なぜそう単純化できるのか
そんなこともあって、写真のように後に護岸工事が行われ、岸辺がなくなってしまっている。この仙川は世田谷区鎌田3丁目で野川に合流、その野川は同・玉川1丁目で多摩川に注ぐ。二子玉川駅のすぐそばである。なお水源地は多摩の小金井市貫井北町3丁目で、標高が68mほどという。世田谷区の平均標高は32~35m辺りというので、その落差で仙川は流れているのだ。
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菅野完氏の「切り抜き」動画をチラッと見たら、彼が神戸にてタクシーに乗り、その運転手さんとの会話で、「弱者」というものの典型を見たというような話をしていて興味深かった。
運転手氏は中国と韓国に強く当たる高市さんを「ようやっている」と大いに支持していると言ったそう。なにしろこの2国を叩いてくれれば快哉、ということらしい。そして「むずかしいことはよう分からんけど」と言いつつ、あの高市訪米も成功だったと褒めたという。 菅野氏は、「そうですかね。トランプんとこへ習近平や中国の悪口、台湾のことを話しに行ったのに、イランの話ばかりさせられて帰ってきてますやん」と応じ、運転手氏は「なにしろ俺は(高市が)中国と韓国のことをガツンと言うてくれたらええねん」とおそらく気色ばんで言うと、菅野氏は「そうね、田舎の弱い人ってそういうこと言わはりますね。」
するとなんと、その運転手氏が「ウワアアアアア!」と奇声を発して固まってしまったそうなのだ。そして途中でそのタクシーを降りた、と。
自分の嫌いな者(たち)を叩いてくれる人を応援するという図式、これが今の日本でも、アメリカでも、イギリスでも、どこでも大いに見られるのではないか。その叩く者も応援する者も「弱者」だと菅野氏は言うのだろう。
私はいつも思う。中・韓の人々をなぜ一緒くたに語るのかと。どこの国の人間だろうが、善人も悪人もいるに決まっている。民族的に一様にいけ好かない人ばかりなどということがあるはずもない。なぜ「何国人、何民族は」などとその人たち全体という無謀な主語を立てるのか。
菅野氏は、<いつもとは違って>、「偏差値の問題ではない」と言った。「弱者だから」と言ったけれど、私もむろん「偏差値」などで語る気はない。同じようなことだと言われるかもしれないけれど、不勉強だからだ、と言う。

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