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11月, 2025の投稿を表示しています

生来の怠け者

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3日前だったかな、静かな夜明け。 * 東京はあったかいぞ、今窓開けていてTシャツ一枚でも寒くない。小春日和なんてもんじゃない。小夏日和だべ。 * Kが右足・右脚に痛みを抱えている。それでも遠い現場へ行って働いているから頭が下がる。持病(糖尿病と泌尿器の不全)も患いつつなのだ。じっとしているのが嫌な性分というのもあろうが、なにしろよく動いている。体が悲鳴を上げているじゃないかと思うのだけれど。 前に書いたかもしれないが、今私の知己2人が深刻と言える病に罹患してしまっている。そういう歳だと言ってしまえばその通りだけれど、その2人とも勤勉な人間で、だから仕事上でいろいろとストレスを抱えてしまうのではないかと推察するのだ。 私は生来の怠け者。だから病からfreeだとは言えるはずもないけれど、ストレスが両者に比べ圧倒的に少ないのだけは確か。 高校時代の卒業の一言で私は「俺、できれば一生散歩して暮らしたい」と書いた人間だ。

あらまあ、11月も明日までかい

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  今日、日の出ちょっと過ぎのNHK技研遊歩道。ちょい右に傾いてて失礼。 おとといだったか、小田急の立ち食い蕎麦屋である箱根そばに入ったら、掲示でおにぎりの販売を当分見合わせるとのこと。びっくり。「企業努力ではもうどうにもならない」と書いてあったはずで、米の高騰で110円ではやっていけないということだった。だったら130円とかにしたらとは思ったけれど、蕎麦とうどんの価格を最近数回上げてきた中でいきなりおにぎりもまた上げたら客に申し訳ないということでワンクッション置いたということか。 米の高騰は、生産者がその労働対価として正当に報われての結果なら納得するけれど、この国ではそんな美しいストーリーだけではあるまいとしか言いようがない。中間搾取している者が絶対いると思っている。 * 今日は義父の娘の仕事の関係で町田方面へクルマで彼女を送った。久しぶりの津久井道、aka神奈川県道世田谷町田線をひたすら西進。柿生あたりで必ず渋滞するのは全く昔通り。工事ももう何年もずっとやっているのに進捗しているとは思えず。 反対方向も渋滞しているので同じ道を使う気が失せて、横浜市青葉区の方から国道246号に入って行った。大して混まずに大正解。 世田道(せたどう=世田谷通り)の延長である津久井道、もっともっと整備されないと本当にまずいんじゃないの?246ほどになんなさいとは言わないけれど、直接の都心方面への道が片側1車線の朝昼夕渋滞道路だけでは、いかに新百合ヶ丘とかが拓けていてもツライよね。 で、ガソリンの暫定税率分もなくなって、ますます道路整備へ金が回せなくなるんじゃないの?どっから穴埋め分調達するの?防衛費から?そりゃいいね!(空想) * 今日はGeorge Harrisonの命日。 今Beatles全曲で最も再生されているのがHere Comes the Sunだという統計結果を耳にした。奇跡的な曲だよね、それはもうリアルタイムで感じたよ、小6だか中1のとき。 George, I miss you!

Paul Simonのすごさ

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  昨日の、ちょいと寒々しいご近所の景。 https://www.youtube.com/watch?v=noWYa_1zDrM この訳詩、いいわ。Simon & Garfunkel の A Hazy Shade of Winter です。写真の道を歩きながら、この歌を頭の中で歌っていました。 昨日誕生日を迎えたStickが「転石会」のLINEスレで祝福のことばに答え、 <『まだまだこれから…』っと思い続けてxx歳の誕生日を迎えましたが、変わらず『まだまだこれから…』っと思っております。今後もよろしくお願い致します🙇‍♂️> と(一部改変)。 いいね。こうじゃなきゃね、いくつになろうが。 とは云え、6年人生を先行する私は、老境に在ってもう齷齪(あくせく)したくないという気分が支配的なのは疑いなくて、本当、一応彼の音楽上の相棒の一人である者として彼には申し訳ない。 「まだまだこれから」とは思わないけれど、「まだできるかも」とは思う。その消極さ加減でどれほどのことができるか分からない。 Time, time, time See what's become of me While I looked around for my possibilities I was so hard to please  But look around Leaves are brown And the sky is a hazy shade of winter  時よ、時、時よ 僕がどうなったか見てくれ 自分の可能性を求めて見回しているうちに 僕はとても気難しくなっていた それでも辺りを見る 葉は茶色くなって 冬の薄靄の空 (MNEMO訳) すごい歌詞だよなあ。Paul Simonは本当に天才だ。1966年に書いたというから、彼はまだ24, 5歳だった。なんという老成!おらはこの歳でやっとPaul Simonの24, 5歳の境地に追いついた!(?)

Stickおめでとう!

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昨日砧公園内のfoliagesです。 今日はスティック(杉山靖幸)のお誕生日。 彼と出会って44年になります。国分寺のスタジオででした。功くんの仲立ちがあってのこと。当時私はEUROXから逃走したばかり、ちょうどこの時季だったなあ。彼は関根くん、治雄ちゃんらがEUROXの前に活動していたTAOのことも、またEUROXのことも知っていて、そこから<こぼれてきた>私と快く奏で合いをしてくれるようになりました。当時彼はxx歳で初々しかった。そして今でも彼は本当に信じ難いほど外見が若いんですよ。羨ましい。 彼はだから常緑のスギ山ですな。昨日あげたヌマスギではない。メタセコイヤでもない。Evergreenなdrummerです。私はdeciduous、落葉性のsingerです。  

もうほんとに引退で

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  写真は世田谷区大蔵の仙川河岸段丘上で先ほど撮ったもの。中央奥の茶色の葉をつけた樹木はヌマスギで、別名落羽松(らくうしょう)。スギ亜科で、落葉針葉樹。メタセコイアと近縁だ。 * 昨夜からもう5、6時間かけて高3の先週分復習テストを作っていた。もう本当に消耗する。そしてこれから今日の授業の準備、2時間はかかるか。それで本番2時間半。時給換算したらおそらくエラいことになる。ほとんど老化防止のためのボランティアだ。 もう今年度でこの「バイト」も終わりにしたい。小遣いが減るけれど、しかたない。あまりに割が合わない。3年間がんばってきた高3が卒業となった時点で一応長きに渡った英語指導をやめようと思う(ただし、割りに合う条件だったならその限りでない。笑)。 さて、準備、準備。 はあ。

