非業の死のない世界を目指して

教育の失敗と言うしかないのではないか、核武装が安上がりだの、明治憲法の復活だの、過激なことを言う者たちが一定数勢力を持ってしまった今。

そういう跳ね上がりはもちろんそれなりの数昔からいたに違いない。しかし、アヒンサ(非暴力)や殺生戒などはほとんど絶対的に正しいことではないか。殺人や暴行を犯した者も自分が正しいことをしたと胸を張ることはあるまい。「しかたがなかった」とは言うだろうけれど。いや、私の殺人・暴行は善であったと一点の曇りなく言える者など<まず>いないはずだ。

YouTubeではおびただしい数の「アメリカ警察モノ」のビデオが出回っている。「I don't wanna shoot you, sir」と言いつつ、ナイフを捨てない、銃を捨てない抵抗者をtaser銃(電気ショックを与える)で制圧できなければ銃殺覚悟で急所を撃つ。脚や腕などを撃つことはない。2023年にはアメリカで1,164人が警官に射殺された。信じがたい数字だ。1日に3人強がアメリカのどこかで警察官の17発も連射できるグロック銃(拳銃)で致命傷を負っているのだ。日本では到底考えられない。この異常を多数派のアメリカ人たちはいつまで経っても自覚しない。そして警官は「職務上しかたがなかった」と言う。「他の方法がなかった」と。

養老孟司さんが謂う「3人称の死」は基本的に<どうでもいい>のだ。「2人称の死」で人は影響を受ける。「1人称の死」は体験しようがない。

「国のため死ね」と言う者は、そう強制される者たちが「3人称」だから言えるのだ。あの愚かな参議院議員当選者は、核武装して本当に核戦争になっても自分は生き残ると思っているのだ。実際に殺されたのは広島や長崎で亡くなった過去の「3人称」の人々であって、ますます<どうでもいい>からそう<気軽に>言えるのだ。

しかし、「3人称の死」を徹底して軽んじる者には天罰が下るだろう。突然アホなことを言うようだが、私はそう信じる。人はだれだって「3人称の死」を「2人称の死」と同じようには扱いようがない。けれども、縁もゆかりもない赤の他人であっても、特に非業の死を遂げることがないことを祈り、共にそのような非業を招来しない社会、世界をつくろうと思えない、発想し得ない、行動し得ない者はきっと<呪われる>。

その確信の根拠は?

我が故郷に眠る長岡藩士の霊、そしてやはり奥羽越列藩同盟で最後まで戦った村上藩士の霊がそう言っているからだ。

ふふふ。

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