我が故郷の諏方神社、熊野神社のことを妄想す

我が故郷の有志の方が父の遺稿を出版してくださったことは先日書いた。次に帰郷したときに入手し読むのが楽しみだ。最後の會津藩主松平容保が我が故郷の本陣で過ごした時のことを書いたものらしい。

その父がきっと関心を持っていたろうことのひとつに、會津街道(越後街道)の宿場だった我が故郷の東端の「本町」に諏方(=諏訪)神社があり、そして中央と言っていい「原町」には熊野神社が在ることでその2社を建てたそれぞれの人たちにどういうバックグランドの差異があるのかということがある。

今縄文人のゲノムがどれほど現代日本列島人に残っているかの調査研究が盛んに行われていて、YouTube上で「日経サイエンス」が興味深いビデオを公開している。そのDNA残存率でダントツなのが沖縄。0.0255パーセントだそうで、「なーんだ」と言われそうだが、他の都道府県の最高値は0.0195、最低値は0.0158なので、群を抜く高さなのだ。沖縄は別格として、縄文人の血が比較的濃いのは、北海道は除いて(資料上除かれている)、東北は山形県を除く5県、そして関東では茨城と群馬が最高ランクに入る。関西圏は軒並みほぼ最低グループに入り、西日本は押しなべて高くないのだが、注目すべきは島根(=出雲)と鹿児島が最高ランクに位置することだ。

私は諏訪大社のことを旧ブログで相当書いた。神話伝説の通り、弥生人タケミナカタが供を連れて出雲から諏訪へ逃れて来たとして、そこで諏訪湖周辺に暮らす縄文人の末裔たちと遭遇、戦いもしたであろう。そしていつか融和していく。長野県の縄文人度は中部地方で最も高い。

学術的に信憑性のあることなど私が書けるはずはないが、私の故郷の「本町」は「元町」であって、ここに土着の人々が暮らしていたのではないかと私には思われるのだ。その人々は、諏訪大社の特に上社の「ミシャグジ(=諏訪の土着神)」とタケミナカタとの融和ぶりに惹かれて諏方神社を建てたのではないか、と。そして我が故郷の盆地の中央に位置する「原町」は新興の町で(16世紀に開拓されたらしい)、その中に伊藤伊勢という開拓六人衆のひとりがいて、名前からして伊勢よりの移住者であり、その人がもし有力者なら、伊勢ゆえまず神明社系(伊勢神宮系)の社を建てそうだが、同じ伊勢でも紀州・和歌山に近い方で、熊野信仰者だったのではないか、と。

我が故郷でも、諏訪の例からすれば相当に後年のこととはなってしまうが、縄文人系と弥生人系、あるいは古墳時代人系の出会い、相剋、融和があったのだろう、と。

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