Tea for 祖母・橋本家の血縁者たち

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世田谷の砧地域に住んでいることの特権がひとつあるとすれば、世の中連休でどこの紅葉スポットも人混みになる中、確かにここも平日の数倍の人出となっても、こうしてしんみりした初冬の景を撮れる砧公園が地域内にあることだ。 * 私は2000年の初冬以来、インフルエンザやひどい風邪にかかっていない。これらに含めていいかよく分からないが、Covid-19にも罹患しなかった。医者嫌いの私だ、予防接種などしていない。ではなぜ四半世紀もの間それらを患わずに済んだのかを考えると、全くの素人判断だし、根拠などほとんど示せないけれど、お茶を普段よく飲むこと、冬季にはミカンを毎日食べていること、葱が好きなこと、寒くても却って散歩が気持ちよく(暑くならずに、という意味)できるから適度に歩くことという4つの理由が考えられると思うのだ。おそらくその1つや2つだけでは効果は薄弱だろう。4つが合わさってはじめて抵抗力が養われるのだと思う。はい、思うだけ。真実は分からない。 * お茶については旧ブログでも書いたが、父の実家は手広くいろいろなものを商った「時計店」だったけれども、そのうちお茶も「根本園」と称して売っていた。祖父は私が4歳の時に亡くなっているのでほとんど記憶にないが、81歳まで生きた祖母は毎日何度も茶を飲んでいた。父は87歳まで生き、やはり茶が好きだった。 祖母は店舗の奥、戸のない四畳半くらいの座敷で長火鉢の前に座り、客に「おあえなはんしょ(いらっしゃいませ)」と言い、上客なら「お茶飲まんしょ」と勧めた。 祖母は旧姓橋本で、今は福島県伊達市の一部になっている霊山町で生まれ育った。数年前その祖母の兄弟がなんと岩手県に広大な土地と家屋を持っていて、その直接の子孫の宮城県在住の人が「時効により」相続したが、処分したいとのことで、どういうことか詳しくないが、その処分にあたり法定相続人としての権利が多数の血縁者に発生し、私にも弁護士から相続の可否を尋ねる書類が来たのだった。そこは一関市に属するところで、土地が2991平方メートル、建物面積が合計285平方メートルというが、ストリートビューだと里山ありの典型的な日本の農村である。 なにより興味深かったのは、祖母やその親兄弟姉妹の血脈がしっかりと各所で受け継がれていることだった。福島県北部から宮城や岩手にまで北上して行った遠縁がいたのだなあ、と。 「多数の血縁...

なんだかよくわからないMNEMO幸福論

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朝からネットにつながらない事態が続いていた。義父の娘が奮闘し、対処開始2時間(!)ほどで復旧した。ケータイでつなげることもできたが、やめておいた。 * いい天気で、砧公園もスーパーも人でいっぱい、世田谷通りも環8も混雑、渋滞。 いわゆる首都圏、つまり東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県の1都3県の総人口は、2025年11月時点で約 3,684万人であり、その総面積は13,564平方キロ、日本の国土のわずか3.6%の面積に、それだけの人が住んでいる(全国人口の約30%)ことになる。首都圏全体の平均人口密度は約2,716人/km²、東京都単独では6,380人/km²、23区部分(人口は約960万人)だけに絞ると約15,700人/km²と、その密度、世界でも比肩しうるところはほとんどないのではないか。 (ちなみに先々週木金曜とおじゃました長野県池田町は、人口 9,041人 、面積 40.16 km² であり、密度は約225.1人/km² だ。23区はゆえ、池田町のほぼ70倍の密度となる。池田町はコンパクトな町だから、さほどの密度の低さではない。北隣の大町市の人口密度は44.6人/km² となる。23区の352分の1だ。) そんなところではいい意味でも悪い意味でも人間的と考えられることのおそらくすべてが現象する。足立区で恐ろしいクルマの暴走事故だか事件だかが起こったという。今のところ11人の方がケガをされ、お2人が重体とのことだ。痛ましい。 運転手は逃走したというから、その時点で事件、犯罪だ。こういうことが地方の町や村、中小の都市で起こるかと問えば、まずないとしか言えまい。「八つ墓村」のようなことがあったではないかと言われればそうだが、その村落にしてみれば1万年に1回もないようなことだったはずだ。一方、無差別殺人は大都市ではそう珍しいことではない。 とすると、大都会は怖いところだということになる。全くそうだ。数日前、赤坂のライブハウス前で殺人未遂事件があったが、殺人事件はどこででも起こりうるだろうけれど、大都会と田舎ではその発生率に雲泥の差があるに違いない。 多くの人間がクロスする、出会う場所というのは、特に若者には心躍るものがあるだろうけれど、その分会わなくてもよかった人間にも出会ってしまう確率が高くなってしまう。 私がお教えしている大町市の高2男子X君は、修学旅行で東京に来...

一体どれだけ中国から学んできたことか 〜故郷のラーメンのこと

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  成城4丁目、パークシティと野川に挟まれた緑地の道と区道(おそらく)、おとといの景。 * 昨日は久しぶりに調布の喜多方ラーメン坂内へ自転車で行った。実は義父の娘と練馬区桜台に行く用があって、そこの坂内で食べようということだったのだが、なんとつぶれていたのだった。一旦家に帰ったが「坂内モードに入っている」と言う彼女の願いで、「では調布店で」と、もっと近くに千歳烏山店が在るのだけれど、天気もいいし、片道30分くらいの調布店で食べることにした。 午後1時を過ぎていても行列ができていて、「こっちは繁盛しているね」と言い合った。私は行列してまで何かを食べるということは一切しないのだけれど、まあ、義父の娘を慮ったということで。待ちは25分近かったか。 桜台の店は立地が良くなかったとしか言いようがない。調布駅(1日乗降者数約12万)と桜台駅(同・1.5万)では規模として比べようがないしなあ。それでも固定ファンたちにはショックなことだったろう。まあ、隣の練馬駅近くに練馬店が在るから、我慢ですな。 喜多方ラーメンはしかし、ピンチだそうだ。後継者不足が主な原因だそう。元祖源来軒もその理由で廃業だった。 御清水(喜多方市の一地区名)の坂内は本当に一人勝ちだなあ。日本3大ラーメンの一角を守り続けるのは坂内なのだなあ。 * 私の生まれ故郷は喜多方市の西隣、ラーメンはやはり喜多方風だ。喜多方ラーメンの祖が浙江省出身の源来軒店主潘欽星さんなら、我が故郷のラーメンの祖は「ジャンベさん」と呼ばれたやはり中国から来た人だったという。しかしまあ、中華料理職人は本当に世界の隅々まで到達していくなあ。そのジャンベさんは日中戦争が始まってから忽然と姿を消したそうだ。町の人は「支那の間者だったのだと噂したという」(父の著書による)が、會津の片田舎に探るべき情報などあるはずもなく、きっと偏見に耐えきれずに(当時「支那膺懲(しなようちょう)」なる中国を懲らしめるという意味の四字熟語もできていた)町を去ったに違いないと思う。 Mooさんの住む長野県北安曇郡池田町にも中華料理店がある。華僑が経営している、廉価でおいしく盛りがいい店だ。女主人(?)はとても感じのいい、品のある人だ。私は池田に行くたびに必ず食べに行く。先週もそこへ行き、Kも幸夫ちゃんも2回目となり、量に圧倒されつつ「やはりおいしい!」と舌鼓を打っ...

