安曇野行雑感
安曇野市大王わさび農園の駐車場から撮った常念岳。
安曇という地名の起こりは、造船、航海技術に長けた古代民族安曇族からと言われ、まつわる話の多くは伝説でしかないようだけれど、その航海は日本海や東シナ海が中心だったろうことはまず確実で、北九州が本拠であったようだが、日本海沿岸各所に根を張る者たちもいたに違いなく、翡翠の産地として知られる新潟県の糸魚川の姫川から内陸に入り、松本盆地の北になる安曇野に至った一派がそこの先住民(縄文人の末裔か)を追い出す、あるいは蹴散らす形で入植していったのだろう。
海洋民ゆえ、安曇野やその北の大町や白馬、小谷などで目にする圧倒的な山岳風景にまずは畏怖心を抱き、そしてまた賛嘆し、果てはその山々を崇拝までする者たちが定住を確固たるものにしていったか。
しかしそこには彼らにとっての「蛮族」が住み着いていた。長く長く住み着いていた。それが「大王」の率いる民であり、わさび園の立像ではまるで鬼である。日本の鬼伝説は、柳田國男的に言えば里に暮らす新参者の入植農耕民にとっての<邪魔者>である「山の民」にまつわるそれであって、その「山の民」はつまり縄文人の末裔たちのことではないか。
松本盆地が南の塩尻で閉じ、山を越えると諏訪である。諏訪ではその安曇族もそうだろうけれど、出雲からタケミナカタを首領とする後期弥生人(?)集団が入ってきて、洩矢氏を中心とする土着集団(おそらく縄文人の末裔)と闘争しつつもやがて融和していったのだ。そのことを物語るのがあの諏訪大社なのだ。
Mooさんは安曇野市の「耳塚」という地名のところを経て有明山神社へと我々を先導してくださった。「大王」率いる先住民たちがおそらく安曇族に反抗した科で耳を削がれ、その耳を捨てたところこそ「耳塚」だ。「捨てた」が言い過ぎなら「埋めた」ところだ。
「常念さん(常念岳)」はその一部始終を見ていたんだなあ。
Mooさんは自ら認める弥生人顔。奥様は琉球王族の末裔とのこと、縄文人DNAが濃いはずで、くっきりしたお顔立ち。ここに諏訪的な融和が実現している(笑)。
Mooさんのお父上は海軍の通信兵だったはずで、富山の人だから海洋民族的とすれば、その長男が「北アルプス」を越えて安曇野に移住したというのも、なんだかとてもおもしろい。
今回の旅の最後は大町市に在る若一王子神社だったが、この神社の大元は奈良は春日大社&興福寺ないしは熊野那智大社という2大神仏習合の先例に倣った宗教施設だった。薩長政権の野蛮な廃仏毀釈政策断行前は「若一王子権現神社」と言ったのだ。「権現」とは仏が神道の神に化身することを意味することばだ。だから神社の境内にあの(昨日掲げた)仏教の三重塔がある。さすがにこの見事すぎる建物を「毀釈」することはできなかったのだ。
なお、若一王子神社の第一の祭神はタケミカヅチである。春日大社の神である。この神が出雲のタケミナカタを諏訪へと追い詰めた。
ああ、対立と融合、融合の知恵、つまり諏訪大社や神仏習合の社寺に具体的に現れた<こころ>、である。
大切だべ。DEIだべさ。

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