You can't say it, but you can show it
東名高速、800m地点の脇に咲くダッフォディルズ。
沈丁花も蕾が綻んだ株がちらほら見られるようになっている。ダウンとかの厚手のコートを着て歩いていると暑すぎる季節がやってきた。
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歳をとると、宗教臭くなったり(いわゆる「抹香臭い」)、哲学的になったりするのはしかたがない。お迎え近くなって、我が人生とは何か、何だったかと振り返るのはごく自然なことだし。そして「我が」人生を超えて、命とは、宇宙とは、存在とはと問いだすのだ。
Wittgensteinが「論理哲学論考」で形而上的なことについては沈黙せねばならないと言ったのは有名なことだけれど、しかしだからといって彼が形而上のことをないと断言したのではない(らしい)。語ることはできなくとも、<示すことはできる>としたと。
彼は後に「哲学探究(彼の後期の思索)」で言語は道具であって、多様な言語ゲームの集合と言い出して、前期の「言語は世界を論理的に写(映)すもの」という考えを翻すけれど、それでも「論考」の考え方は多くの人に今でも影響を与えている。
そう、美や神、価値、人生の意味など、どんな哲学者も正確に語ることはできないけれども、人間はそれを<示すことができる>とするideaに私は惚れる。
藝術家こそ、それを示すことのできる人間なのだ、と。

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