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金子さんのことばで、MNEMO伸びよ

私の旧友の中でも最も長い親交があるのは金子くんだ。幼稚園から中学まで一緒。そして大学時代、彼の大学の軽音楽サークルで再会して、私にとって最初に属したバンドVIAが誕生したのだ。昔にも書いたけれど、「via」とはラテン語で「道」、そしてそのバンド結成時には全く知らなかったことだが、安ちゃんや治雄ちゃんらがほぼ同じ時期であろう頃にTAOを結成していて、その「タオ」とは中国語で「道」である。偶然とはおもしろいものだ。 その金子くんが再び私のYouTubeチャンネルのコンテンツに連続でコメントをくれた。 https://www.youtube.com/watch?v=QPujEOaYaSc&lc=Ugxo_1N7ZjPfAWgMhCB4AaABAg まあ、友人同士、知り合い同士の馴れ合いと言われてしまえばその通り。でもね、古い古い楽友の言葉だからこそ、身に沁みてありがたい、貴重だ、というのはあるのですよ。 金子くんは本当にピュアなこころを持った美しい人間だと、この歳になってますますそう思う。そんな人に歌を、曲を褒めてもらうことの愉悦! * 音楽上のことでちゃんと言葉で私を褒めてくれる友人というと、この金子さん、そして関根安里くんだ。言葉にしなくても、長く私と音楽活動をしてくれているスティックや治雄ちゃん。その行動・態度で十分だ。ガッチャンは時に「いいっすね!」とさりげなく言ってくれることがある。 褒めると伸びる・・・これはほとんど真だ。私が英語を教える時はまずそういう態度を基本にしている。伸びなかった生徒の記憶はない。 金子さんのお褒めの言葉で、高齢者MNEMOでも、また伸びようという意欲が湧く。

うれしき見込み違い

今日は4:30起床。日の出がめっきり遅くなったなあと実感した。4:10くらいで目が覚めたのだが、まだ暗い感じがして、4:00前かと錯覚した。 * Kくん関連の2つの記事、普段の記事の倍の閲覧数だ。そんなに彼は人気があるのか。驚いてしまう。 * 「すき家の<うな牛>が食べたい」といつも超多忙な義父の娘が昨夜言ったので、今朝はポタリングがてらその弁当を買いに行った。今朝の最遠点は近場の玉川台、そこから千歳船橋のすき家へ。なんとまあ、朝5時10分くらいなのに、学生風の男女で混んでいて驚いた。入るのを躊躇い、そこから今度は成城学園駅前店へ。ここは私と同い年くらいの男性が一人。気兼ねなく入った。(笑) 帰ってから私の分を食べてみたが、うれしい見込み違いが・・・。鰻が非常においしくなっていた!なんと私が好きな表面が硬めで中ふっくらという本格的な焼きになっていたのだ。しかも鰻自体が国産(つまりニホンウナギ)としか思えない美味しさなのだ。 昔のすき家の鰻は「まあ、この価格ならこんなもん」という感じだったのだが。 ライバル松屋もそのカレーはすこぶる進化していて、カツカレーなんかはもう絶品だし。いやあ、牛丼屋各社、大したイノヴェイションですなあ。こうなると同じうな牛も食べてみないとと思わせる。もちろん吉野家のもね。 * さあてこの記事、閲覧数1桁だぞ。

2025文月あとわずか雑記

目覚めたら5:30近くだった。 2日連続自転車乗りをスキップするわけにはいかないと、もうすでに日差しが強い中ペダルを漕ぎ出した。しかし日陰は涼しかったのはありがたいことだった。 だから緑陰を求めて砧公園へ。そこを何周もするのが最も合理的なのだけれど、それじゃつまらんと瀬田方向へこれが本当のspin off。こちらは多摩川水系の谷戸川や丸子川などが造り出した河岸段丘で坂下の静嘉堂緑地に至るまでやはり緑が豊富なのだ。昨日夜、おととい録画しておいた『椿三十郎』の4Kデジタル・リマスター版を見たものだから段丘上の無名塾、すなわち仲代達也さんのお宅前を通った。三船敏郎さんによる三十郎の敵役「室戸半兵衛」を演じた仲代さんがご健在だというのは、私にはPaul McCartneyやRingo Starrが健在なのと同じほどにうれしい。 しかしまあ、三船さんと仲代さんの人間としての迫力、魅力は、もう二度と同じような役者は出まいと絶望するほどだ。 昨日昼間、TVをつけるとたまたま映画『侍タイムスリッパー』が。途中からだったが、主人公が元々會津藩士だという設定だ。志に燃えつつ、強いということは優しいということを体現し、また恥を知る侍・・・今そんな精神を受け継ぐ「日本人」がどれほどいるだろう。そんなことを考えていての『椿三十郎』。もう数回観てきたけれど、仲代さんはリベラルな人であることはよく知られていて、では三船さんはご存命だったら、今の日本をどう語ったろうか。保守的な人だったかもしれないが、なにしろ軍隊経験のある方だった。反戦の思いを何度も語られていた。 それから多摩堤通りへ出て、鎌田のFamily Martへ。店員がハンサムな中東系の青年で、しかも日本語も上手、丁寧で好感おびただしい。働いてくれてありがとう、だ。何が「日本人ファースト」だ。外国人をワーク・フォースとして、あるいは出資者として、「ファースト」にしなきゃ成り立たないところだらけじゃないか! 昨日、義父とその娘と外食に出たが、屈指の高級住宅街成城6丁目の交差点で住人らしき高齢の男性が横断歩道を横切ろうとしていたので停車すると、その男性は感じ良くお辞儀をしたのだった。クルマが停まって歩行者を優先すること、また譲られた方が挨拶すること、いずれも当たり前のことではある。しかし、停まらないクルマ、挨拶しない歩行者もいっぱいいるぞ。 ...

