投稿

「お前」が多いほど残る

イメージ
  昨日に続いて狛江の多摩川べりから登戸方面を望む写真。違うのは、撮影地点が「五本松」により近いことと、これは数日前のものということだ。 東京はまた太陽の出ない朝だ。雨もポツポツ、うんざりだ。 * https://news.yahoo.co.jp/articles/c99273c1a1ac61bc001b1c20def8cbc1feadaebb この記事、笑っちゃった。おいらが出てゐるぢやないか。 * 昨日Twitterを見ていたら、ある新聞に載った投書の引用があって、『続氷点』で三浦綾子が、「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」と書いているとのことを知った。 大して知らない門外漢もどきだが、私は「え、これマルクスじゃん」と思った。 「食べたり飲んだり本を読んだり劇場やダンスホールや居酒屋に行ったり、考えたり愛したり理論を立てたり歌ったり描いたり剣を使ったりすることが少なければ少ないほど、多く貯蓄できる。……お前が少なければ少ないほど、多く持つ。自分の生命を表現することが少なければ少ないほど、疎外された生命は大きくなる。」〜『経済学・哲学草稿』(1844年)の「貨幣の力」 我がブログを読んでくださっている皆さま、言っていることの趣旨は同じだとお思いでしょうか?私はそう思っております。「お前が多ければ多いほど、お前は没後もより残る」と言っているのだと思うのです。 残ったからなんだ、というのもあります。死んだら知ったこっちゃない、かもしれない。しかし、「生命」の「表現」者は己の表現=「お前」が残ることを望むものなのです。

Loving Mathematician

イメージ
  ほぼ一年前の写真。狛江の多摩川岸から登戸方面を望む。秋闌(たけなわ)。 * 今年、東京は今日で連続32日の降水を記録するという異常事態だ。日中晴れた日もあったが、その朝か夜に降雨量が観測されていたのだ。さらに記録が伸びるか・・・台風26号が近づいているらしい。また千葉に大雨が降ったらどうなることだろう。すでに甚大な影響が出ている中だ。 もちろん千葉ばかり心配であるわけではない。東京だってそうだ。 写真の多摩川だって、未曾有レベルの大雨が続けば氾濫する。狛江市も、調布市も、世田谷区も危ない。世田谷区だと、喜多見や宇奈根、鎌田、玉川などの川沿いの低地に住む方々が戦々恐々となる。高台でも、国分寺崖線の際に建つ家々もその地盤の崩落などが十分ありうる。そのうち、私がいつもと言っていいほど足繁く歩いたり自転車で通る成城の3、4丁目や、岡本2丁目や3丁目だ。家の窓から富士山が見えるという贅沢な立地ながら、崖の際に建っているマイナスを抱えている豪邸街だ。まあ、住民たちは大変な富裕層の人々だから対策は万全というところが多かろうが、なにしろ自然は侮れない。 過日書いた喜多見不動堂(成城4丁目2)もまさにそういうところに建っていた(解体はまだされていないか?)。危な過ぎて廃堂となったのだ。 東京はもう雨は当分結構だ。天よ、赦してください(何を?)。 * ここ3日くらい生々しい夢を見ている。淫夢ではない(残念)。現実を相当反映した内容という意味で「生々しい」なのだ。内容は言えないが、3日前のではなんとベッドから転がり落ちた。人生で2回目ではないか。 * YouTubeでなぜなのか、数学関係のビデオが紹介された。なぜかと書いたけれど、私が数理(理数)系のショートビデオを超文系のくせに見ることが多いからだろうと思う。「理学部数学科」で検索すればいくつもビデオが紹介される。全く何を言っているのか分からないのに、数分と言わずそれなり長く見てしまうことがあるのは、もう20年近く前放送大学の数学の講義を見ていたときから変わっていない。 Mooさんが東北大学理学部数学科の卒業生であることは過去に数度記したことがある。人類のおそらく99%以上にとってチンプンカンプンな学問を少なくとも4年間履修してきたMooさんという人は、私やKなどには底知れぬ知性をお持ちなのだとあらためて思う。 https:...

