七百年前の訓戒

四十にも余りぬる人の、色めきたる方、おのづから忍びてあらんは、いかゞはせん、言に打ち出でて、男・女の事、人の上をも言ひ戯るゝこそ、にげなく、見苦しけれ。

大方、聞きくゝ、見苦しき事、老人の、若き人に交りて、興あらんと物言ひゐたる。数ならぬ身にて、世の覚えある人を隔てなきさまに言ひたる。貧しき所に、酒宴好み、客人に饗応せんときらめきたる。

徒然草の第百十三段である。MNEMO流に訳してみよう。

四十を過ぎて好色に走っているような人、もしもそれがこっそりとなされているようなら、困ったものだ。声高に男女のことや他人の身の上のことなどをふざけて言いふらすのは、年甲斐もなく、見苦しい。

大体、聞き苦しく、見苦しいことというのは、老人が若い人に交わって、彼ら彼女らに「おもしろいだろう」などといろいろ話して悦に入っていることだ。大したこともない人間であるくせに、高名な人と近しいかのように話したりする。金もそう持っていないのに、酒宴を好み、人にご馳走しようなどと調子に乗っていることだ。

「四十」が老境とされた平安末期および鎌倉初期、現代人にはびっくりでしかないけれど、つい最近まで「人生五十年」とされたわけだから当然と言えば当然だ。


次に同じ徒然草第百六十八段。

年老いたる人の、一事すぐれたる才のありて、「この人の後には、誰にか問はん」など言はるゝは、老の方人にて、生けるも徒らならず。さはあれど、それも廃れたる所のなきは、一生、この事にて暮れにけりと、拙く見ゆ。「今は忘れにけり」と言ひてありなん。

大方は、知りたりとも、すゞろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。「さだかにも辨へ知らず」など言ひたるは、なほ、まことに、道の主とも覚えぬべし。まして、知らぬ事、したり顔に、おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人の言ひ聞かするを、「さもあらず」と思ひながら聞きゐたる、いとわびし。


訳すのが面倒なので、サイトに載っていたものをそのまま転じる。

一芸に秀でた老人がいて、「この人が死んだら、この事を誰に聞いたらよいものか」と、言われるまでになれば、年寄り冥利に尽き、生きてきた甲斐もある。しかし、才能を持て余し続けたとしたら、一生を芸に費やしたようで、みみっちくも感じる。隠居して「呆けてしまった」と、とぼけていればよい。

おおよそ、詳しく知る事でも、ベラベラと言い散らせば小者にしか見えず、時には間違えることもあるだろう。「詳しくは知らないのです」とか何とか謙虚に言っておけば本物らしく、その道のオーソリティにも思われるはずだ。ところが、何も知らないくせに、得意顔で出鱈目を話す人もいる。老人が言うことだけに誰も反撃できず、聞く人が、「嘘をつけ」と思いながらも耐えているのには、恐怖すら覚える。

いやはや。

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