Paul, out on a limb in 1972
写真は1年前のちょうどこの時季の成城の丘。
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Paul McCartneyは政治的な歌は作らない人だった。それでも1972年北アイルランドの「血の日曜日事件」で13人のカトリック系アイルランド人が英国軍兵に射殺されたことに憤激し、『Give Ireland Back to the Irish』をリリース、BBCはじめ英国の放送局はみな放送禁止にした。
当時そのレコードを買って聴いた私は感動した。Paulもとうとう人道のため旗幟鮮明にしたか、と。その前年、Johnは『Imagine』をリリースしていたのだ。Paulも平和のために「いい子ちゃん」ではいられなくなったのだ、と。
そのインパクトは甚大だった。母方がIrish系だったPaulではあったが、England人として世界最高のバンドの一員、しかも名曲をJohnと共に数々生み出したスーパースターが、「アイルランドをアイルランド人へ返せ」と歌ったのだから。
むろん主にEnglandでは批判の声も強かった。北アイルランド紛争の複雑さを分かっていない、煽動的だ、などなど。ある面から見ればきっとそうだったろう。けれど、どんな理由があっても13人が殺されていいはずがない。激して、何かこのことについて歌わねばと思ったこと自体に問題などひとつもない。
もっとぼかして、比喩的に、politicalさをartisticさで糊塗して、などなど批判はどうとも言える。しかし30歳のIrish系イングランド人のPaul McCartneyは<そうとしか歌えなかった>。彼は天才だ。美的に反戦歌を作ることもできた。しかし、そうはいかなかった。
Give Palestine Back to the Palestinians
もしパレスティナ系イギリス人の歌手がそう歌ってなんの不都合があろう。Paulはイングランド人にやり返せ、ユニオニストを打倒しろなどとは歌っていないのだ。
83歳になったPaulはもうすでにそういうpoliticalな歌をまた歌わなくなって半世紀が経った。

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