長月雑記 4

イメージ
  写真はおととい、喜多見ふれあい広場。 * 千葉の北東部はこの未明にまた大雨になっていたようで本当にお気の毒だ。もう何回目の大雨だろう。あの辺りは私にとって思い出深いところなので、一層心痛む。どうか被害がないようにと祈るのみ。 * Kが最新Vlogで自転車の一時停止違反をしてしまい、警察から警告を受けたことを告白していた。彼も遵法意識が強い人間なので、いささか驚いた。私の昨日の記事もあって、なんともタイミングの悪いミスだった。 * 昨夜仕事を終えてから砧公園へ行き、歌を唄った。久しぶりのことだった。Zeppelinの Black Dog (トップ・ピッチはE5)も、CCRの Have You Ever Seen the Rain (トップ・ピッチはC5)も相変わらず歌えるのだけれど、どうしてもそのピッチまで行けない男声の歌が1曲だけある。Breadの Dismal Day だ。悔しいが、絶対無理だ。G4の2オクターブ上、つまりG6のシャウトがあるのだ。Grokは男声でそこまでの音程が出せるか疑わしいと言うけれど、そうなのだからしょうがない。ハルシネーションかましてんじゃねぇぞ!その曲の他の部分は全部歌えるのに、まさに口惜しい。 https://www.youtube.com/watch?v=nXy4Rjugtug * Kが「夕暮れが早くなった」とVlogで言っていたけれど、秋分も過ぎればその通り。私は夜明けが遅くなったことを毎朝痛感している。 昨夜は中秋の名月を望めたはずだが、残念、世田谷ではまったく見られなかった。 これから大好きな晩秋と初冬がやってくる。春頃に、その秋冬の到来が待ち遠しいけれどもそんなに早く来てもらっても、その速さで老化も進むということなのだから痛し痒しというようなことを書いたっけ。そして今、あっという間に中秋が過ぎていく・・・。

無理難題

イメージ
  昨日、夕暮れ迫る野川。 * 思いやりのない人間て、何が楽しくて日々暮らしているのだろうね。それなくて楽しい、それなり豊かな生活なんて、できるはずがないと思うのだ。 おととい、道路の右側を歩いていて、右側の交差する小径から自転車が一時停止せず、またスピードもほとんど落とさずに左折してきて私は咄嗟に身構えた。自転車に乗っていたのは40歳代前半くらいの連休最終日を過ごしているであろうサラリーマン風の男、電動ママチャリ、単独。交差点の左右から人や他の自転車やクルマなどが絶対来ないと見通すことができる超能力者。しかし、間違っていた。なのに危険な目に遭わせた通行人に頭を軽く下げることすらできない。 むろん推測だけれど、その男はきっとしっかりした企業か何かに普段は勤めているのだろう。世田谷区に妻子持ちで暮らせるだけの資力があるのだ。だからおそらくいい大学を出ているのだろう。ところがこうした人間としての当たり前ができないのだ。 昨日もほぼ同じことが起こった。冒頭の写真を撮った後、自宅近くを自転車で法規通り左側通行をしていた。まもなく左側に、向こうにとっては丁字路となる交差点がある。私は優先道路を走っている。私は他の自転車乗りを<ひとつも>信用していないので、一時停止せずに曲がってくる者がいるといつものように推定して対応できるようにしていた。すると案の定、やはりママチャリの、しかも今度は子どもを乗せた長髪の30歳代くらいの男が勢いよくこっちの優先道路に出てきた。 「危ないよ!」 私はさすがに声を上げた。子どもを乗せているのだぞ、なおさらだ!しかしその男は私に一瞥をくれるだけで、速度を上げて行ってしまった。子どもはどんなふうに育っていくのだろう。 他者に配慮ができぬ者たちが多数派だとは信じたくない。しかし、多過ぎる。 Kは交通誘導の仕事をしていて通行人たちに軽んじられること、また悪罵などを浴びせられること頻々、いちいち傷ついたりしていては心がもたないと言っている。たまに温かい言葉をかけてくれる人もいるようだけれど、それで人間の性は善と信じ込めるほどの証拠にはなっていない。 「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです」とは漱石の『こころ』の一節。きっと上記二人も普段は<普通の>社会人、夫、父親...

今日は暑いね、東京

イメージ
  2週間くらい前の写真かな?夕暮れ近い砧公園の一角だけれど、こんな上天気で誰もこの写真に写っていないのは相当珍しい。静かそうだけれど、50mも南へ行けば東名高速で、騒がしい。それでもこのベンチに座って内省するなんざ、あるいは読書するなんざ、いい感じだ。 * Mooさんが近頃AIについての論考をブログに書いておられる。ハードウェアにもPC黎明期から詳しいMooさんだ。それに氏の人工知能一般への知性的な考察が加われば、説得力抜群だ。 TrumpがAIを「SI」と呼ぶと国連で宣言したそう。「Super Intelligence」か。くっつけて表記するのかどうか知らない。 私は「AI」のままで良かろう、いや、そう呼び続けるべきだと思うがどうだろう。「超知能」と「人工知能」、どっちの方が人間の知性との峻別を明確にしているかと問えば、答えは明瞭だからだ。両者は峻別すべきなのだ、され続けるべきなのだ。「超知能」などと言ってしまえば、事実上の人間知性敗北ないしはそれの凌駕を自ら認めていることになる。 * いやあ、何だか気分が乗らない。「何だか」とか書いたけれど、理由は知っている。気分が乗らず不快なら現状を打破するしかない。シンプルなことだ。その打破がちょいとむずかしい。だから気分が乗らない。けけ。

