圓生はずっと止め名で良い
NHK技研の公共スペースの木々もだいぶ色づきました。
さて、また落語界の話。
いろいろ読むと、3年前亡くなった六代目三遊亭円楽さんは、病膏肓に入ってもなお自分が七代目圓生を継ぐと言っておられたそうだ。実力、名声が足りないのは承知で、圓生という三遊派の大事な名跡を忘れられたものにしてはならないという一心だ、と。そして大方の理解を得られぬ裡にまもなく亡くなってしまったのだ。
五代目円楽(六代目圓生の総領弟子)、その総領弟子の鳳楽、圓生の直弟子円窓と円丈、そして六代目円楽と、みな圓生を継がんとして夢破れた。申し訳ないが、誰もが噺家として力不足だったと思う。藝で六代目圓生を超える存在なんて今後も二度と出てこないからだ。(このパラグラフのみ敬称略)
人間国宝柳家小三治師が大昔、前座ぐらいの頃に、東宝名人会で時の名人たちのお世話をしたとき、噺家として最も好きな三笑亭可楽師、最も巧いと尊敬していた圓生師、そして古今亭志ん生師、桂文楽師や三遊亭金馬師、そして彼の師匠柳家小さんという「綺羅星の如き(小三治師のことば)」名人上手と同じ空気を吸えたことを無上の幸せと語っていたものだが、しかし、小三治師自身が歳をとって振り返ると、本当に自分が憧れ敬った先輩たちがそれだけのものだったのか、という疑問をある高座で口にしていたっけ。
特に小三治師が大尊敬していた圓生さんは「それほどの人ではなかった」とハッキリ言って、聴衆は大笑いしていた。その大胆な言の背景として、もちろん自分がそれなり追いつけたからという自負もあるだろうが、おそらく1978年の圓生一門が落語協会を脱退するという大椿事で露呈した圓生師の言ってしまえば醜悪な人柄に相当失望したからというのが大きいはずだ。その「醜悪」さについては、直弟子の円丈師による著作『御乱心』に詳しい。
それでも、だ。圓生師の幅の広い藝はまた独自であり、しかも技術的に頂点に達していた。追随を許さない、というやつだ。真似ももちろんできない。
「綺羅星の如き」昭和の名人たちはほとんどみな明治生まれ、古典落語で描かれる世情、人間模様がまだ生きている時代の人々なのだ。古典落語の出来の良し悪しが名人か否かの基準になるなら、昭和生まれや平成生まれの噺家が明治生まれの昭和の名人たちに敵うはずはなく、その意味で本当に昭和の名人たちは「綺羅星」だったのだ。その綺羅星の中でも、藝域の広さで圓生師は抜けていた。さらに端的に言うと、圓生師は凄まじく上手く女を演じられたし、演目も幅広い藝(新内、清元、常磐津などなどもプロはだしだった)を持ちつつ斯界随一だったことが他の綺羅星よりも光度を高めた。他の綺羅星が一等星なら、圓生師はシリウスやカノープスであって、それぞれマイナス1.46等星、マイナス0.74等星だ。
今、演目の多さ、他の古典芸能にも器用さを発揮することでおそらくナンバーワンなのは、小三治師の弟子、柳家三三だろう。彼は抜きん出て巧い。しかし藝域の広さで圓生師に追いついても、<あの>色気は出しようがない。理由を簡単に言ってしまえば、廓が当たり前にあった時代を知らないのだから。
圓生はずっと止め名でよい。古典落語の出来の良し悪しが噺家のランクづけの根拠になっている、そしてなっていく以上は。その出来がすさまじく良く、しかも圓生師にはなかった、あるいはできなかったプラスアルファがある落語家が出てこないなら、ずっと止め名で良いのだ。

コメント
コメントを投稿