信じる

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  昨日金曜日の午後、喜多見に在る世田谷区立ふれあい広場を歩いていて、おだやかな小春日和の中、幸福感を抱いた。歩いて私が近づいてゆく樹木とただ向き合うだけのことだが、木たちと意思疎通をしていると本当に思う。 同じ時間、国会の周りを囲んだ反戦を叫ぶ人々に心から敬意を表す。一方で自分は何をやっているんだと思わなくもない。「お前のその幸福感を覚えていられるのも、平和あってのことなのだぞ」と自分に言い聞かせる。「存立危機事態」とかというのを定義した安倍政権時、それに抗議するため私は国会議事堂前で声を上げた。9年前だったか。 そのことを免罪符にし、現首相の、中国と一戦交る可能性を肯定するというさらなる暴挙に対し、矢も盾もたまらずに議事堂に駆けつけないことを許せ、というのではない。ただ、私は日本国民の多数が戦争などしては絶対にならないということを分かっていると信じたいのだ。14億とかの国民を抱え、軍事技術も格段に上がっている核保有国と戦争するなんてありうるはずもない。ましてやその開戦理由が、台湾有事では話にならない。日本は台湾を中国の一部と認めているのだから。 むろん台湾を中国が軍事力で制圧するようなことには反対する。あくまで平和的に問題を解決していくべきだと思っている。それでも、「ひとつの中国」を認めて55年経っている。現首相はそのことを知らないはずはないだろうに。 * 今日も東京は小春だ。初冬の陽光がまぶしい。 欠伸して ブルっと震ふ 小春空

桑のことなど

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  昨日小春日和に誘われて自転車に乗り、新町や深沢などを巡りつつ、駒沢オリンピック公園へ。この公園もすばらしいけれど、木々が多い砧公園の方がやはりはるかに落ち着けるという点で私にとっては勝負あり、なのだ。 Zoomしたのでキメが粗いけれど、同日、駒沢からの帰途に通った砧公園での一枚。 * 安曇野・大町への旅から帰ってちょうど1週間が経つ。時間の経過が早いようなそうでもないような不思議な感じだ。 Mooさんのお家の庭に生えている桑の木の葉が風もないのに「パサパサ」と落ちて、短時間ですっかり丸裸になったそう。私はその葉が生み出してくれた実で作ったジャムをいただいている。まだ食べていないが、葉の供養で(!)明朝のパンに塗っていただこう。 しかしその葉が風もないに一斉に落ちてしまう現象、本当に不思議だ。安曇野に何か不吉なことがなければいいが。くわばら、くわばら。 クワの語源は「蚕葉(こは)」から来たとするのが最も尤もらしい。「蚕の<食う葉>」というのはちょっと無理がある。クワは学名 Morus で、英語圏ではふつう「mulberry」と言われる。「mul-」は Morus の「mor-」が訛ったものだ。 子どもの頃、このmulberriesを思う存分食べて、お土産とばかり半ズボンのポケットにいくつも入れて家に帰ったら、果汁でズボンが台無し、母に叱られたっけ。 因む<句は>、 半ズボン 両ポケットが 桑子色 *桑の実を「桑子(くわご)」と私たちは言った。會津弁というわけではなかろう。 追記 18日に起こった大分の大火、お見舞い申し上げます。 年の瀬近くの被災で、途方に暮れていらっしゃることと思います。 何かしらお助けできることをしたいと思っています。

二人の偉大な俳優にして真の愛国者

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  砧6丁目の木立。ここから成城方面へ歩いて行った。そして昨日の記事に掲げた仙川の水面に映る初冬の木々と空の写真を撮った。もう一枚、こんなのも。 この仙川、東宝撮影所を南北に分けるように流れている。広大な撮影所は今や相当部分を切り売りしてしまっているけれど、それでもこの日本最大の映画会社の撮影の仕事場はいまだに大きな敷地を擁する。 『椿三十郎』の撮影の合間、三船さんと仲代さんが一服つけている写真。二人の年齢差は12、ちょうど一回り違う。干支が同じということだ。申年らしい。仲代さん、まるで三船さんと劣らぬ貫禄で、畏れ入る。 この写真はロケ地か東宝撮影所で撮られたかと思ったら、なんと撮影所は東映だったという。1960年から2年間、東宝では争議があって、砧(東宝撮影所の別称)は使えなかったんだとさ。前作『用心棒』もスタジオを使用した映像は東映東京撮影所で撮られたというから驚き。それは今も練馬の大泉学園に在る。 三船さんも仲代さんも戦争を知っている・・・知っているどころか渦中に巻き込まれた。三船さんは太平洋戦争開戦時21歳、前年20歳で徴兵されており、中国戦線で4年、空中写真撮影部隊に所属し、偵察機の写真判定や撮影補助をしていたという。人を直接殺すことは一度もなかった。仲代さんは開戦時9歳だが、敗戦の1945年には13歳、先日書いた表参道での惨劇を経験している。 この「世界のミフネ」、「世界のナカダイ」のお二人は反戦の意志を貫かれた。 戦争の悲惨さと愚かさを知っている昭和の名優たちが、もうほとんどいない。一方で、「自虐史観」ということばに踊らされ、深く考えもせず、日本の戦争責任を問われると反射的に歪な<愛国者中枢>が発動する戦争を知らない者たちが全国隅々にいる今だ。 本当の愛国とは、戦争などしないこと、国土と国民が傷つかないで済む日々を送ることだ!

