昨日の妄言の続き
今朝は不覚、目が覚めたのが6時ちょっと前。Trafficが混み出してしまう時間に自転車乗りに出たくないので今回はキャンセルだ。湿気はあるが涼しい朝だった。残念。
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昨日の3つめの記事の延長みたいなのを書く。
中高年には時代劇が好きないしは嫌いではない人が多かろう。勧善懲悪、カタルシスのためのお定まりの筋書きだ。「遠山の金さん」や「水戸黄門」などは悪党を皆殺しにはしない。峰打で懲らしめ、遠島を申し付けたりはするけれど、生かす。親玉だけを打首獄門や切腹に追い込むのだ。
しかし中には悪党側のすべてを斬って捨ててしまうものもある。例えば悪党がそれなり身分の高い武士で、私兵と言っていい多くの侍を召し抱えているのだが、「者共、出合え!」の号令一下殿様への忠臣ぶりを今こそ発揮、ご奉公するのだと勇み、「狼藉者」を囲む。そして「正義」のヒーローは「米」の字を書くように(by 萬屋錦之介)彼らをおもしろいようにバッタバッタと斬り捨ててゆく。そしてアフターマスとして必ずその悪党に苦しめられた者に情け深い言葉をかけてしみじみ、あるいはほんわかするシーンで劇は終わる。
ちょっと待った。部下の侍にだって家族はいるだろうに、その深い情愛は彼ら彼女らに向けられないのか?主君の悪事は正されなくてはならないけれど、部下の全員に考えうる最も重い連帯責任を負わせるのはやり過ぎだ。「母上、父上はどうしてお帰りにならないのですか。」「父上はただお殿様への忠義を尽くしただけではないのですか。」そう涙ながらに訴える息子や娘がいるかもしれないではないか。
いやいや、娯楽時代劇に本気でケチをつけるという大人気ないことをしようとしているのではないのだ。
例えば現下のウクライナ=ロシア戦争で、昨日も書いた、神風ドローンで肉体を粉砕されるロシア兵にも、妻子がいるかもしれないし、(存命かどうかは知らないが)父母は確実にいるのだ。強制的にこの戦争に駆り出されたとして、その兵士に身体粉砕の刑を受けるだけのどんな重罪があるというのだろう。ウクライナ軍は、「そんなことを言っていたら戦争にならない。生かしたら、そのロシア兵は俺たちを殺しに来るのだ」と言うのだろう。「その兵士に家族がいることなどいちいち慮っているくらいなら戦争なんかやらない」と。
その理屈で、今まで人類は戦争をやり、殺し合ってきた。「こっちを殺しにきたヤツらを殺して何が悪い」ということだ。多くの時代劇も現代劇も、そして現実もその理屈そのままで展開する。
そして例えば沖縄では、80年前に殺しに来たわけでもない現地の老人、女性、子どもたちも殺された。米兵によってばかりでなく、なんと一部の「皇軍」によっても。その沖縄戦開戦のおよそ20日前には、東京で無差別爆撃が行われ10万人ほどの命が奪われていた。そして同じ年の8月、広島と長崎・・・。
殺される者たちには確実に父母がおり、また彼ら彼女ら自身も親であったりする。その当たり前をあえて無視して、害虫を駆除するかのように殺す。
「ホモ・サピエンスは互いに殺し合うようにDNAに刻まれているんですか?なんの恨みも辛みもない同じ種の<仲間>を殺せる心理的・感情的な麻痺状態をつくりだせるメカニズムがあるんですか?」
もし子どもにそう質問されたら、どう答えます?
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