奥沢、深沢、野沢

イメージ
  かういふ人工の物をメインの被写体にすることが多くはない余ではあるが、それなりの美を見出したからといふのは當然ありつつ、これを基に書きたいことがあるから掲示するのである。 歴史的仮名遣ひは終はりにしよう。(なんでそんな気分になったんだ!) ・・・これは中流以上(!?)の特に女性たちに人気のパン屋、否、bakery、否、boulangerie(ブーランジェリー)の、「Comme'N Tokyo(コム・ン トウキョウ)」である。フランス語には全く疎い私には「Comme'N」の「'」がなぜ要るのか全く分からず「ニャ〜」と写真を撮りながら鳴いていた。これを英語にすれば「Like N」、「Nのように」ということらしいのだが、アポストロフィなど要らない。 Kは私のことをVlogで「N」と言っている。そんなことはどうでもいい。このブーランジェリーの名の「N」は、2019年の国際製パンコンクール「モンディアル・デュ・パン」で日本人初の総合優勝を果たした店主でパン職人の方が師匠と仰ぐ人の姓の頭文字だそうだ。写真にある手書きの店名はその「師匠」自身によるらしい。 だ・か・ら、どうした。 義父の娘は、昨日私が好天の下「Deep Setagaya」と呼ぶ世田谷区内ポタリングに誘うと、「もし九品仏(世田谷区奥沢7丁目)の方へ行くなら、コム・ンに寄りたい!」と言ったのだ。私はその方向へと行くつもりだった。なぜなら、その九品仏に通じる呑川(のみかわ)という小さな河川沿いの道が好きだからだ。呑川は世田谷区桜新町を水源に、目黒区と大田区を通って東京湾に注ぐ。その途中、世田谷区深沢の川沿いの道が特に好ましいのだ。 笑える。私の故郷でもし「奥沢」だの「深沢」だのという地名があったら、ほとんどそこは文字通り秘境だ。ところが世田谷区においてとなると、高級住宅地の名になって、緑多き閑静なところというイメージを与えるのだ! (「奥沢」は裕福な家の「奥様」を連想するし、「深沢」は豪邸に暮らす「深窓の令嬢」に通じるようだ<笑>。) 私は呑川沿いをポタリングしながら、我が故郷「野沢」のことを思い出していた。似たような風景が故郷にもある、ないし、あったからだ。そしてそのことが、私が呑川沿いをポタリングするのを好む理由なのだ。 やがて九品仏(=浄土宗浄真寺)に着くと、義父の娘は嬉々として「コム・...

また来秋も、それ以降も、再会を誓って

イメージ
  先ほどの(と言っても1時間くらい前)狛江市の多摩川べりから撮った一枚。遠景の山々は丹沢山系(最高峰は蛭ヶ岳)、その斜め右後ろに雲にほぼ覆われた富士山。こんなにくっきりと丹沢の山肌が見えるのも珍しい。台風一過の澄んだ空気ならではのことだ。 昨夜の台風最接近だが、世田谷区西部では思ったほどの猛烈さはなく、9時過ぎくらいにはもう雨も止み、風も穏やかなものになっていた。それでも関東の太平洋沿岸部はもろに影響を受け、人的被害もあったようでお気の毒なことだった。お見舞い申し上げます。 * 金木犀の花が<こぼれ>始めている。今朝はだからギリギリ狛江市(調布市染地に隣り合う)西和泉の多摩川住宅の垣根になっている我が愛しの金木犀に挨拶に行った。 昔この金木犀のことを記したけれど、また書けば、2016年辺りだったか、私が白内障で目も悪くなり、また当時は原因不明の胸骨や背骨の痛みを抱えていた頃、2011年以来肉親の死も相次いでいて、「私もいよいよか」と覚悟しなければならないのではと鬱気味になってしまったのだ。そんな折、私は爽快な秋の一日にどうしてもと誘われて、多摩川べりを重い足取りではあったが秋の日差しを結局はうれしく受けながら散歩し、さらに芳香にも誘われてこの金木犀の垣根へと足を伸ばしたのだった。 金木犀の開花期は短い。儚さは桜と同じ。だから精一杯咲いて香りを四方へ放っている小さなオレンジ色の花たちの<今>に激しく共感したのだ。そして花たちに声をかけた。「来年も、またその次の年も、その次も、ずっとずっと、会いにくるからね・・・会いに来させてね。」 その<再会>は10年続いている。 感謝しかない。