今日私の大晦日
今日冬至。
生命繚乱の春と夏に向かってまた地球が動き出す(って止まってなかったけど)。
午前5時近くに家を出ると、北風が強く、一般の東京人なら襟を立て、あるいはマフラー(本当はスカーフと言うべき)をきつく締め直すのだろうが、こちらは少なくとも5、6代遡っても父系母系どっちもずっと東北人だから平気の平左。東京の寒さなんて高が知れている。それどころかやはり5分も歩いていればコート内の暖気を逃すほどだ。
會津で本当に寒い朝には、母は「今朝はなんだってカンじっこと」と言ったものだ。「カンじる」とは「骨身に染みるほど寒い」ということだ。そんな寒さ、上京以来およそ半世紀、一度も経験したことはない。
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今朝は成城方面へと歩いていった。途中1丁目の7-11に立ち寄ると、ニッカボッカ姿のおそらく60歳代と思われる坊主頭の親方(?)が先行して入店していった。私はコーヒーなどを購入、コーヒーマシーンへ移動すると、「親方」がトイレから出てきておにぎり1個だけヒョイと取って深夜シフト勤務の「アリ」君に手渡し、にこやかにその「回教徒」と話し出す。アリ君は見るからに善良そうな青年で、「親方」とはどうも顔馴染みのよう。ここには「日本人ファースト」も民族差別も何もない。
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Mooさんのブログが来年で22年目とのこと。その記事に私のことが書かれていて面映いことでした。そして私が「とりわけ」Mooさんの<執筆活動>継続の励ましを与えたと言うのです。これはもう面映いどころか赤面ですわ。
私も来年ということならブログ開始21年目なのですが、19年分のlogを今年早々失ってしまいましたからね。忘れていた痛みをまたこれ以上感じたくないのでもう触れません。
で、Mooさんは私同様「年相応の『生きる意味』」を考えていこうと仰る。
そうですね、私は大昔「Live Well」を座右の銘としておりました。善く生きるには善きことばを書き、言う人間でなければならない。では「善い」とはどういうことか。「愛がある」あるいは「愛に裏付けられている」ということでしょうね。では「愛」とは何か。例えば、パレスティナで苛烈な爆撃などを生き延び、ボロを着て、撮影者からロリポップをもらって目を輝かす少女の映像を見て心を振動させしむエネルギーですかね。
そのエネルギーが私の心に<難なく>作用する、そんな人間でいること。
Mooさんはもうとっくに昔っからそういう人ですよ。
さて、そうしてlive wellしてどういう意味があるか。それ以降のことは信仰とも言われるべき<信念>ですから、「心同じ」ないし「心同じならん」人でなければ解してはもらえないことなので詳しくは書きませんが、なにしろ、来世がもしあれば、今生でlive wellしたことがきっと活かされるはずだという思いです。功利主義っぽい言い草ですが、しかし、来世などなく、今生を悪く生きてしまっても死ねばチャラという考え方、態度よりは、<明らかに>正しいですよね、たとえ今生で終わりだとしても、今生での生き方として。
2025年冬至、おめでとう!

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