「健康のために生きるぞ」〜「で、生きてどうするの?」
東京はまだ紅葉・黄葉が残る。サザンカ最高!
これは成城4丁目の崖線際の緑地、去年の今頃撮った。
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風邪の初期症状が出て、昨日は少し気力も減退したのだが、ちょうど1ヶ月後に共通テストを控える高3生に、意地を見せるつもりで頑張った。
今は頭痛などもとれた。
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昨日は久しぶりに「がっちゃん」から音信。下の動画URLを添付してくれた。
https://youtu.be/Zq04p7COY4g?si=6YCEDwseRsvZnMWJ
28年前・・・彼は「つい最近のような・・・」と書いていた。
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「食べるために生き、生きるために食べる」は大抵の人の人生の様相だろう。しかし、生きること自体が目的となっているようなことなら、なんという悲惨だろうか。
こんなことを書くのは何も池田さんと大峯先生の対談を読んだからということではない。30歳位で紀野一義先生の著作に出会い、ついで中村元先生の絶筆とも言える本も読み、同時期にカール・セイガン、ミヒャエル・エンデ、シャーリー・マクレーン、そして著述をし始めた当時まだ東大の解剖学教授だった養老孟司さんの本を読んだ。全てから大きな影響を受けたけれども、中でも「唯仏与仏」的紀野先生の仏教の御本はひたすらに明るく、読むたび気分が良くなるから大好きになった。先生が狛江・多摩川のほとりにお住まいだとはその本の中で触れられていたから、「この明るさ、気分の良さは同じ多摩川の四季を愛で、同じ空気を吸っているからだ」とも思っていた。
ずっと、「俺はどう生きるか」を考えてきたのだ。
そして40歳代、中島義道さんの<「死んだらおしまい」シリーズ(私による勝手な命名)>を読み出す。中島さんは東大科学哲学の恩師大森荘蔵氏を囲む集まりで池田晶子さんを数回見かけるようになり、そこでのエピソードを、彼女が他界した2007年『人生に生きる価値はない』(新潮文庫)で記している。さすがの筆致で、その場が見えるようなのだ。
池田さんは考えるために生きた人だった。実際「JJ」のモデルもした「とびきりの美人(by中島)」の慶應ガール(!)は、<その事実だけ>で他が羨む人生を送れたに違いないが、そんなことは眼中にちっともなかった人だった。当たり前とされることの不思議を考え抜き、晩年は中島さんと違って「評論家」小林秀雄に傾倒、さらに大峯先生という文学博士号をもつ真宗僧侶と対談するのだ。それはつまり、哲学プロパーの道から外れていったということだろう。
死んでもおしまいじゃないー
「魂の不死」・・・彼女は、哲学の祖、魂は不変・不滅の永続的な実体と説くソクラテスに戻っていったか。あるいは輪廻転生・・・ソクラテスのと類似の思想のようで「無我」の仏教に惹かれていったか。

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