この神も、あの神も
おととい「私は古神道のこころを信じている」と書きました。どういうことか少し敷衍したいと思います。
私は會津ばかりか新潟や一部山形の人々にも崇敬される大山祇神社をいただく町に生まれ育ちました。母方の実家は駅前で旅館を営み、主に新潟からの参拝客のご贔屓にあずかって母を含む8人もの子どもを祖父母は育てることができたのです。
大山祇神社はイザナギとイザナミの子である大山積命を祀っており、天津神系の神社です。御本社は愛媛の今治にあります。また静岡三島市に三嶋大社があり、この神社も大山祇(「積」に同じ)命を祀っており、私の故郷のはこれらの末社に当たるのですが、往時は御本社に劣らぬほどとは言わぬまでも本当に多くの参拝者を集めたものでした。今も往時の隆盛までとはいかずとも六月の例大祭ではやはり新潟の人々を中心に多数ご参拝いただいています。
さておもしろいのは、この會津の「山の神様」の宮司Iさんが父の友だちで、普段は町を通る越後街道の東端にある諏方(=諏訪)神社の宮司様としてお社の隣に住まわれていたことです。諏方神社はもちろん国津神系です(主神はタケミナカタ、国津神の大元である大国主命の子です)。
これは仏教で言えば、普段は「鎌倉新仏教」のいずれかの宗派に属する寺の住職様が、町場で衆生を救っておられる中、山岳信仰にも通じて深山にある密教の寺の住職も兼ねるようなことでしょうか。比喩が下手かもしれません。
こうしたアウフヘーベンが好ましいのです。
そして「古神道のこころ」です。
古神道には教義も開祖もありません。押し付けがましい解釈屋も許しません。山に、森に、滝に、川に、海にいて、常にそれらに神性を感じ、自分はそれらとつながっていること、あるいは一体であること、そして四季があるように、植物が枯れてもまた春には芽吹くように、私の命も循環するのだと<思えるこころ>です。
*追記 Mooさんの最新記事を今拝見。びっくり。アウフヘーベン、ジンテーゼ!Synchronicity!(笑)

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