いや、今「私」と一緒にいる
*
池田晶子さんも、大峯先生も、そしてもちろん多くのお二人が敬愛する古代から現代までの大思想家たちも、存在することの不思議、命の不思議、死の不思議を考え抜き、他界して行ったのだなあと嘆息をつく。
そんなことをひとつも考えずにこの世を去る人も多いに違いない。いや、圧倒的多数か?それでも、人生の終盤、あるいはどん詰まった折には、さすがに少なくとも生死のことを考えないではいられないだろう。
悔いなき人生であった、などと思いながら世を去れる人はどれほどいるのだろう。生まれた以上死ぬのは当然と自若の境地で末期を迎えられる人は?
池田さんの死への恬淡とした態度には神仏は不要であった。まるで死を恐れなかった(その理由がなかった)彼女は、臨終では「いよいよ死んだらどうなるかが分かるのか」と興味津々としていたかもしれない。大峯先生はむろん阿弥陀様に救っていただけるのだと名号を唱えるだけだったろう。
未明4時半過ぎに家を出ると、オリオンがもうほとんど見えなくなっていた。「ということは、東に蠍座」と振り返る。残念ながら建物と若干の雲で<あのS字>の星座は見えなかった。
冬なのに、まだ暗いのに、もうオリオンが見えなくなる時間があるようになった。
大峯先生は、若き頃故郷奈良の吉野で星空を見て圧倒される経験をし、なのに他の人々がその星空を気にも留めないことに驚いたという。凄まじく深い時空間にポツンと「私」というものがいる不思議に絡めとられ、のち京都大学で哲学を学ぶことになる。
「私」と言っていた大峯顯の魂は今浄土に在るか。やはり「私」と言っていた池田晶子の魂はあの世でもまた哲学しているか。

コメント
コメントを投稿