The more languages there are, the more fun we have

いやあ、蒸し暑い。こればっかだ。

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昨日放送のABEMAトーナメント。伊藤匠叡王(22歳)リーダーのチーム伊藤「宮田一門」予選敗退。「宮田」とは三軒茶屋の将棋教室を主宰する伊藤チーム3人の師匠の名。宮田さんは秋田出身。師匠孝行な3人ながら、棋界3番手や2番手を伺う香川県出身の若手天才棋士藤本渚くん(19歳)に叡王が2連敗したことで事実上敗退が決定したと言っていい。そこで私は視聴を打ち切った。藤本さん、間違いなく正式な棋戦でも伊藤さんや永瀬さんを打ち負かし、藤井七冠に挑戦してくるのはもうまもなくと思う。

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Mooさんが井上ひさしさんの『吉里吉里人』を今再読されていて、東北弁について少し書かれている。

https://moo-new.hatenablog.com/

私の亡き父も初版かどうかは知らないが、すぐに入手、喜んで読んでいたっけ。いわゆる「ズーズー弁」と言われる東北弁だけれど、奥州(陸奥、主に東北の太平洋側)と羽州(出羽、同日本海側)は広すぎて、その各県のことばは共通点少なく、相違点いっぱいというのが本当だろう。さらに同一の県でだって地域ごとにはっきり田舎ことばは異なるのだし。

私の高校時代、喜多方やその近隣の會津盆地西部、北部の同級生らのことばには面食らったものだった。私の故郷では、新潟(大雑把に西日本言語に類別される)との県境にあったから中和作用と言うべきことが起きて、少なくとも會津街道=越後街道沿いの宿場町だった私の生まれ育った地区はアクセントもイントネーションも會津標準からかけ離れ、まさにNHK的日本語とそれらはほとんど変わらなかった。また訛りもほとんどなく、「町場」の児童生徒は苦もなく国語の教科書などを<美しく>読めた。だから、喜多方の高校で會津盆地人たちの<凄まじい>文末(句や節の末も含む)尻上がり口調、そう、U字工事の益子さんのあの話し方に大いに面食らった。そう、北関東方言と共通なのだった。(なお、福島県いわき地方も同じ)。

その高校の事務長だった方が、月いっぺん校内放送でこんなことを言った−−

「ずにょうりょーののうにゅー、まだのせいどはすちゅうおさめるよーぬ。」

「授業料の納入、まだの生徒は至急収めるように。」

これにはさすがの會津盆地西部北部(喜多方市、旧塩川町、會津坂下町、北塩原村、旧熱塩加納村)の同級生らも失笑していた。彼ら彼女らはアクセントやピッチとイントネーションに特徴を持つのであって、訛りはなかった。

その事務長、どこのご出身だったか知らないけれど、私の町の「在郷」の人々、すなわち町の中心から離れた地区の人たちにそのような話し方をする人たちがいた。私はKとLINEでやり取りするとき、わざとその「在郷」人の言い方を真似する。もし誰かに読まれたら、暗号のように思われるかもしれない。

「なんだ、にしゃ、このごろれんらぐよごさねんねの、うぅ?」

「なんだ、お前、この頃連絡をよこさないじゃないか、えぇ?」

というような具合。

富山弁の話者Mooさんが、東北大で出会った「吉里吉里人」たちのことばに面食らったのは容易に想像がつく。富山弁はもちろん西日本のことばの系列(東限)にあり、柔らかい感じのすることばだ。越中富山の薬売りさんが我が町にも来て、そのことばのほのぼのした感じに子どもながら「遠いよそからの人」という印象を受けたものだ。そして美しい紙風船をそのおじさんはくれたっけ。

その富山弁だって、呉東と呉西、そして五箇山で違う。なにしろ豊かで良い。

バベルの塔は人類の驕りの象徴で、神の怒りに触れて人類は多くの言語を持たされ、互いに意思疎通できなくなったが、しかし、その単一言語を失ったことが必ずしも悲劇ではないよな、と言語好きな私はつくづく思う。

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