「新選組考」番外

昨日は娘が孫2人の愛くるしいvideosを送ってくれて祖父バカに、というのは2ヶ月に1ぺんほどの<恒例行事>なのだけれど、娘が「久々」ということで私のブログを読み、『ゴールデンカムイ』で永倉新八が主人公ということはないと誤りを指摘してくれたのだった。「どこの情報?」と訊かれたので、生成AIの記述にそのようなことが書かれていたからと返事をしたら、驚いていた。それの間違いなのか、私の勘違いなのか、もう確かめるのはやめた。😑娘がその作品の読者なら、彼女の指摘が正しいに決まっている。

なにしろ新選組については謎が多過ぎる。それこそ大正4年(1915年)まで生きた永倉新八や島田魁、谷三十郎らのメモワールはあるけれど、もちろん彼らがたとえ内部の人間でも全てを知り尽くしているはずもないのだ。

芹沢鴨は壬生浪士組の頃筆頭の局長であったらしいけれど、新選組として局長であったとは微妙に言えない。なぜなら「新選組」と改称した際にはもう彼は殺されていたからだ。

芹沢の人物像の証言、描写も実にまちまちなものだ。例えば彼が粛清されたのは、有名な粗暴ぶりもあり、さらには彼が水戸藩出身でその尊王攘夷思想が幕府にも會津藩にも相容れないもので邪魔になったからという見方があるけれど、だとしたら、そもそもなぜ同じ思想の同郷水戸藩士出身である清河八郎と京都で袂を分かったのか、そしてなぜ江戸へ彼に付き従って向かわなかったのか、というのが謎となる。

大体「芹沢鴨」という名前もほとんど冗談のように思える。通称である(本名は光治)のは知っているが、「鴨鍋にセリ」ということかと思うと笑ってしまう。その点、『ゴールデンカムイ』にも書かれているそうで驚いた。粋な人だ。そしてここで私しか唱えない説を披露すると、「かも」は「家茂」に通じる、というものだ。1863年、壬生浪士組筆頭局長だった芹沢が警護する相手は京都に滞在していたその14代将軍徳川家茂だったのだ。15代のことを「慶喜=よしのぶ」と読むが、同時に「けいき」と呼ぶが如しで、「徳川カモ」と芹沢は音読みしたのではないか。彼が「鴨」と名乗り出したのもほぼその頃だと言われているのだ。そうだとしたら、なんというユーモアのある人物だったことか。こういうところはきっと、少なくとも近藤勇にはない人物像だったのではないか。

ぎゃあ。

「新選組考」のタイトルでない記事でいろいろ書いちまった。


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