2025年大晦日の午後に
今日も細々としたところの掃除。埃拭き、ですな。
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私は著述家菅野完氏が好きではない。というか、最終的に好きなれない。自分にとって許せない言動に激昂し、「死ね!」と言ってしまう彼の抑制の効かぬところがどうしてもそれこそ許せない。私もそのような呪詛のような言葉を吐くことがあるけれど、それは全くもって心の叫びでしかない。「同じやないか」と関西弁で反論されても、公でそう言うのと心の中の叫びではやはり画然として違う。公をわきまえる<理性>なくして理性を語ることはできないからだ。
それでも、彼のインテレクトと教養、鋭く問題を剔抉する能力の高さにはまず脱帽するし、何より敵対勢力から命を奪われてもおかしくない言論活動を日々しているその勇気にはただただ畏れ入るしかないのだ。
彼を好きにはなれないが、彼が落語の話をするときはほとんど大ファンになってしまう寸前まで行きそうになる。
今日の彼の「See It Now〜朝刊チェック」。奈良の生まれ育ちである彼は小学校高学年の子どもとして桂枝雀の熱狂的ファンだったそうだ。中1のある日インフルエンザで高熱が出て寝ていると、学校の司書さんが誤って貸し出した当時全く知らない古今亭志ん生のカセットを不満たらたら聴くことになり、フッ飛んだらしい。十八番「火焔太鼓」だったと。「おっかあ、おらあ行ってきたんだ。」「行ってきたから帰ってきたんじゃないか。」のくだりで志ん生に首っ丈になったのだと。江戸落語への侮蔑が一挙に吹き飛び、志ん生ワールドにどっぷりとなり、それから文楽、圓生、小さん、談志、志ん朝らが織りなす東京の寄席文化にハマっていったのだと。
この話が不破哲三日本共産党元議長逝去の話から飛び火するのだ。彼は自称右翼だけれど、とてつもない理論家で筆力無二の不破さんの功績を心から敬服しながら讃えていた。そして話は志位さんや田村さんにはない不破さんの持って生まれた愛嬌、笑顔の魅力に移り、アナロジーとして落語界のことを引き合い出していったのだった。
不破さん。亡き父も不破さんを尊敬していた。父は共産党員ではなかったけれど、赤旗日曜版をずっと購読していた。父の支持理由は戦争反対、それひとつ。あの戦争で唯一反対を唱え弾圧を受けた日本共産党を支持するのは、大学生時代に陸軍に徴兵され、川崎で東京大空襲に何もできなかった高射砲部隊兵としての父の慚愧と悲しみがあったからだ。
父は4人の息子と1人の娘をもうけたが、父と戦争反対の確固たる思想を受け継いだのは姉と私だけ。他の3人の息子たちは<勇ましい>人になった。(笑)なぜだろうね。
私も父からの影響で小学生の頃から落語が好きだった。この趣味を受け継いだのも私だけであるはず。私の本格的落語開眼はまだ若き頃の小三治師の「中村仲蔵」だった。仲蔵が定九郎役の研究中に出会した蕎麦屋での浪人の描写がすばらしかったからだ。突然雨に降られ蕎麦屋に入ってきた浪人がその容姿の仔細まで見えるようだった。
おっと、大晦日の儀式(?)のことがある、もう時間だ。
この稿、2年またぎで書くか。
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