新選組考 4

浪人なら仕官したいものだろう。すべての浪人がそうだとは言わないが、圧倒的に多くが立派な家中にできれば良い条件で月代凛々しく仕えたいだろう。

近藤勇は士分の家へ養子に入り農民から武士にはなったけれど、仕官したわけではない。またそのままではいつまで経っても一町道場の主にすぎない。そんな中徳川の世はいよいよ乱れ、彼は不安に思う一方で、自分の侍としての実力を発揮しさえすれば、戦後時代のようにもしかすると功績次第で大名になるのも夢ではない時が来たと思ったろう。戦国の世では成り上がりが普通にあったのだもの。まず幕府直参の旗本になれば、さらなる功績で一万石以上得て大名、あと一歩なのだ。大名になれれば、新選組の部下たちを家臣として取り立てて、手柄に報いることができると夢見たろう。領地にそうこだわらず、しかしできれば故郷多摩の天領の一部を以て立藩できたらどんなに幸せだろうなどとも夢想したとしてもおかしくはない。だから、その地位をオーソライズしてくれる先は徳川幕府なのであって、決して朝廷ではなく、いわんや薩長などの討幕勢力であるはずがないのだ。

江戸がある武蔵国の、天領多摩の農民上がりの武士として、幕府へ忠誠を誓うのには重層的な理由があったのだ。その層の最底部は、立身出世の欲望だったかもしれない。

だとすれば、山南圭助や伊藤甲子太郎という知識人で、日本をどうするかという大所高所に立てる部下たちと折り合えはしなかったろう。近藤や土方の実質の主君、會津中将松平容保も、孝明天皇への尊崇激甚であることを彼らは知っていたのだろうか。知っていたとしても、幕府を守り、延命させることで、戦国の世のように、闘争における実力主義で自分らが一国一城の主になれる未来をあくまで夢見たのか。

とすれば、「近藤さんは俗物だ」と思った隊員は必ずいたはずだ。幕府単独で国を動かすことなど到底無理だと悟った隊員たちからしたら、近藤は俗物であり、無知であり、時代錯誤の人だったかもしれない。

そういう隊員の中に永倉新八と原田左之助がいたのではないか。


(この稿つづく)

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