イッちまったなあ、MNEMO (グハハ)
2日前、世田谷区大蔵の「やっちゃば広場」で満開を迎えていた河津桜。
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私が有神論者であるのはもう何度も表明している。とは云え、まさか白髭のおじいさんを神と思っているはずもない。究極仏(我々のこの宇宙ではつまり釈迦牟尼)さまも神である。こうなると汎神論だが、そうではない。スピノザの「神即自然」やペレニアル哲学、インド哲学の梵我一如、そして本邦なら本地垂迹説の考え方に与する。
ちなみにアインシュタインもスピノザの考えを支持している。
イスラエルの神とイランの神の戦いと称して殺し合う今だ。スピノザもアインシュタインもユダヤ人だぞ。まずは仕掛けた方のネタニアフよ、同胞の偉大な先輩を見習え。
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Mooさんが氏のこれまでの主に公的な歩みについて書き連ねておられる。八十路に入られたからそれを契機に来し方を振り返っておられるわけだろうが、一つの区切りをつけておられるとも言える。
私もやたら過去のことを思い出す。理由は主に「暇になったから」だ。振り返ると、何か達成したかという視点を持ちがちだ。しかしそういう視点だけで回顧反省するのは素朴すぎるのではないか。何かを達成したと思えるから人生有意義で、何かについては中途半端にしたとか失敗したとかと認識して人生無駄にしたとするのは愚かではないかと思い直すのだ。
自分の善い行いが後世につながれていくのはもちろんうれしいことだ。しかし「うれしい」と感じる主体はすでに他界しているのだ。そんなことを感じる主体でなくなっていても、いいではないか、つながっている、自分の為した善なることの影響が続いているという事実があるだけでいいのだと思える人は強者だ。
私はこの世を去った後も「うれしい」と感じる主体であり続けると思っている。同様によろしくないことをした自分の罪も引き受けたままになるとも思っている。仏教は「無我」と言うし、お釈迦様に逆らえるはずもないが、しかし、私は意識は常住だと思えてならないのだ。仏性は不滅なのだ。あるいは量子意識理論(ペンローズなどによる)。そして私自身の根拠としては、18歳になる直前だったか当日だったかにした心霊体験が大きい。
人間は、自分がしたことが後の世でどうそこに生きる人々、動物、植物に影響しているのかを確認しなければならない存在なのではないかとすら思う。それでうれしかったり、罪悪感に苛まれたりをいわばずっと繰り返す。そして何かのきっかけでこの世に戻ってくる。「還相回向」という浄土教の考えがあるが、私は次の還相で回向できるほどの魂になっていられるかは疑わしく思っている。

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