共通テスト 良問を望む

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  東宝撮影所の脇を流れる今日の仙川 水曜は毎回高3授業の準備で大童。今は共通テストをいかにsmoothに解くかという課題について解説している。来年1月17日と18日の実施で今更と言われてしまうかもだけれど、近い日程で集中してやった方がいいのだと私は思っている。 それにしても、この共通テストの英語の「リーディング」の問題は総じてつまらない。「こんなのが解けると英語力があるということになるのか?」と空しくなる。実際生活に即した問題が多いと言えばその通りだけれど。だとすると、日本の高校生たちが欧米、豪州やニュージーランドなどで暮らすことを念頭に置いているのか、などと考えてしまう。ピーク時から比べて22パーセントも減少している欧米への留学生の数・・・。 まあ、難癖つけやがってと作問する<センセイ>に叱られてしまうかもしれないけれど、「ああ、いい文章を読んだな。試験問題とは云え、感動した。解いていて楽しかった」というような問題をもっと!

"At least I should have buried her hand."

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  昨日の無名塾。 主を失ひ、小春日和でも寂寥を湛へてゐるやうに思へた。玄関前で合掌して去つた。 * 仲代さんは筋金入りの反戦主義者だった。以下Grokよりー 仲代達矢の渋谷での爆撃体験 仲代達矢(1932-2025)は、日本を代表する俳優で、無名塾主宰者として知られています。幼少期を東京で過ごし、第二次世界大戦中の空襲を直接体験しました。特に、渋谷・青山地域での山の手空襲(1945年4〜5月頃、米軍による大規模焼夷弾攻撃)は、彼の人生に深いトラウマを残す出来事でした。この空襲は、東京の麹町・赤坂・渋谷・世田谷などを標的とし、5月25〜26日の攻撃では3262トンの焼夷弾が投下され、3242人が死亡、1万3706人が負傷する惨事となりました。 具体的な体験談 仲代さんは、当時12歳頃の少年でした。ある日、青山小学校の友だちに会いに行くため渋谷・青山方面へ出かけたところ、空襲警報が鳴り響きました。焼夷弾が「ばらばらと」落下する中、彼は近所の小学生くらいの小さな女の子と手を繋いで逃げていました。明治神宮の参道付近を走っていたところ、急に女の子の手が「軽く」なりました。振り向くと、彼女は焼夷弾の直撃を受け、腕だけが残っていました。数十センチの差で自分は助かりましたが、恐怖のあまりその腕を捨てて逃げてしまったのです。この出来事は、仲代さんにとって生涯の悔恨となりました。後年、彼は「せめて腕だけでもきちんと葬ってあげていたら」と繰り返し語り、戦争の残虐さを象徴するエピソードとして公に語り継ぎました。数センチずれていたら自分も死んでいたかもしれないという「もらった命」を、俳優として反戦・反体制の舞台作品に注ぎ込みました。 * 仲代さんが亡くなった2025年の今、「憲政史上初の女性宰相」は台湾有事なら中国と戦争を辞さないと言っている。無知のくせに居丈高にふるまう元「米国連邦議会立法調査官」は、中国を侮り、仲代さんが体験してしまった惨劇が再び日本国民を襲う可能性を開いてしまった。 本当に、本当に、腹立たしい。 そして空しい。

今日も小春かな

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また安曇野の景かいって?いいえ、昨日の成城3丁目国分寺崖線際の景。   そして成城4丁目の野川。 * Mooさんご夫妻からいただいた畑の恵み、いただいています。義父やMick師、向かいのNさんにお裾分けも。ありがたや。Kや幸夫ちゃんも数日以上それらを素材にした料理が食卓に並ぶことでしょう。 * 冒頭の写真通り、昨日日曜の世田谷区は小春日和。こんな穏やかな日、8キロくらいしか離れていない首相官邸にもきっとうららかな初冬の陽が差す中、「台湾有事」で自衛隊を出すぞ、戦争するぞっていう人は何を考えているんだか。首相として選挙の洗礼も受けていないあんたの一存で自衛隊員を死なせるな、ましてや一般市民を犠牲にするな。 * さて、新たな週の始まり。今ひとつ気が乗らないし、乗らない理由も複数あるが、まあ、Life goes onで、自分として適当に精励すっぺぞ。 読者の皆様も、どうぞお健やかに!

安曇野行雑感

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  安曇野市大王わさび農園の駐車場から撮った常念岳。 安曇という地名の起こりは、造船、航海技術に長けた古代民族安曇族からと言われ、まつわる話の多くは伝説でしかないようだけれど、その航海は日本海や東シナ海が中心だったろうことはまず確実で、北九州が本拠であったようだが、日本海沿岸各所に根を張る者たちもいたに違いなく、翡翠の産地として知られる新潟県の糸魚川の姫川から内陸に入り、松本盆地の北になる安曇野に至った一派がそこの先住民(縄文人の末裔か)を追い出す、あるいは蹴散らす形で入植していったのだろう。 海洋民ゆえ、安曇野やその北の大町や白馬、小谷などで目にする圧倒的な山岳風景にまずは畏怖心を抱き、そしてまた賛嘆し、果てはその山々を崇拝までする者たちが定住を確固たるものにしていったか。 しかしそこには彼らにとっての「蛮族」が住み着いていた。長く長く住み着いていた。それが「大王」の率いる民であり、わさび園の立像ではまるで鬼である。日本の鬼伝説は、柳田國男的に言えば里に暮らす新参者の入植農耕民にとっての<邪魔者>である「山の民」にまつわるそれであって、その「山の民」はつまり縄文人の末裔たちのことではないか。 松本盆地が南の塩尻で閉じ、山を越えると諏訪である。諏訪ではその安曇族もそうだろうけれど、出雲からタケミナカタを首領とする後期弥生人(?)集団が入ってきて、洩矢氏を中心とする土着集団(おそらく縄文人の末裔)と闘争しつつもやがて融和していったのだ。そのことを物語るのがあの諏訪大社なのだ。 Mooさんは安曇野市の「耳塚」という地名のところを経て有明山神社へと我々を先導してくださった。「大王」率いる先住民たちがおそらく安曇族に反抗した科で耳を削がれ、その耳を捨てたところこそ「耳塚」だ。「捨てた」が言い過ぎなら「埋めた」ところだ。 「常念さん(常念岳)」はその一部始終を見ていたんだなあ。 Mooさんは自ら認める弥生人顔。奥様は琉球王族の末裔とのこと、縄文人DNAが濃いはずで、くっきりしたお顔立ち。ここに諏訪的な融和が実現している(笑)。 Mooさんのお父上は海軍の通信兵だったはずで、富山の人だから海洋民族的とすれば、その長男が「北アルプス」を越えて安曇野に移住したというのも、なんだかとてもおもしろい。 今回の旅の最後は大町市に在る若一王子神社だったが、この神社の大元は奈良は春日...

