Hooked On 賢治さん


 

花巻温泉を出てすぐに宮沢賢治記念館へ。2度めの訪問。前回は10年前とかだったか?

遠目だし後ろ姿ゆえ人定は無理だろうから載せるが、この少女、ひとつひとつの展示物、写真を入念に、じっくりと見てゆくのだ。

(こゝから舊假名遣ひ、またできるだけ正字を遣ふ)賢治さんにまつはる知識ならすべて吸収せんとするかのやうであつた。小學校六年くらゐであらうか。

宮沢(賢治さん自身正字で宮「澤」とは記さなかつたのでさうする)文學にもうこの歳で魅了されてゐる、しかもこの<資料閲覧巡りの旅>がこれほど長きに亘る行程なのだから、大變な學術的関心を持つてのこととも言ひ得る譯であつてほんたうに驚き入つた。

品の良い女性が付き添つてをられたが、母上であらう。娘の凄まじき知識欲、賢治さんへの関心興味にとことん付き合ふといふ風情、娘を遠巻きにして違ふ展示物を見てをられた。

きつと少女は例へば『注文の多い料理店』などを入り口にして宮沢文學へ入つて行つたのだと思ふ。そしてなんと、賢治さんにまつはる廣汎でしかも深い展示物のひとつひとつを時間をかけこゝまで興味深く見てゆくまで彼女の宮沢文學への探究心は育つたのだ。

(以降また普通の記述法に戻る。)

*

午後は小岩井農場へ。酪農製品を飲食するのが目的ではない(ソフトクリームは絶品だったが)。賢治さんの『春と修羅』で彼に詩的ないしは物語的インスピレーションを数々与えたこの広大なagricultureの大地を見に行ったのだ。

なぜか撮った写真がPCへ移っておらず、ここでは示せないが、農場内のどこからでも岩手山がくっきりと、迫るように見えていた。賢治さんが<大好きだった>保阪嘉内さんと共に星降る夜登り、「ほんたうの幸」を共に追求しようと誓い合ったその山頂での思い出が、賢治さんを生涯突き動かしたと言っていいのではないか。

1921年、賢治さんと嘉内(「ニライカナイ」から由来する名前、ただし沖縄出身というわけではない。山梨は韮崎だ。それで「ニラ」なのか)さんの訣別が決定的になったらしい東京上野の帝国図書館での再会以来3年経って『春と修羅』が自費出版された。小岩井農場やその周辺での賢治さんの「心象」を読んでいると胸がつぶれるような想いがする。ほとんど嘉内さんに取り憑かれている。

なぜ賢治さんは自分を「修羅」と呼んだのか。

*

今山形市にいる。2回めの訪問。朝の散歩に出てみよう。

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