読んでもつまらないよ


今朝日の出前の砧公園、榎と烏山椒のfoliagesが美しかった。

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昨日の記事、落語の話がマニアックすぎたのだろう、読まれていない。でもいいや、全然かまわん。

落語界は、もし私が歌をやらなかったなら進みたかった世界かもしれない。今落語家の集団は5つ。最大勢力落語協会、次に落語芸術協会、立川流、円楽一門会という江戸落語の4団体と、上方落語協会。

私なら落語協会に入門したはず。柳家小三治師がいたからだ。もちろん弟子入りOKとなったかどうかは怪しい。私の歳なら、小三治師の師匠柳家小さん師の最後あたりの弟子にもラッキーならなれた。小さん師の落語も大好きだから、甚だ僭越ながら、小三治師の弟弟子になることも狙ったかもしれない。

その頃はまだ落語協会は分裂していなかったから、小さん師よりも先輩で大名人の三遊亭圓生師に弟子入りというのもあり得た。また金原亭馬生、古今亭志ん朝両師匠門を叩くこともあり得たが、やはり小三治門下か小さん門下、つまりは柳派に入った可能性が高い。

柳派は三遊派に比べ、滑稽咄の比率が高い(と思う)。もちろん人情噺もOKに決まっている。三遊派はなにしろ大名人の圓生師のカラー、影響力が強過ぎて、少し高踏的というか気位高すぎるところがあるような気がする。昔書いたが、その圓生師は滑稽咄をたまにやったのだが、これもまた絶品であって、本当にそのalmightyぶりには舌を巻く。それでも三遊派はむずかしい出し物ができて一人前というような厳しさが他門に比べて画然としてあったように思う。

その厳しさが嫌だというのではない。しかし私は滑稽咄にも通暁したい口だ。人情噺と半々くらいにしたいのだ。そうなると柳派だろう。その中でalmightyの小三治師に憧れたに違いないのだ。

だからど〜した。

その小三治師、晩年はやはり40歳代50歳代のキレがなくなってしまっていた。<枯れた>ということもできるけれど、そうだとすれば、なまじ中年の頃のすばらしい噺に感動した者としてはその枯れ方が若い頃の<キレ>に匹敵するないしは凌駕するほどの魅力になっていないとつらかった。

落語協会で今ナンバーワンとも言われる柳家喬太郎師(世田谷区大蔵生まれ育ち)の師匠である現落語協会会長柳家さん喬師は、兄弟子であった小三治師が人間国宝に選ばれた晩年にはそれこそ高踏的になり、後輩たちとの交誼を疎かにし過ぎた(付き合いが悪くなった、ということ)点があったようなことを指摘していたっけ。

小三治師は70歳代、そして80歳を超えて、ますます自分の落語とは何かを<独り>追求するだけ、他のことなど構っていられなくなったのではないか。唯我の境地と言うか。

それはそれである。文句なし。

それでも、さん喬師の言い様には少し棘があったように思う。偉くなり過ぎ、というような。共通の師匠で落語界初の人間国宝となった小さん師にはそういうところがなかったのだろう。その点ではまるで小三治師は、師匠小さんと決定的に反目し落語協会を出てしまった六代目三遊亭圓生のような、頑なな晩年を送ったのかもしれない。

その小三治師は落語を志した当初は圓生師に心酔していたと告白していたっけ。

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