なるようになるが、独りではならない
右上の枝かなんか、トリミングすればよかった。
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Mooさんが、養老孟司さんの現下の境涯「なるようになる」について、まだその著作を読む前のこととしつつ、ご自分も同じ思いであることを書かれていた。その思いは、投げやりになっているというのではなくて、<「今日をよりよく生きようと努力すれば、明日にはそれに見合う何かかが待っている」というのに近いのではないだろうか>と推しはかっておられた。
Que sera sera− Whatever will be will be
Mooさんも養老さんもこの歌を口ずさんだろうし、私も。談志師匠なら「人生なりゆき」と言った。
古事記なら「なるようになって」ではないが、「なりなりて」だ。この「なりなりて」はなり余るところができたイザナギが、なりあわざるところがあったイザナミと<つながって>creationが起こった、と。異なるものどうしの融合あって、ものが生まれる。
「なるようになる」と言いつつ、ことは、ものは、決して独りではならない。花が咲けば独りで咲いたようで、むろん土、養分、水、日光などなしではあり得ぬことだったわけだ。
なるようになるー さまざまな要因があって、である。その要因の影響が良くも悪くも。「今日をよりよく生きようと努力すれば、明日にはそれに見合う何かかが待っている」というMooさんの言葉を借りれば、「よりよく生きようと」すること自体が必ず他に影響し、逆に他から影響を受けるのであって、「よく生き」ているならおそらく他によい影響を与え、他からよい影響を受けやすいと言えるのだろう。

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