Kenji, you're not encouraging me, but ordering me
George Harrisonの一人息子Dhaniが、よくある少年の父への反発(エディプス・コンプレックスとまでは言わないし言えないが)で、絶対平和を説く父を尻目にThe Combined Cadet Forceという英軍の士官候補生を育てる青少年組織に入ったことがある。
唐突なエピソード紹介だけれど、賢治さんの憧憬の的であった保阪嘉内さんは、キリスト教に基づく非暴力主義を訴えたトルストイに心酔していたのに、盛岡高等農林を退学(「今だ。今だ。帝室を覆すの時は。ナイヒリズム」という一節を含む文を賢治さんらとの同人誌「アザリア」に書いたことが原因らしい)させられた後、帰郷の後<志願して>軍人となった。これはもしかして反帝国主義、反天皇制の思想をこっぴどく責められ矯正されての<改心>の発露かと思いきや、入隊しても軍隊批判をしてリンチを受けたというから、そこまでは筋金入りだった。
嘉内さんは、「一年志願兵制度」という、一定の学歴(彼の場合は旧制中学卒)を持ち、中産階級以上(彼の実家は韮崎の大地主だった)の男子が3年の兵役義務を1年にできる特典があるから入隊したのだった。それにしても、1年で満期除隊しても、のちに折々軍務に応召していて、昭和5年(1930年)には中尉にまで昇進している。
だから、と私は思う。反軍思想はありつつもそれが年齢を重ねるうちにそれなりに薄れてしまったのだろう。だから、1921年に上野で賢治さんと再会した際、すでに満期除隊はしていたけれども、さらに上の階級を目指すことに他ならない再入隊を口にする<軍人となった保阪>のイメージが賢治さんの脳裏に焼きつけられ、それが、3年後に出版される『春と修羅』にある「小岩井農場」で保阪を「すこし猫背でせいの高いくろい外套の」「自由射手(フライシユツツ<ルビのまま>)」と描き、「気がへんで急に鉄砲をこつちへ向けるのか」とすら<心象する>ところまで行ってしまったのだ。共に百姓をやって、この世を極楽浄土にあるいは天国にしようという岩手山での誓いはもう無効になってしまったと賢治さんは絶望したのだろう。
賢治さんは男子帝国臣民として徴兵検査をもちろん受けている。けれども「第二乙種合格」で実質上の丙種、つまり不合格で、徴兵免除だった。その一方で非暴力というトルストイの思想に共感したまさに同志が、徴兵制度があった時代のこととは云え、志願して「暴力装置」の一員になって、さらに、除隊したのにまたもや進んで兵役に就くというのは賢治さんにはきっと真意を測りかねたのだと思う。
保阪嘉内という人は、本当に魅力的な人物だったのだなあと思うのだ。博学で画才も少しあるし、短歌も詠むし、ユーモアもあり、農本主義思想も確固たるものがあった。こういう人がある日突然山梨から盛岡に来て自分の前に現れたらさぞかし衝撃で、それをまさに賢治さんは後に「風の又三郎」の登場シーンに記述しているのだ。代表作『銀河鉄道の夜』だって、嘉内さんのハレー彗星のスケッチと添え文から発想されたと言って差し支えない。彼なくて宮沢賢治なし、なのだ。
嘉内さんは中尉として軍務兵役を終え本格的に故郷韮崎に戻ってからは農業、詩人・文芸活動、農村復興運動、そしてアミノ酸醤油の研究など、賢治さんに「しつかりやりませう」と何度も促された約束を全部とは言わないがその一部を実現していたと言えよう。彼の謂う「花園農村」などはこの世の天国(彼は一応クリスチャンだった)を現実化しようという運動だった。
そうなると、嘉内さんはある時期から、岩手山で賢治さんと誓い合ったことにかける賢治さんが示す情熱以外の、賢治さんが寄せる自分個人への思いを過剰に感じ、それをいなしたり、突き放したりしたのだろう。賢治さんによる法華経=日蓮宗独特の「折伏(法華経の教えを積極的に伝え、他者を正しい信仰法華経への帰依に導く行為。相手の誤った思想や信仰を<折り伏せる(=正しい教えで論破し、改めさせる)>こと)」にも辟易していたかもしれない。<私はあなたの私への想いが重荷です>と上野ではっきり言ったのではないか。賢治さんにしてみれば自ら言う「諂曲(てんごく)」、つまり邪な心を嘉内さんに見透かされてしまったと思ったに違いない。
それでも、岩手山の麓の牧場(まきば)を歩きながら、いまだ嘉内さんを恋い焦がれる自分、纏綿をまるで取り払えない自分は、修羅としか言いようがなかったか。

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