朝から言語学(そう大したもんじゃない)
昨夜3週間ぶりに義父と食事。義父が腸に不調があって1週スキップしていたのだが、回復。元気そうでよかった。すき焼き定食をおいしそうに食べ、その様子は健啖家という風情。心配は吹き飛んだ。もうすぐ88歳、米寿である。
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Mooさんが白川博士の字源解釈を批判するサイトで博士と批判者の両論を読みつつ、「鮮」の字がなぜ「少ない」という意味になるかを調べたそう。しかし今ひとつピンとこなかったと。私も読んでみたが、批判者の文中<「魚+羊」を合わせただけのきわめて舌足らず(情報不足)な図形で、何とでも解釈できる>とあって、笑ってしまった。それでも、「鮮」は<「斯・析・洒・洗」などと同様で>「切り分け、バラバラにする」というコア・イメージから「区切りがついてはっきりしている」、切り分けられて小さくなるから「数量が少なくなる」となった、とするのだが、批判者は藤堂明保先生のお弟子筋らしいのだけれど、これはたとえ「何とでも解釈できる」とは言っても牽強付会な感じが否めない。
Grokだと、「鮮」は活きがいい=鮮やかであることを表し(魚や羊の肉が)、魚なら、Mooさんの故郷富山の「きときと」のことだ。そして古代、そうした鮮度高いものにありつくことは稀であった、希少であったから、「少ない」という意味が生じたというようなことを教えてくれた。こっちの方が腑に落ちる。
昔書いたことがあるけれど、「生き生き」という言葉は「生き」を重ねることでまさに生きの良さを表している。「きときと」も「ぴちぴち」もそうだ。翻って英語で「鮮やかさ」を表す語として「vivid」があるけれど、この「vi」は「生」であり、「生き生き」や「生々しい」と同じでやはり「vi」を重ねている。日本語と全く同じ発想の語と言っていい。
この「vivid」はラテン語「vividus」からで、イタリア語もフランス語もスペイン語もその派生語を用いている。しかし同じ印欧語でもゲルマン派やケルト派の言語はそういう同音反復の語で「生き生き」を表していないようだ。おもしろいね。
英語はだからラテン語由来のvividを受け継ぎつつ、ゲルマン派の言語として「lively」という日本では<やまとことば>に相当するゲルマン民族古来からの語彙ももちろん持っている。古英語では「liflic」であり、おそらく発音は「リフリヒ」だったろう。現代オランダ語(ゲルマン派)では「levendig」で「レーフンディヒ」であり、いやはや、オランダ人が英語が上手いのは当たり前だとあらためて思う。
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