今回の旅先は武将たちが命燃やした地でもあった
iPhoneからMac Book「写真」への自動転送が効かなくなっている。Air Dropを使ってなんとか。
小岩井牧場と岩手山。賢治さん(またかよ!)も同様の光景を大正時代に見たことだろう。
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昨夜帰京した。
朝はまず山形市駅前のホテルからこれまたおよそ10年ぶりの霞城(かじょう)公園内を散策した。人口24万弱の県庁所在地であり、仙台市110万弱、福島市28万弱、秋田市29万強、盛岡市28万弱、青森市26万弱ということで東北6県の県都としては最少だ(仙台以外はいわゆるドングリの背比べだが)。
しかし、たたずまいの良さは全く侮れない(侮るな!)。東京っ子の典型で、大きな意味での「田舎」には住環境として興味を持てない義父の娘がなんと山形市なら住んでもいいと言うくらいなのだ。彼女、仕事の関係で同県酒田市へ足繁く通った時期があったけれども、総じて山形県にはいい印象を持っているらしい。
そう。山形市中心部の朝は落ち着いていた。戦国武将で、いっときの霞城の主で、伊達政宗の伯父でもある最上義光(もがみよしあき)が市のヒーローであるらしく、その雄々しい騎馬姿の立像があって、我が根本家の家紋でもある(!)丸に二引きが足利家の縁戚であることを誇らしく示す。最上の出自は斯波氏、斯波氏の祖は足利家氏なのだ。
霞城公園の朝は本当に穏やかで、散歩やジョギングで利用する人々もそう多くなく、広大で美しいその公園に魅力を感じない人はいまい。
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ロイヤルホストや「てんや」を経営するロイヤルホールディングス系列のリッチモンド・ホテルの実に豊かなメニューの朝食をいただき、猛暑の中ながら意気揚々と南下。最上義光と伊達政宗が連合して戦った上杉家・直江兼続の本拠だった米沢を通り、121号線で奥羽山脈の飯豊連峰系の山々の峠をいくつも越えて會津・喜多方へ。
道の駅の看板を何気なく見たら、蘆名家の祖、佐原十郎義連の墓が近隣に在るとの情報!
ヒエ〜〜〜〜!
私が勝手に唱えている「Mick師ご先祖蘆名氏説」には欠くことのできぬ情報なのだ。佐原十郎義連は元々三浦氏であり、相州(神奈川県)三浦の佐原を本拠としていた武将で、三浦義明の末子、源平合戦のいわゆる「鵯越の逆落とし」で、断崖を駆け下りる先陣を務め、勇猛さを示したとされる人だ。
その人が奥州合戦(源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした戦)にも出陣、功を遂げて陸奥国會津四郡(會津・大沼・河沼・耶麻)を拝領したという。その本拠が旧耶麻郡熱塩加納村(今は喜多方市に属す)の蘆名という地名の場所だったというのだ。(私は蘆名が三浦半島のどこかの地名と思っていたが、誤りだったようだ。)
長く會津を支配した蘆名氏は、伊達政宗に1590年會津を奪われてしまう。最後の当主は蘆名義広(=盛重)で、常陸・佐竹氏(岩城氏と連合して伊達と戦った。岩城氏はまさに今の「いわき市」を根拠にした)からの養子だった。
さて、その佐原十郎義連の墓所は、なるほどそういう歴史的な人物のものとしてふさわしい佇まいだった。決して大きくもなく、壮麗とかという形容にはまるで届かない。會津盆地北西の端にひっそりと在った。誰も周りにはいない。墓所前の細い道はその先数メートルで無くなってしまう。ただ、田園地帯にポツンと在る。それでも、會津太守・蘆名家鼻祖としての威厳が漂っているように思えた。大河ドラマで蘆名家が取り上げられたら(それはなかろうが)、きっと賑わう場所になるだろうに。
でもさ、考えてみたら、大河ドラマ最高視聴率を得たのは『独眼竜政宗』だったんでしょう?だったら東北での戦(アテルイらの田村麻呂との戦いや、前九年・後三年の役、奥州合戦)も中心題材として十分ありうるわけで、蘆名中心のドラマ、神奈川県と福島県、山形県、さらには宮城県、新潟県、茨城県を巻き込んで、いかがか。蘆名じゃ弱い?連歌師・猪苗代兼載(蘆名一族)も出てきて、文化の香りもするのになあ。野口英世はその兼載の末裔らしいんだぞ!
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明日はトルストイの賢治さんと嘉内さんへの影響について書いてみる<つもり>だ。どうなるか。
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