流れであっても家格がはっきり劣っていたという。主に足利家が北条氏ともそれなりの交誼があったからで、反面、新田氏は頼朝挙兵時に協力せず、北条氏とも無縁、官位もゼロで実質清和源氏嫡流筋となる足利氏の分家扱いだった。それゆえ義貞は今こそ家運の劇的上昇の機会ととらえ、後醍醐天皇の討幕の綸旨に従ったのだ。そういう野心も痛々しく感じつつ、しかし、もし私が義貞だったらどう動いただろう、などと夢想した。
多摩市矢野口は私のサイクリングコース内にあって、そこで特に義貞の遺子・義興が謀られて殺される戦いがあったと言われたら、そのことを想いながら、川の流れをじっと見続けた日もあった。
(戦史に残る「矢口」は多摩市のではなく、大田区の地区名であり、戦いもそこで行われたのであって、新田神社や武蔵新田もそちらにあるのだし、多摩市矢野口は関係がないとの説が有力だ。私もそうだろうとは思うものの、しかし、二子玉川の多摩川中州である「兵庫島」の名前の謂れを聞けば、義興の家臣由良兵庫介の遺体漂着というインシデントにつながる。大田区の多摩川から世田谷区は上流に当たり、普通、流れ着くはずがないのだ。その一点だけで私は「矢口」多摩市説を捨てきれないのだ。)
もともと厭戦、反戦の人であった私は、この『太平記』でますます平和への思いを強くしたのだった。

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