昨夕のことなど

昨夕5時から(とは云えまだまだピーカン照り)の「転石会」は終始大変愉快で和やかな雰囲気だった。仕事があった関根くんも急遽来られるようになってさらに盛り上がった。 Kちゃん(25日)、Mick師匠(28日)という2人の7月生まれのお誕生会も兼ねていた(とは云え特別なことはしなかったが)。 我々のような歳になると、こうした飲食の会は互いの安否確認、無事確認の機会になっている。それは本当に笑えない。次があるかどうか、だれもその確証を持てないのだから。もちろん若い頃であってもそれは言えるけれど、深刻さが違う(と書いて、笑う)。 音楽人ばかりの会合ゆえ、まずはOzzy Osbourne(76歳)の今月22日の逝去について、そしてMick師がその『一番』という楽曲のディレクションをしたハルク・ホーガン(71歳)の他界についても話題に。OzzyはMick師とほぼ同い年、ハルクは他の出席者より先輩ながら同世代だ。高齢者が集まると「病気自慢」になると言うけれど、それもありつつ、昨夕はロックやポップス関係の音楽人の訃報についてもひとしきりの話題となった。 The Rolling StonesならBrian Jonesの(1969年、27歳)、The BeatlesならJohn Lennon(1980年、40歳)の訃報に触れた時とは訳がちがう。 とは云え(このフレーズ多いな!)「転石会」がそれゆえ暗い雰囲気にはならなかったのは冒頭の記述の通り。「Paranoid」的な言動は一切なかったよ、Ozzy。まあ、みんな悟りから程遠い<オジー>さんばっかりだった。笑 * さて今朝は起きたら5:30 a.m.でポタリング出発はもう時間切れ。久しぶりだあ、朝の運動をしないのは。炎熱地獄はもう始まってしまっています。 * この会合を経て夢見たこと。 治雄ちゃん、安ちゃん(関根くん)、スティックとガッチャン(2人は仕事で欠席だったが)とでセッションをしたいな、と。1曲は私の新曲、もう1曲はみんなで作る。 どうなるだろう。

今日「転石会」 〜Kのことの続き

殺人的な猛暑。私がエアコンなしで眠れなくなってとうに1ヶ月以上経っているはず。暑さ寒さについては人によって感度が違うとは云え、客観的な気温はだれにとっても寝苦しい夜であることを示している。電気代を気にしてエアコンをつけぬまま熱中症で亡くなってしまう事例が後をたたない現今のことだ。自分は恵まれていることを意識する。 しかし、早朝のポタリングでたとえ風を切って走っていても、汗をおびただしくかいて、泣きそうになって帰ってくるというパターンは今のところない。今年7月の早朝未明は、東京世田谷区に限ってのことかもしれないが、去年まで数年の猛烈な熱帯夜の連続には至っていないのかもしれない。いや、感じる方、つまり寒暑を知覚する私が、加齢によりそれを鈍らせてしまっているのかもしれない。 * 昨日誕生日を迎えたKくん=栗田栄光さんとのことの続きだけれど、高校を出てからの人生の軌跡については互いにそう詳らかに、あるいは赤裸々に語るのは憚られる。いや、勝手に「互いに」と書いたが、Kくんは「別にいいよ」と言うかもしれない。しかしまあ、たとえそうでも、互いの高校卒業後の人生を語ったところで「それがどうした」ではあるのだ。 「エイミ(関根安里くんによる栗田くんの呼び方)」は持ち前のレタリング技術を活かして入ったデザイン会社勤務を経て30歳代早々(?)独立した。彼は今でも自分は「デザイナー」だと思っているし、その技術を活かせるときはそうしている。「ケーちゃん(岡野治雄くんによる栗田氏への呼称)」はその後注文を受けすぎてパンクし、会社を潰してしまう。安請け合いをしたということになるが、それは偏に彼の八方美人的性格によると私は踏んでいる。 しかしだ、八方美人的性格とは通常究極的には八方各々に不誠実でありうることも示唆するものだろう。けれど「ケーさん(下山真吾氏による呼称)」は<そうならぬことを信じている全方位外交官>なのだ。そう、だれにでも分け隔てなく付き合おうとする人なのだ。 たまに彼は警備の仕事でプロ意識が足らぬ同僚や、「人の下に人を<造る>」傲慢な通行者などにかなりの程度憤ることがあるけれど、そういう人たちであっても、その前段で1対1の出会いをしていたなら、きっといつものように人懐こく接し、仲良くやっていきましょうという態度を示すに決まっているのだ。 そして親しくし始めてからその人から何かを頼ま...

