アーティストは須く・・・


 

狛江市東野川に暮らしていた頃の五月か六月だったか、コンドミニアムの4階にあった我が家の玄関から、眼下の都道を挟んだあるお宅の庭に咲く柘榴の花が目に止まり、その朱色と緑の組み合わせ、あるいは対照は、花木数ある中でも群を抜いて美しく、以来大好きになった。もうまもなく咲き出すね。

*

Mooさんの最新記事に私の文章の一部が引用されている。

そのことよりも、岩手・大槌町の火災(お見舞い申し上げます)について氏は書かれており、井上ひさし氏の「吉里吉里人」への言及があったことに触発される。

某YouTuber著述家が昨日その井上ひさし氏のことをケチョンケチョンに言っていたのだった。うろ覚えながら、「DV男」だとか、ミソジニー関連のことでの猛批判だった。その著述家と井上氏との直接の付き合いはなかったはずだから、井上氏のお連れ合いだった方とその間に生まれた娘さんの証言に基づいてのことだろう。さらには坂本龍一氏についても、その女性関係のだらしなさについて唾棄するように語っていた。いずれもリベラル、左翼の旗頭的存在がいかに実態的にはダブルスタンダードの持ち主であるか、というような文脈での話である。

こういうのを「キャンセル文化」と言うらしく、それは「左派メディアが<都合の良い人物>の過去問題をスルーし、他者を厳しくキャンセルする二重基準」に基づく、と。

まあね。愛だ、平和だと言う者が、実は私生活では闇を抱えているというのはあるよね。John Lennonだってそうだし、「Peace & Love」を挨拶の言葉にしているRingo Starrだってそうだった(今は安定?)。

その闇を抱えてしまうこと自体を擁護する気は全然ない。私も、その点においてはグシャグシャなところが<あった>。情けないし、ずっと疚しさを感じてきた(現在完了・継続)。だから、これから書くことは正当化を図る弁明ではない・・・

井上氏や坂本氏のような高名な作家や音楽家と私を同列にするつもりはまずないと断りつつ、またその才能の多寡を措いておきつつ、そういう藝術方面に身を置く者が世間様から決して褒められぬ、いやそれどころか、世間様から指弾されるような対・異性との関わり方をしてしまうのはほとんど「intrinsic nature」だと言える(英語で逃げるな!)。ん〜、少し違和は感じるけれど日本語にすると、ほとんど内因的なこと、あるいは本質的と言っても良いかもしれない。あるいは逆で、対・異性への関わり方が世間様から見れば指弾されるようなことになってしまう人間だからこそ藝術の道を行かざるを得ない、と言っても良いのかもしれない。(ただし、私はDVとは無縁だった。)

くどいが、こう言って正当化を図っているのではない。

いやはや。こんなことを書くつもりはなかったが、Mooさんの記事に井上さんのことがあって、その<奇遇>に触発された。娘や孫よ、パパは、じいちゃんは、さういふ男でもあつたのだよ。

「パパ、それ過去形?」

「もちろんだよ。もうダメだ。」

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