関戸(聖蹟桜ヶ丘)、日野、源氏のこと

午前4時、雨が降ってしまい、ちょいとpotteringしてお終い。残念。

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昨日は義父の娘の用事で聖蹟桜ヶ丘の方へクルマで行った。旧ブログで書いたことだけれども、もうそれは完全に失われてしまったので、娘や孫のためにそちらにまつわることを記しておこうと思う。

普通世田谷からだと甲州街道を西進して府中本宿町で鎌倉街道(都道18号府中町田線)へ左折して入り南進して行くものだろう。私は狛江時代に通い慣れた多摩水道橋から多摩川の南岸に沿う「多摩川通り」を使い、鶴川街道との交差点で混まない限りはそのまま西進し、稲城市大丸で川崎街道(都道41号稲城日野線)に出て、さらに西進して多摩市関戸(=聖蹟桜ヶ丘というのは京王線の駅の名で、そのものの住所・地名はない。関戸はその駅が在る多摩市の一部)へ至るのだ。

登戸で終点となる多摩川沿線道路(一部県道111号大田神奈川線とされるところもあるが、この道も管理自治体が複数あるらしく、正式な呼称はないの延長と言っていい「多摩川通り」はやはり管理主体が都だったり神奈川県だったり、また川崎市道でもあったりで、これまた統一的で正式な呼称のない道だ。混んでしまうと右は多摩川で抜け道なし、また左も「多摩区地獄」と言いたくなるほどの自動車通行不能な元農道のような道ばかりで川崎街道へ迂回することがほとんどできない。唯一と言っていい迂回路はJR南武線中野島駅へ通じる市道だ。これが川崎街道へ通じる。

めっちゃマニアックな道路説明!いつか娘や孫が読んだら面食らうな!

「おじいちゃんて、道路オタクだったの?」

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この多摩区中野島は英語をお教えした人たちが数多く暮らす町だ(った)。多摩丘陵が南に在って、眺めの良い、緑豊かな住宅地になっている。

1991年前後、すなわち娘が生まれた年の前後、ELIXIRからG Stringへの過渡期に自主制作の曲をレコーディングするため、日野市に在ったスタジオを頻繁に使った。日野へは上で書いたコースからさらに西進して行った。途中高幡不動などが在るその道も通称「多摩川通り」のままだ。

そのレコーディング中、とあるメイジャー・レコード会社の制作部長さんがわざわざ来てくださって、「Mob」という収録中の曲を聴いてくださり、「ぜひうちへ」と言ってくださった。しかし事務所の社長が「もっといい会社がある」と後に断ってしまわれた。その「もっといい会社」がSME(Sony Music Entertainment)傘下のレーベルだった。私は情に脆い男ゆえ、その制作部長さんの熱意に絆(ほだ)され、後ろ髪を引かれる想いだった。しかしそのSME傘下の会社のA&R(Artists and Repertoire)S氏も手を挙げてくださり、そこから私は2度目のデビューをすることになったのだ。

そんなレコーディング中のある真夜中、狛江への家路、当時始まったばかりのNHK「ラジオ深夜便」を聴いて運転するのが大好きだった。うるさくないラジオ、中高年向けの静かな語り口の番組だった。私は当時30歳代前半、すでに心は老け始めていた。

その「アンカー」のひとり、宇多川清江さんのことを過日書いた。彼女は保阪正康さんとの「昭和人物史」をこの3月で終え、引退してしまった。御歳90である。

さらに聖蹟桜ヶ丘にまつわることを書けば、『太平記』の舞台としてのことだ。私は真田広之さん主演の大河ドラマ『太平記』にドハマりした。まさに1991年のことだった。関戸の合戦は、新田義貞と鎌倉幕府軍との関戸を通る「鎌倉道」で勃発した。多摩川が幕府軍にとっての天然の要害だったが、新田軍が勝利したのだ。ちなみに義貞役は根津甚八さんだった。

私は足利尊氏になぜか非常にシンパシーを感じたのだった。歴史を創りながらも歴史に翻弄もされた尊氏。弟すらも殺害せねばならなかった彼に。

母方の家の紋は笹竜胆であった。源氏だ、ということだ。どういう源氏か、ついぞ分からなかったけれど、母もその兄弟姉もそのことを自慢にしていた。

八幡太郎義家の子または孫(Wikiでは義家の三男義国の子としている)の義康が祖である足利氏は、義家直系の頼朝一族が滅亡してからは清和源氏の棟梁筋(源氏長者)となったと言っていい(特に室町時代以降)。私は源氏に近しさを<勝手に>覚えた。俳号も「竜胆子」としたくらいだ。

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