2025年霜月 安曇野行

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昨夜7時台に帰ってこられたのだったか?あまり憶えていない。大町市美麻の蕎麦屋で昼食を午後1時頃にとって、2時頃にMooさんご夫妻とそこでお別れ、5時間以上の帰京のドライブとなった。そのうち都内でのtripがなんと2時間くらい。渋滞でね、うんざりした。「ヘイ、TOYOTA」という呼びかけから始まって声で指示できるはずのAIさんが本当に不調でイライラするし。あまりに言うことを聞かないので、「泣け!」と私が叫ぶこと数回。その表現に幸夫ちゃんが笑うこと同数回。 這々の体で家に戻って風呂に入り、早々に寝ついたのだった。 * 昨日上げた写真から時間経過的にできるだけ順を追う。 まず行きの行程で立ち寄った大王わさび農場での一枚。これはそこを訪れる誰もが写真を撮るであろう蓼川(たてかわ)の流れ。この川は犀川の支流だ。犀川はまた最後には信濃川(千曲川)に合流する。そしてとどのつまりは日本海の水となるのだね。 ここで思い出すのはやはり黒澤明監督の『夢』だけれど、この映画には出ていないにせよ、黒澤さんの相棒だったと言ってよい、八日に亡くなった仲代達矢さんのことだった。   安曇野は総じて曇天だった。しかし常念山脈はくっきりと見えた。つまりは雲が相当高いところにあったということ。少し暗めながら輪郭鮮明な山々の一端は昨日上げた写真をご参照あれ。 そこからいよいよMooさんのお家の在る北安曇郡池田町へ。Moo邸到着後休憩していると、北方向、つまり「後立山連峰」と呼称される峰々は青空の下になって、爺ヶ岳と鹿島槍がくっきりと、美しく、雄大な景を見せてくれていた。感激!我々を歓迎してくれたとしか思えなかった。 「北アルプス」という呼称に違を唱えたのは幸夫ちゃん。「アルプス」などという欧州の山脈の名を恭しく借用・頂戴する貧困なる精神を嘆くのだった。私が「正式には飛騨山脈だけれどね」と言うと、元々富山県人のMooさんは「富山では北アルプスなどとは一切言わない。立山、あるいは立山連峰一本槍だ」と、北アルプスの最北とされる剱岳などの山々を誇らしく(?)呼ぶのだった。そして<今や地元>の長野北西部の山々を「後立山連峰」と呼ぶことには、「立山の後ろって何だ。なんで富山の方を基準にするのかね」と今度は現役長野県人として疑問を呈す。笑った。 下は2日目の早朝、Mooさん邸の真ん前で撮った朝霧朝霞の中の安曇野...

無事Moo邸に到着

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 お陰様で無事安曇野へ到着。 天気はほぼ曇天、しかし佐久辺りから北アルプスはくっきり見えていた。 そして安曇野Moo邸に着くと、鹿島槍ヶ岳より北の山々に光が差し、青空もその方向に広がり、息を呑む美しい山容を見せてくれた。 上は安曇野市の大王わさび農場から撮った常念岳や蝶ヶ岳の山並み。鹿島槍方向の写真は、まだPCに転送されていない。 * 今幸夫ちゃんとKはMooさん夫妻と談笑中。笑い声が食堂から響いてきます。彼らは2、3度しかお会いしていないのに、打ち解けていてこちらもうれしい。 まあ、ずっとクルマの運転をし、またいつもの昼寝をしていないので、私はリタイア。 この記事を書いて、もう寝ようかな。

安曇野へ出発

 さて、あともう少ししたら安曇野へ向けて出発です。Mooさんご夫婦にお世話になります。 計画して久しく、今日と明日両日がどんな天気になるかなど全くわからなかったわけですが、まずまずかそれ以上のものになりそうでありがたい。 道連れは病気持ちのKさんと幸夫ちゃん。一回だけとはいえMooさんご夫妻とお会いしているので、そう気兼ねなくいられるでしょうし、前回二人とも安曇野の自然に魅了された良い思い出がさらに良く更新されるといいですなあ。 安全運転で行きます。 ではでは。

彼は今までも今もこれからも偏在する

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巨星墜つ、と言うけれど、墜ちてなどいない。 大天才で並外れた努力家の偉業は真の意味で永遠だ。巨星は確かに往時の光を放たなくはなったけれど、そのエネルギーはすでに周囲に放散され、新しい星が生まれいずる基となり、また超高密度になった巨星の核心部分は永遠に周囲のものを引き込む。 * 肉親以外の死で、John Lennonの訃報以来だ、こんなに涙が出るのは。 出演された全作品を観たというような熱心な仲代ファンとは言えない私だけれど、同じ世田谷の砧地域に住む者として、仲代さんがただ私のそばに住まわれているという事実だけで、私の心が安定していた。大袈裟ではない。同じ砧地域住民でもある黒澤監督、三船敏郎さんと<渡り合った>「レジェンド」が現に同じ空気を吸い、同じ空の下で<生きていらっしゃる>ことにどれほど喜び、慰み、そして勇気をいただいてきたことか。 (仲代さんは黒澤作品ばかりでなく岡本喜八さん、小林正樹さんなど多くの監督の作品に出ておられることは付記する。) そして仲代さんは他界された。<私に拠れば>彼はall-pervadingになったのだ。互いの憩いの場、砧公園や岡本静嘉堂の木立の中を歩けばより彼の永遠となった魂を感じるだろう。 父は今遍くありて山眠る ほぼちょうど14年前、我が父が逝去したときの句だ。 愛する人、尊敬できる人は、みなそうなのだ。 偏在となるのだ。

