ちっぽけだけれど



昨日、花曇りのNHK技研遊歩道。

今日は花冷えでんな。

*

Mooさんの最新記事にはなんだかしんみりした。1969年に自死した立命館大学生高野悦子の遺著となった『20歳の原点』の内容をめぐるMooさんの思いだ。学生運動が国を揺るがした60年代後半から70年代初めまで、Mooさんも大学を、日本という国そのものも、より良き、より正しき姿に変えようと東北大学で努力した一人だった。しかし、氏は高野悦子のように「(権力側の)物理的な力に対し(自分の)物理的な力をもって闘っていく」とはならず、あくまで非暴力で体制変革を目指したのだった。

それでも学生運動は「鎮火」してしまった。偏に国民からの大方の支持を得られなかったからだ。安田講堂での学生と機動隊の攻防戦の様子をTVで見つつ、リベラルな我が父親すら小学生だった私に「あんなことはしないでくれよ」と言ったのをよく覚えている。

Mooさんが関わった東北大学の学生自治会がどう総括したのか私は知らないが、なにしろ全体として学生運動が失敗に帰して、その過激な運動の流れとは一線を画した「代々木系」に属した氏ではあったけれど、当然失意し、落胆したはずだ。その悄然とする日々、Mooさんを理解し、支えてくれたお母様のことが末尾に書かれていてしんみりしたのだ。


しかし、過激な方に走った高野悦子の、

「ああ、人は何故こんなにしてまで生きているのだろうか。そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠巻きにして楽しさを装って生きている。ちっぽけさに気づかず、弱さに気付かず、人生は楽しいものだといっている」

という言葉は重い。

人はみんな「ちっぽけ」だろう。どんなに影響力ある人物に成り上がっても、せいぜい数十年の命を生きる知的動物にすぎない。必ず死ぬ。自然には勝てない。

自分がちっぽけであることは知っていて、しかしだからこそ、人生は楽しいものだと言ってなきゃやっていけない人もいるんだよなあ。装い、なのかもしれない。けれどね、ちっぽけな自分が大きな自然と対峙して、そして包まれて、「ああ、このために生きてきたんだ」と思える瞬間、私は装っていないんだよ、高野さん。

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