正月尽随想
真紅の木瓜の花 前にも書いたかもしれないが、成城1丁目の7-11、深夜早朝シフトの店員はとてもハンサムな南アジアないし中東系の若者で、日本語も態度もすばらしい。私がもし彼ほどに若い頃彼のお国と言わずともどこか外国でコンビニ店員を勤められたかと問えば、ただただ首を振るだけだ。 こういう優秀な外国人をも含めて十把一絡げで排斥しようという「日本人」に心底絶望する。この手の者は日本版ICEができるなら志願するんだろう。 * https://www.youtube.com/watch?v=809SkMvOPUE 歩きながら久しぶりに3代目三遊亭金馬さんの落語をいくつも聴いた。1963年(昭和38年)に他界された、昭和の名人の一人。いくつかの演目では志ん生も文楽も圓生も小さんも敵わない。江戸(!実際はすでに東京市だが)本所の生まれ育ち、下町の江戸っ子とはこういう人だったのだという、無形文化財のような人だった。 上の「浮世床」では、子どもたちの爆笑が何度も聞こえる。おそらく1960年前後の高座であって、もし亡くなる年あたりのものなら、「38豪雪」の年、私は幼稚園生であって、かすかに記憶が残る。金馬さんの咄を聴いていると、幼い頃の冬の記憶が蘇るのだ。 私の家の前は老舗の旅館で、あの頃、冬は雪国全体が除雪のしようがなくなって国道すらストップが当たり前、旅館の駐車スペースが意味がなくなってただの広場となった。そこにカマクラを造らせてもらったものだ。私は幼すぎてその<造成>の有力な人手にはなれなかったが、十能(じゅうのう=小さな和式シャベル)で壁を叩いて雪を固めたりはした。兄や姉たち、その友人たちが頑丈に、また細部まで、仕上げてくれた。灯明が点るまさに暖色の内部はひたすら美しかった。 変な懐古趣味で語るのではないつもりだ。あの頃のほとんどの大人たちは、戦争に辟易した人たちばかりだった。どれほど平和が大切かを身に染みて知る大人たちの子どもとして平和は当たり前になった。すばらしい時代だったと思う。そしてその子どもたちの中から、戦争が再びできる国にすることを当たり前と言う大人へと育っていく者が出てきた。全体主義、独裁国家の脅威を声高に言い、自らも自由のない国へと変えようとする絶対矛盾を抱える国にこれからますますなっていくのか。