性善説、古今亭文菊

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昨日の話の続きだが、義父は転倒して数人の若い女性たちの介抱を受け、また若い男性が119番通報をし、抱きかかえ、縁石に座らせてくれたと言う。女性たちは持っている限りのティッシュペーパーで義父の出血を抑えてくれたのだそうだ。 義父はお礼をしたいから連絡先を教えてほしいとその若者たちに言ったのだが、当然のことをしたまでと謝礼を固辞したしたそうで、孟子の性善説を再び信じたくなった。 * 再び落語の話だけれど、私は圓生、先代小さん、三代目金馬、十代目小三治、志ん朝が好きなのであって、趣味が狭すぎると言われても、しかたがない。落語開眼は小学生のときに聴いた小三治さんの「中村仲蔵」だった。まだ修行中の役者仲蔵が急な雨に降られて蕎麦屋か何かに雨宿りがてら入って、そこに次いで入ってきた侍のいでたちにヒントを得て、演じる「仮名手本忠臣蔵」での端役定九郎の人物造形を見事にやってのけ、大向こうを唸らせる演技をしたというところ、その情景が目に浮かぶようで感激したのだ。 上で挙げた以外の噺家に興味はあまり持てないできた。なぜってもうその五人で十分だったからだ。ある落語家のある演目だけ好きになるということはあるが、広がらない。人物はおもしろいなという噺家もいた(例えば立川談志師とか)が、それ止まり。師の場合は、「枕」が私には余計すぎた。 柳家喬太郎さんや柳家三三さん、春風亭一之輔さんなど、有望株どころかもう一枚看板になっている<比較的若手>もいるけれど、明治を知る師匠とその薫陶を受けた噺家とそうでない噺家には劃然とした境界があって、私には、古典落語を聴く以上、それが決定的なのだ。平成以降生まれの噺家さんには身も蓋もないことで、申し訳ない・・・いや、私がファンかどうかなどどうでもいいのだが。 そんな中、小三治落語協会会長(当時)の推薦で28人抜きで真打になった古今亭文菊さんはその大抜擢に恥じぬ藝を持っているようだ。「ようだ」とはまだあまり聴いていないので確信は持てないので。 文菊さんは世田谷生まれで「自由が丘」を出身地として言っている。自由が丘は目黒区に在るが、東横線のその駅は世田谷区奥沢の最寄駅でもあり、おそらく奥沢生まれ育ちなのだろう。大変な高級住宅地だ。お父上が青山学院中等・高等部で十二代目市川團十郎さんと同級生で仲良しだったそうで、その團十郎さんの息子・海老蔵(当時)さんとも家族ぐるみの付...

A Hard Day in the Life

立冬のおとといは下の孫の一歳誕生日だったのだが、なんと失念しており、都心が混む前と昨日早朝6時半頃クルマでプレゼントを届けた。祝いの句も添えた。 初冬暁 響く聲澄む 孫一歳 この句の中に孫の名前が隠れている。 * 昨日は昨日で、義父の1日早いが誕生日祝いをすることになっていて、私はその晩餐の時刻までうつらうつら午睡する中、オンラインで仕事をしていた義父の娘が「大変!」と私を起こす。「どした?」「お父さん、道路で転んで顔面強打し救急搬送されたって。」 どこでのことかは秘匿するけれど、大好きな某オーケストラ公演を聴きに行く途中のことだった。義父が直接彼の娘に救急車内で電話をしてきたというので、深刻なケガではないとは推測できたが、なにしろすぐに搬送された病院へ。 病院は東京における租界のようになっている地区に在って、街はごちゃごちゃしており、大規模な病院というわけでもなく、よく病院のwhereabouts(ごめん、日本語が出ない。単に「所在地」ということばかりでなく、どこが入り口かとかというのも含めて)がわからず有料駐車場にクルマをとめることになってしまい、そこへの一方通行路の狭いこと狭いこと。しかも行き交う歩行者が半分以上外国の人たちというようなところで、中には迷惑そうな表情でこちらを睨むような強面の国籍不明人もいたり。 痛々しい包帯巻きになっているのではと恐れたが、義父はマスクをしており、大半の傷は隠れていて、壊れたメガネのフレームで切った傷を覆う絆創膏だけが見え、至って<普通>に近い感じで処置室前の椅子に座っていた。 義父は開口一番「いや、本当に世話をかけてしまい申し訳ない」と謝った。「そう深刻でなさそうで何よりです」と私は応えた。しかしマスクを外すと数箇所に擦過傷や打撲痕があり、義父は抗血小板薬(いわゆる血液サラサラにする薬)を普段服用しているので、厳重に手当てされていた。 義父から事の顛末を聴きながら、10分後くらいにCT映像の結果を医師から聞いて、一応問題なしということで、病院を去った。 クルマの中、アドレナリンが出まくったであろう義父は、さすがに誕生祝いの晩餐を楽しみにする食欲も気力もなくなっているというようなことを口にしたので、「そうですか。ではキャンセルしましょうか」と応じた。その方向で話しているうちに、義父も落ち着いてきたのか、「肉と豆腐は食べたいんだ...

圓生はずっと止め名で良い

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  NHK技研の公共スペースの木々もだいぶ色づきました。 さて、また落語界の話。 いろいろ読むと、3年前亡くなった六代目三遊亭円楽さんは、病膏肓に入ってもなお自分が七代目圓生を継ぐと言っておられたそうだ。実力、名声が足りないのは承知で、圓生という三遊派の大事な名跡を忘れられたものにしてはならないという一心だ、と。そして大方の理解を得られぬ裡にまもなく亡くなってしまったのだ。 五代目円楽(六代目圓生の総領弟子)、その総領弟子の鳳楽、圓生の直弟子円窓と円丈、そして六代目円楽と、みな圓生を継がんとして夢破れた。申し訳ないが、誰もが噺家として力不足だったと思う。藝で六代目圓生を超える存在なんて今後も二度と出てこないからだ。(このパラグラフのみ敬称略) 人間国宝柳家小三治師が大昔、前座ぐらいの頃に、東宝名人会で時の名人たちのお世話をしたとき、噺家として最も好きな三笑亭可楽師、最も巧いと尊敬していた圓生師、そして古今亭志ん生師、桂文楽師や三遊亭金馬師、そして彼の師匠柳家小さんという「綺羅星の如き(小三治師のことば)」名人上手と同じ空気を吸えたことを無上の幸せと語っていたものだが、しかし、小三治師自身が歳をとって振り返ると、本当に自分が憧れ敬った先輩たちがそれだけのものだったのか、という疑問をある高座で口にしていたっけ。 特に小三治師が大尊敬していた圓生さんは「それほどの人ではなかった」とハッキリ言って、聴衆は大笑いしていた。その大胆な言の背景として、もちろん自分がそれなり追いつけたからという自負もあるだろうが、おそらく1978年の圓生一門が落語協会を脱退するという大椿事で露呈した圓生師の言ってしまえば醜悪な人柄に相当失望したからというのが大きいはずだ。その「醜悪」さについては、直弟子の円丈師による著作『御乱心』に詳しい。 それでも、だ。圓生師の幅の広い藝はまた独自であり、しかも技術的に頂点に達していた。追随を許さない、というやつだ。真似ももちろんできない。 「綺羅星の如き」昭和の名人たちはほとんどみな明治生まれ、古典落語で描かれる世情、人間模様がまだ生きている時代の人々なのだ。古典落語の出来の良し悪しが名人か否かの基準になるなら、昭和生まれや平成生まれの噺家が明治生まれの昭和の名人たちに敵うはずはなく、その意味で本当に昭和の名人たちは「綺羅星」だったのだ。その綺羅星の中...

