3つの宗教の大元は同じだろうに
イスラエルがイランの核施設などを先制攻撃して始まった現下の戦争(もう紛争などというそれこそ紛らわしい言い方はできない)、それについて私がここで何かを書くとしたら、当然両国は愚かな報復合戦をやめよということに尽きる。そしてどちらか一方だけを擁護するような言動を他国や国際組織はしてはならない、と。
なぜなら国際関係で一方的にどちらかだけが絶対的にそして100パーセント正しいなどということはまずあり得ないからだ。そしてさらにもっとメタレベルで言えば、<正しさ>とはパースペクティヴ(perspective)で変わってしまうからだ。
ネタニヤフだってハメネイだって少なくとも子ども殺しを正しいとはしないはずだ。それでも結局不特定多数の子どもを殺してしまうことを覚悟でミサイルを発射する。<正しさ>が他の「大義」に殺されてしまうのだ。
トランプ支持者のTed Cruz上院議員は、聖書の内容からキリスト教者はイスラエルを助けなければならないとまで言っている。21世紀の今、そんな言説が政権与党内の有力議員によってなされてしまう。信じがたいことだ。ではキリスト者たちはみな聖書からそう読み取っているか?教条主義はイスラムの一派にもあるけれど、互いに7世紀以前の<因縁>をつけて今殺し合うことの愚かさをCruzはそれこそ「聖戦」とでも思っているのか。彼がおそらく忌み嫌う「ジハード」と何が違うのか。自分だけが正しいと思う愚かさを今まで学んでこなかったのか。
以下、Grok3による、私の「聖書に自分だけが正しいと思い込むことの愚かさを諌める文言はありますか。」という問いへの答えを載せる。
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聖書には、自分だけが正しいと思い込むこと(高慢や自己義認)の愚かさを諌める文言が複数あります。以下に、新約聖書と旧約聖書から代表的な箇所をいくつか挙げ、日本語訳(新共同訳聖書など)を基に簡潔に紹介します。
新約聖書
- ルカによる福音書 18:9-14(「ファリサイ人と徴税人のたとえ話」)
- 文言: 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスはこのたとえ話を話された。…『神よ、わたしは罪人です、憐れんでください』と祈った徴税人の方が、ファリサイ人より義とされて家に帰った」(ルカ 18:9, 14抜粋)。
- 解説: ファリサイ人が自分の正しさを誇り、他人を軽視したのに対し、謙虚に罪を認めた徴税人が神に受け入れられた。この物語は、自己義認の高慢さを戒め、謙遜の大切さを教える。
- コリントの信徒への手紙一 8:1-2
- 文言: 「知識は人を誇らせ、愛は人を造り上げる。自分が何か知っていると思っている人がいれば、その人は知らなければならないことをまだ知らない」(新共同訳)。
- 解説: 知識や自己の正しさへの過信が傲慢を生み、愛や謙虚さの欠如につながると警告している。
- ローマの信徒への手紙 12:3
- 文言: 「自分を過大に評価せず、むしろ神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて、慎み深く評価しなさい。」
- 解説: 自分の能力や正しさを過剰に評価することへの戒め。謙虚に自己を見つめるよう促す。
旧約聖書
- 箴言 16:18
- 文言: 「高ぶりは破滅に先立ち、傲慢な心はつまずきに先立つ。」
- 解説: 自己を高く見る傲慢さが失敗や破滅を招くと警告。謙虚さの重要性を強調。
- 箴言 26:12
- 文言: 「自分の目に賢いと映る者を見たか。愚か者に望みをかける方がまだましだ。」
- 解説: 自分の知恵や正しさに過信する者を愚か者よりも劣るとし、自己過信の危険性を指摘。
- イザヤ書 5:21
- 文言: 「自分の目を賢いと思い、自分の考えを分別あるとする者は災いである。」
- 解説: 自己の知恵や正しさに頼り、神の視点を見失うことへの警告。
聖書の全体的メッセージ
聖書は一貫して、高慢や自己義認が神との関係や人間関係を損なうと教え、謙虚さ、愛、他者への配慮を重視します。特に新約聖書では、イエスの教えを通じて「自分を低くする者が高められる」(ルカ 14:11)というテーマが繰り返されます。
補足
- これらの文言は、自己中心的な正しさへの戒めだけでなく、他者を裁かず、謙虚に神の導きを求める姿勢を促します。
- 特定の文脈や宗派(例: カトリック、プロテスタント)によって解釈が異なる場合がありますが、自己過信への警告は共通です。
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