新選組考 2

「武士になりたい」−− 宮川(近藤)と土方のobsessionだった。それが剣術を学ぼうという当初の動機ではなかったかもしれないが、熟達するうちに百姓のままでいたくないと強く思うようになったのは疑いない。彼ら二人の、武士の魂と言われる刀への執着的な愛も、もともと武士ではないからこそのことと言っていい。

新選組結成当初、共同局長とも言うべき水戸藩士出身の芹沢鴨らに近藤と土方は「多摩の百姓」として見くびられ、あるいは見下されるシーンが『新選組血風録』や『燃えよ剣』などで描写される。そういう証言はないらしいが、誇り高き元水戸藩士に近藤と土方が<エセ武士>扱いされたことはあるに違いない。だからこそ、<本当の武士>になりたい、既存の武士以上に武士らしくならねばと必死だったろう。「局中法度」の第一、「士道ニ背キ間敷事」は、中心制定者土方の、自分は本来武士ではないという劣等感の発露とも言えなくはない。何とか士分へと漕ぎ着きつつある自分は、だからこそ、繰り返すが、生来の武士たちよりもより純粋に士道を追求するのだという覚悟なのだろう。名刀への執着と同じ心理だ。

さて、このもともと農民出の近藤や土方の武士道追求をすべて美談とするわけにはいかない。また、幕府直轄の武蔵国多摩の豪農階級ゆえに徳川将軍への彼らが持った忠誠心のみをその行動原理にするわけにもいかない。<成り上がりたい>という出世欲を抜きに語れるはずもない、ということだ。幕府直参旗本を目指したのだ。近藤は會津藩御預・新選組が幕府によって見廻組に相当する組織として認められ、知行150石と扶持米をもらい、旗本格として出世はしたけれど、新選組隊士全員を旗本にという願いは叶わぬままとなった。一方土方は一度として武士として召し上げられたことはなく、函館五稜郭で討ち死にするまで結局正式な武士にはなれなかった。あくまで見廻組相当とされる新選組の副長ということでの戦死であった。鳥羽伏見以降、旗本にしてくれと願っても、幕府が事実上瓦解していたのだからそれを許す主体もなかったわけだ。

次は新選組二番隊組長および撃剣師範の永倉新八と同・十番隊組長原田左之助を中心に書いていきたい。

(この稿つづく)


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