読んでもつまらないよ

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今朝日の出前の砧公園、榎と烏山椒のfoliagesが美しかった。 * 昨日の記事、落語の話がマニアックすぎたのだろう、読まれていない。でもいいや、全然かまわん。 落語界は、もし私が歌をやらなかったなら進みたかった世界かもしれない。今落語家の集団は5つ。最大勢力落語協会、次に落語芸術協会、立川流、円楽一門会という江戸落語の4団体と、上方落語協会。 私なら落語協会に入門したはず。柳家小三治師がいたからだ。もちろん弟子入りOKとなったかどうかは怪しい。私の歳なら、小三治師の師匠柳家小さん師の最後あたりの弟子にもラッキーならなれた。小さん師の落語も大好きだから、甚だ僭越ながら、小三治師の弟弟子になることも狙ったかもしれない。 その頃はまだ落語協会は分裂していなかったから、小さん師よりも先輩で大名人の三遊亭圓生師に弟子入りというのもあり得た。また金原亭馬生、古今亭志ん朝両師匠門を叩くこともあり得たが、やはり小三治門下か小さん門下、つまりは柳派に入った可能性が高い。 柳派は三遊派に比べ、滑稽咄の比率が高い(と思う)。もちろん人情噺もOKに決まっている。三遊派はなにしろ大名人の圓生師のカラー、影響力が強過ぎて、少し高踏的というか気位高すぎるところがあるような気がする。昔書いたが、その圓生師は滑稽咄をたまにやったのだが、これもまた絶品であって、本当にそのalmightyぶりには舌を巻く。それでも三遊派はむずかしい出し物ができて一人前というような厳しさが他門に比べて画然としてあったように思う。 その厳しさが嫌だというのではない。しかし私は滑稽咄にも通暁したい口だ。人情噺と半々くらいにしたいのだ。そうなると柳派だろう。その中でalmightyの小三治師に憧れたに違いないのだ。 だからど〜した。 その小三治師、晩年はやはり40歳代50歳代のキレがなくなってしまっていた。<枯れた>ということもできるけれど、そうだとすれば、なまじ中年の頃のすばらしい噺に感動した者としてはその枯れ方が若い頃の<キレ>に匹敵するないしは凌駕するほどの魅力になっていないとつらかった。 落語協会で今ナンバーワンとも言われる柳家喬太郎師(世田谷区大蔵生まれ育ち)の師匠である現落語協会会長柳家さん喬師は、兄弟子であった小三治師が人間国宝に選ばれた晩年にはそれこそ高踏的になり、後輩たちとの交誼を疎かにし過ぎた(付き合いが...

変な夢と落語の話

 まったく素っ頓狂な夢を見た。しっかり覚えているという稀有な内容。 今までにも数回見てきた、喜多方か會津若松の駅から故郷の自宅の在る野沢へと電車(正確にはディーゼル車)に乗る前のことなのだ。切符を買おうと券売機にお金を入れると、なにかが詰まっていて乗車券が出てこない。券の出口のところを覗くと不思議に大きな間口になっていて詰まっているものが見える。引き摺り出すと、30センチかける30センチほどの紙包みで、開けるとなぜかソフトクリームを含むお菓子がいっぱい入っていて、もう電車などどうでもよく、ニッコニコで周りの人々に菓子を見せびらかしながら街の方へと歩き出すのだ。<その時の私>はきっと高校生ぐらい。 フロイト様、ユング様、また河合隼雄様、冥界からどういうことを示唆する夢か、お教え乞う。 * YouTubeに七代目三遊亭円楽の襲名披露口上の様子を映すビデオが数本あって、なかなかにおもしろかった。 七代目は、五代目三遊亭円楽の弟子で「笑点」で一番おもしろくない(失礼!)好楽さんの息子さんで、なぜか父親に入門せず、父親の師匠である五代目(あの馬面の人)に入門した人だ。前の名を王楽と言った。つまり父親好楽とも、また六代目円楽(腹黒などと言われた笑点メンバー)とも兄弟弟子になるわけだ。2008年のNHK新人演芸大賞でも落語部門の大賞を獲るほどの実力があるらしい。YouTubeで数席聴いたけれど、そつがないという印象。それでいて「五代目円楽一門会」では総帥の系譜、直弟子だから、立場も強いというのがあるだろう。父好楽も継ぎたかったであろう円楽の名跡を勝ち取ったのだ。 ただ、円楽という名跡は確かに大きいのだけれども、圓生と円楽じゃ、名跡として雲泥の差だ。なにせ圓生は三遊派の総帥の名だし、六代目圓生は、人柄さておき、大名人だ。私も、「うまいなあ、大名人だなあ」と何度思ったことか。巧すぎて、どんな弟子もその名を継ぎようがないほどだと思ったし、六代目夫人も山﨑家(六代目は本名山﨑松尾)として圓生を「止め名」にしてしまったほど。夫人も弟子には誰も夫に匹敵する者はいないと見限ったのだろう。 五代目円楽(正しくは圓楽)は昭和の名人六代目圓生の総領弟子で、ゆえにきっと七代目圓生になりたかったはずで、そう公言もしていたようだけれど、最後は師匠にもその夫人にも嫌われたようで、襲名できなかった。圓...

ゴーシュ

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  ご近所で撮った今朝未明の月。満月は今夜だというが、今朝のも真円に近かったぞぃ。 * 昨夜そう近くはないが、近くの7-11よりは混まないLAWSONへと買い物に行ったら、応対したアルバイト(だろう)従業員の名前が「ゴーシュ」で私は目を見張った。 「いい名前だね!」 と言うと、彼はうれしそうに、 「ああ、ゴーシュです」 と言ってくれたのだが、どうして私がいい名前だと言ったのかの理由を話すいとまはなかったのだ。一人会計を待つ人がいた。 別の機会で言えるかな。 「あのね、宮沢賢治っていう日本では一番有名と言っていい童話作家がいてね、その人の作品のひとつに『セロ弾きゴーシュ』っていうのがあるんだ。」 「ああ、そうなんですか。フランス人に私の名を言うと、gaucheと聞こえて、不器用なって意味ですから、笑われます。」 「とんでもないね。あなたの日本語、とても上手だ。」 「ありがとうございます。宮沢賢治、ですか。今度読んでみます。」 「『ゴーシュ』はチェロの弦を弓で鳴らす時の摩擦音のオノマトペだとも言われているんだよ。」 「ほう、そうなのですか。」 「岩手の花巻へ行ってみるといいよ。宮沢の故郷で、記念館もある。そこに彼が弾いたセロ、つまりチェロが展示してあるよ。」 「花巻・・・って大谷翔平さんにちなむところですね?」 「詳しいね!そう、花巻東高校で彼はー」 「ご老体、いつまで喋ってんだよ。」

