みつをさんは私の兄弟子 〜秋のような朝に
ちと遅く起きてしまい、外はもう既にかんかん照りに見えたが、窓から入ってくる空気に驚いた。
秋のそれだった。もう使ってよかろう、「爽やか」。湿度低く、気温も熱帯夜の延長に程遠い。写真は先ほど6:20 a.m.頃に砧公園で撮った空。昼はしっかり真夏の気温になるのだろうが、すれ違った人たちも爽快な空気を胸いっぱい吸い込んで歩いたり、jogしたりしていた。
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熊本がまた大地震に襲われた。ただただお見舞い申し上げるのみ・・・。そう、ほぼ「のみ」。せいぜい義援金をわずかながらも出すだけ。
今の私の歳ぐらいにMooさんは長野県池田町やその近隣から支援物資を集め、宮城県女川へとそれを運んで行った。あの2011年の大震災の時だ。これが「偉大」な行為でなくて何だろう。そしてそればかりではない。偉大な行為は枚挙に暇がない。
氏はやはり最新のブログ記事で大謙遜をされていた。人生のある時に何かしらの蹉跌があって、ご家族に迷惑をかけたらしいことが何より「偉人」などと私に呼ばれてしまうのに赤面する、猛否定する根拠なのだろう。
Mooさん、それがどうしたんですか。過ちを認め、謝罪し、悔い改めたのですし。完全無欠な人生を歩んできた人間などこの世に今も今までもいる験し、いた験しはないですよ。いつまでも引きずる悔恨、羞恥というのはおそらくほぼ全ての人にありましょう。Kに過日酒を酌み交わしながら聴いてもらったのも私のそういう過去の汚点についてです。そのKにだって、今なお「なぜあんなことになるのを止められなかったか」と悔し涙に暮れる(?)ことがあるのです。
同類相憐れむではないのです。私やKやMooさんの三人が同類というのではなく、あいだみつをの「人間だもの」を引くのも陳腐でしょうけれど、さまざま後に悔悟すべきことをしてしまう性を持つのが人間で、それは真理であって、故に「同類」とは正に「人類全体」を言うのです。ちなみにあいだの仏教上の師匠は紀野一義先生なのです。ほんのちょっとの縁ではあるけれど、彼は私の兄弟子と言っていい(勝手ながら)。
わかっています。「人間だもの」と言って居直るような態度の言い訳にするならそれは卑怯だし、醜悪です。みつをさんもそんなことを望んではいません。しかしこの世に「私は凡夫ではない」と胸張って言える者などいるはずがないと私は思います。世に「偉人」と言われる人は過去におびただしくおりますが、そういう人たちが完全無欠な人間であった験しがあるでしょうか。
私の狭い交際界でMooさんを「唯一の偉人」と称揚したことに何らの誇張もありません。慮りとやさしさ随一の人だからです。そのやさしさがいつも良い因となって良い果につながるわけではない。そういうことも人間界の機微のひとつでしょう。しかし大抵の場合、思いやりは善果をもたらします。Mooさんはたくさんのそういった<果実>を多くの人にもたらしたのです。
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まあ、MooさんのことやKのことなどばかり書いているのもどうかという向きもありましょう(笑)。
この辺で当分の終わりとしましょう。

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