EMIくんお誕生日

今日はKくん、栗田栄光(えいみつ、重箱読み)くんのお誕生日です。 旧ブログが消失したので、彼とのことをあらためて書いておきましょう。 彼は私と同じ西會津町の出身です。私は野沢・原町という越後街道(新潟・新発田と會津若松を結ぶ、今の国道49号線)沿いの宿場町だった地区の生まれ、彼は尾野本という地区の森野と呼ばれる街区で生まれ育ちました。我が町から喜多方へ行く県道沿いです。 喜多方は會津盆地の北西に在って、国道49号線のルートからは外れています。きっと喜多方の人たちはそれが不満で、それなら鉄道・磐越西線(郡山と新潟市新津を結ぶ)のルートには絶対に入れろということになったのでしょう、よって會津若松から新潟までの最短距離主義からしては無用に(!失礼)喜多方を通ります。そしてそのことにより、今度は越後街道沿いの主要な宿場だった會津坂下(ばんげ)が磐越西線のルートから外れてしまいます。痛み分けですね。ただし會津坂下が越後街道の宿場となったのは1611年の會津地震による土砂災害で阿賀野川が堰き止められ湖ができてしまった後で、それまで越後街道は今の喜多方市の南西端を通っていました。その地震による新湖誕生でそこを迂回することで會津坂下は新たな宿駅となったのです。 それでも會津坂下は只見線の沿線となり、只見線はその絶景で鉄道ファンたちの人気を集めているようです。 栗田くんのお母様(おととし100歳で永眠)のお父上は東北電力に勤めており、阿賀野川や只見川での水力発電に関わっておられたそう。その関係で母上は會津坂下町の片門というところでお生まれになったのだったか・・・(うろ覚え)。 彼は尾野本小学校に通い、私は野沢小、いずれも廃校になっています。私の母校は明治19年の学校令発布と共にできた伝統これ以上ない小学校でしたが、いやはや、惜しいことでした。 彼は尾野本小の児童会会長、私は野沢小児童会副会長でした。その2つの小学校卒業生は西會津中学で合流、彼と初めて会うことなりました。彼はバレーボール部に入り、セッターとして活躍、3年時にはキャプテンで県大会にまで進出、しかも生徒会会長にもなります。一方洋楽ファンでrockに目覚めたどころか幼稚園以来の筋金入りで、頑迷固陋な校則に反発する問題児で、正反対の歩みとなります。 それでもKくんとは仲良くて、高校は一緒、ますます親しくなっていきます。その高校...

「meritocracy」のフェンスを超えたShohei

昨日の大谷さんのホームランはほとんど神業だった。161キロのスプリット・フィンガード・ファーストボール(日本ではいわゆるフォークボールと言われる球種)を左方向へ流し打ちしたのだ。161キロのスプリットなんて聞いたこともない。魔球である。その投手、一度もそれを本塁打されたことがなかったという。そりゃそうだ。 ところで、サンデル教授の本を愛読しているというShoheiの「二刀流」成功をそのサンデルさん自身がすでに一昨年論評している。大谷選手は能力主義社会の問題点を超越し、謙虚さと共同体の重要性を体現する存在として称賛しているのだ。 「能力主義社会=meritocracy」は私と同い年の<そう古くない(笑)>造語で、英国労働党のブレーンだったマイケル・ヤング(1915-2002)が生み出した。それは貴族制や家柄による特権を打破し、能力と努力で地位が決まる社会を意味するのだ。階級社会のイギリスにおいて労働党のブレーンなら肯定的に見るはずだ。ところがヤングはそういう社会の到来に対し警戒するよう促した。それは従来の身分固定より決して優れている社会ではない、と。能力による階層化が新たな不平等や傲慢さ、分断を生むとしたのだ。 そのmeritocracyが徹底して実現していった先はアメリカだろう。なにしろ元々はっきりした階級がない国だった。だから海を渡って彼の地へ移り住んだ人々は、努力と能力があれば富を築き、コミュニティーにおける名士になっていった。そのアメリカン・ドリームをつかめぬ者は、能力が低い、あるいはない、そして努力が足らないとされてしまった。その2要素だけが成功をもたらしたわけではないのに、だ。 では他の要素は何か。サンデル教授は著書『実力も運のうち〜 能力主義は正義か?』で、巡り合わせ=運の存在を指摘した。例えば大谷さんの成功は、彼の能力と努力にほとんど負うかもしれないが、彼を育んだ岩手県奥州市という地域社会が在ったこと、また、世界レベルに先に到達した先輩菊池雄星らが築いてくれた花巻東高校野球部が身近にあり、そこでさらに自分を磨けたこと、またさらには日本ハムファイターズで二刀流を認めてもらい、その方針で応援体制を築いてもらったことなど、自分以外の人々、そして環境のおかげで能力が伸び、努力を円滑に成すことできたのは大きく言って「運」と言って良かろう。 サンデル先生は、だから...