2025 最晩秋雑記

今日の夜明けは冬暁(とうぎょう)と言っていい風情だった。東の空は雲ひとつない、あの江戸紫となった。立冬は七日、だからまだ本当は晩秋のdawnであった。 * 山本由伸くんが英語でWS優勝を祝うファンたちに向け短いスピーチをした。もちろん上手な英語ではなかったけれど、ファンたちが熱狂していた。「We did it together」でみんな泣いた。さてじゃあ、翔平くんは、と思ったら、彼、「th」の発音はダメだったけれど、立派なスピーチだった!「world」の発音なんて、訛っているけれどnativeっぽかった。「I'm ready to get another ring next year.  Let's go!」痺れた。 これだよ、翔平くん!これを待っていたんだ。 由伸くんも翔平くんも、どっかの女性宰相よりよっぽど心こもってすばらしい英語だった。 * Mooさんが、2012年冬、私が氏の池田町のお家に投宿、大町市の塾へ通わせてくださったことを書かれていた。そう、そのとき軽トラの凄さを知ったのだった。4WDでスノータイヤ、すばらしいグリップで一部凍結した雪道も恐怖なく走れた。アメリカでも、CNNが道路の雪害をリポート中、スイスイと走る日本製軽トラがたまたま映されて、「なんだ、あのちっちゃなトラックは。他の大きな車がみな走行不能になっている中で!」と話題になったそうだ。 久しぶりのマニュアル・トランスミッションで、それも楽しかったなあ。まあ、11月中旬ではまず雪道にはなっていないだろうけれど、もしそうなったら、ウチの車と交換で軽トラで帰京することになるか(笑)。

人類共同体の到達点 〜LA Dodgers、WS連覇おめでとう

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  LA Dodgersのワールド・シリーズ連覇、心よりお祝い申し上げます。Team一丸のプレイの数々に魂が揺さぶられた人は多いことでしょう。 3回大谷さんがなんと3ランを打たれて、敵地でのことだしこれはもう勝負あったなと私は思いましたよ。大谷伝説に暗い影が覆った瞬間だと誰もが思いませんでしたかね。ところがこのLA本拠のチームはみなでその劣勢を挽回していく。なんという並外れた精神力の持ち主たちなのでしょう! 山本由伸さんのリリーフ、そして胴上げ投手になる超劇的な結末には涙が止まらなかった。 準MVPは捕手のWill Smithでしょう。MVPでもおかしくないくらいだと私は思ったけれど、でも、シリーズ3勝なんていう偉業はランディー・ジョンソン以来24年ぶりだそうで、これにはやっぱり敵わないか。 私はこの優勝を我がことのように喜びつつ、他にいろいろなことを感じもしていました。 まず、分断の時代、MLBは、Dodgersは、世界にDEIすなわちDiversity(多様性)、Equity(公平性)、Inclusion(包括性)とは何かを示す最高の教材だということ。ヨーロッパのさまざまな国や地域から先祖がやってきた白人アメリカ人たち、そしてアフリカン・アメリカンたち、野球文化が波及し、本国アメリカに劣らぬ人材を生み出している中米諸国のむろん黒人を含むラティーノたち、そして太平洋を越えて野球が普及した日本や韓国のプレイヤーたちが、互いの技術を日々の努力ゆえ持ち得ている<今>のみを見、尊敬し合う図式だ。英語による即時的コミュニケーションはとれなくても、なにしろチームメイトの努力と技術・能力卓越を敬い賞賛し、自分も彼らにそうされたいという動機が渦巻くようなベンチ、ブルペン。 二つめは、レジェンド投手CC.サバシアが山本由伸投手の偉業を讃えつつ、「アメリカの投手育成法では<ヤマモロ>は生まれない。球数制限とか、投手の肩や肘を守るためという大義名分があって、それは尤もらしいけれど、日本の高校野球などで見られる投げ込みをひたすらこなしてくる日本人投手のようなタフさを持てなくなっている」というような見解を示していたこと。いや、それがまさに日本でも問題になり、今投手育成の考え方はメイジャーリーグに倣いつつあるわけで、この辺りは甲論乙駁だ。 三つめは、肩や肘を壊すということに関連し、日...

2025 霜月雑記

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今月中旬、10年ぶりくらいと思うが、安曇野のMooさんのお宅にお邪魔し、初冬の後立山連峰の里でたった一泊二日のことではあるが、旧交を温め、また自然を堪能してこようと思っている。道連れはKと幸夫ちゃんだ。 その安曇野池田町の晩秋の景がMooさんのブログに載っていた(無断転載お許し乞う)。 * 上は先ほど撮った東宝撮影所脇の仙川、桜の木の上で眠っているのは小鷺たち。 * WS第7戦、決着の試合。大谷さん先発投手って。どれだけモッているんだ、この人。カナダのチームBlue Jaysも好きだけれど、やはり大谷翔平全力応援。

霜月始まり、冬の星空いよいよ美し

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夜半までの(?)激しい雨が止んで、午前4時ちょうどくらいに歩きに出た。 思った通りの澄みきった夜空。冬の大六角形〜6つの1等星以上(およびそれに近い明るさ)のリゲル、アルデバラン、カペラ、ポルックス、プロキオン、シリウスが成す〜が東京では稀な輝度で見えた。アルデバランの近くのスバル=プレアデス星団も7つ以上見えた。少し視点をずらすと10以上見えた! 目を北に転じる。北斗七星で最も暗いδ UMa(Delta Ursa Major、通称メグレズ)で、3.31等星、それがなんとか見えた。ちょうど4等星に相当するアルコルは見えなかった。古代ペルシアやローマで視力検査に用いられた星だ。これはミザールという2等星の伴星(二重星の片われ)だが、このあたりの話を本で読んだとき、当然のように視力の弱い人は「見ざる」だと独りごちて笑ったものだ。 私には見えたプレアデスの10以上の星のうち4等星以下の視等級のものがいっぱいあるはずで、それらが見えてアルコルが見えなかったのは、アルコルが地平線により近かったからか。 そのアルコル、見えれば視力1.0に相当するそう。しかし、空が汚れていない、光害のない大昔の話。今東京の空で見えたなら2.0はあるんじゃないの。あるいは集光力が半端ない、ということか。え?同じこと? 先ほど午前5:20頃、NHK技研のビルに沈もうとするオリオン。 改修が終わったNHK技研のビルは本当に美しいんだよなあ。砧3丁目のランドマークになっているし、また周りの緑地、公園を含め、あの辺りの住民の憩いの場所だ。