冬の夜のしじまで沁み入ったことば


 写真は去年の今頃撮った日没頃のNHK技研の広場


昨夜このNHK技研の遊歩道も含めて、近隣を歩いた。Creedence Clearwater RevivalのI Heard It Through the GrapevineSomeday Never ComesをYouTubeの再生リストに入れて、それら70年代のヒットソングズを聴きながら歩こうとYouTubeを開くと、おすすめに故・池田晶子さんの著作を朗読するチャンネルが示されて、なんとまあ、惹かれてしまった。

東京・世田谷とは云え、人気がほとんどなくなる午前0時過ぎ、読み手は素人で聴きにくかったけれど、ほぼ雑音なき大蔵地区の道では池田さんの明晰なことばが沁み入るようであった。見上げれば十六夜の月と、冬の星座たち。


「自分」というのは、名前でなければ、身分でもない。体でなければ、心でもない。ないないづくしで、どこにもない。それが「自分」というものだけど、だからといって、自分など「ない」というのでもない。何を「自分」と思うかで、その人の自分は決まっている。

という一節を、日大商学部キャンパス脇の「水道道路」を歩いているときに聴いた。

これを咀嚼してさらに味読すると、私が歌を歌うときの理想であり、また稀ではあれそれを叶えたときの境地を彼女は言っていると思えて、立ち止まった。

Feel Meという私の歌がある。Feel me whenever you feel the wind blow「風が吹くのを感じたらいつでも私を感じてくれ」と私は歌う。「自分」はそのとき「風」なのだ、と。

歌を歌うとは、歌う者が歌われることばになることなのだ。

コメント

このブログの人気の投稿

やるせない

SSブログにしてやられて、19年間のtextを失いました。(移行予告を軽視した私が悪い)

AIの俳句解釈