Je pense
少なくなった執着の中、最期まで残るのは生きることへのそれだろう。それすらもなくなったら、お釈迦様の境地である。
何かしら生きている実感が欲しいというのは理解できる。しかしそれが功を焦ることにつながるのなら「今更なんだね、いい歳して」と言うしかない。承認欲求というのは死ぬまでついて回るのだろうけれど、しかし、それより大事なのは、<やっていることの誠>だ。
なんだそれは。
生きている実感を求めているのなら、それはどうすることで得られるというのか。暇つぶし程度のことではどうにもならない。生きている実感を得るためにしていること、それを作品ということにすれば、その作品はそれまでの<自分のすべての投影>である。「やっていることの誠」とはだから、作品に対しての誠実、なのだ。自分のそれまでの営為が素人域を脱していないのなら、今やっているのも素人のそれであって、ただの暇つぶし、やっているフリ、だからますます生きている実感から遠ざかって虚しい。ただし、素人は素人なりに生きている実感があると言うのなら、それはそれ、否定はしないけれど。
パスカルはそういう営為を「divertissement(気晴らし=暇つぶし)」と言って、それは<自己欺瞞を深め、真実(神や永遠の救い)から目を背けさせ、気づかぬうちに死へと導く>のだと。さらに、<人間のすべての不幸は、一人で部屋に静かに座っていられないところから来る>とも。
座ってばかりいては体に悪いから、彼の言葉を全て拳拳服膺するわけにはいかないけれど、外に出て何かやっていれば充実だとする短絡は本当にいけない。
ではMNEMOはどうなんだ、こうした論を展開しつつ、一体何を今していると言うのか。お前の「生きている実感」はどう得られているのか。
そうね、いい音楽を聴き、本を読み勉強をし、若者に英語を教え、外に出て大きな空を見、木々に囲まれる。これで十分だなあ。
そして<いつか>それら営為から掴んだことを歌にする。
(いつだよ!)
(だから、焦ったってしょーがねぇんだよ。)

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