「meritocracy」のフェンスを超えたShohei
昨日の大谷さんのホームランはほとんど神業だった。161キロのスプリット・フィンガード・ファーストボール(日本ではいわゆるフォークボールと言われる球種)を左方向へ流し打ちしたのだ。161キロのスプリットなんて聞いたこともない。魔球である。その投手、一度もそれを本塁打されたことがなかったという。そりゃそうだ。
ところで、サンデル教授の本を愛読しているというShoheiの「二刀流」成功をそのサンデルさん自身がすでに一昨年論評している。大谷選手は能力主義社会の問題点を超越し、謙虚さと共同体の重要性を体現する存在として称賛しているのだ。
「能力主義社会=meritocracy」は私と同い年の<そう古くない(笑)>造語で、英国労働党のブレーンだったマイケル・ヤング(1915-2002)が生み出した。それは貴族制や家柄による特権を打破し、能力と努力で地位が決まる社会を意味するのだ。階級社会のイギリスにおいて労働党のブレーンなら肯定的に見るはずだ。ところがヤングはそういう社会の到来に対し警戒するよう促した。それは従来の身分固定より決して優れている社会ではない、と。能力による階層化が新たな不平等や傲慢さ、分断を生むとしたのだ。
そのmeritocracyが徹底して実現していった先はアメリカだろう。なにしろ元々はっきりした階級がない国だった。だから海を渡って彼の地へ移り住んだ人々は、努力と能力があれば富を築き、コミュニティーにおける名士になっていった。そのアメリカン・ドリームをつかめぬ者は、能力が低い、あるいはない、そして努力が足らないとされてしまった。その2要素だけが成功をもたらしたわけではないのに、だ。
では他の要素は何か。サンデル教授は著書『実力も運のうち〜 能力主義は正義か?』で、巡り合わせ=運の存在を指摘した。例えば大谷さんの成功は、彼の能力と努力にほとんど負うかもしれないが、彼を育んだ岩手県奥州市という地域社会が在ったこと、また、世界レベルに先に到達した先輩菊池雄星らが築いてくれた花巻東高校野球部が身近にあり、そこでさらに自分を磨けたこと、またさらには日本ハムファイターズで二刀流を認めてもらい、その方針で応援体制を築いてもらったことなど、自分以外の人々、そして環境のおかげで能力が伸び、努力を円滑に成すことできたのは大きく言って「運」と言って良かろう。
サンデル先生は、だから、meritocracyでは見逃されてしまう、能力を持ち努力する本人・主体以外の要素を、しっかり認識し、感謝し、それゆえ謙虚でいる大谷さんはmeritocracyにはなっていない日本、というか、そういうことには未だ染まっていない東北日本の賜物なのだと言いたいのではないか。
すごいぞ大谷、すごいぞ日本人!・・・そんなことを言う者が大勢いる。
「すごいぞ大谷」は疑いない。そして、自分以外の努力を応援し、能力を伸ばす助けになる人と、そういう人たちが周りにいてくれたからこその自分の成功なのだと言える人の集団が「日本人」ならすばらしいね。
コメント
コメントを投稿