When in the UK, speak English as the British do


昨日仕事を終えてから見たTwitterで、イギリス首相のスターマー氏(労働党首)が、「イギリスに移民したいなら英語が話せるべきだ」とし、保守党のこれまでの移民政策を批判し、移民できる人間の要件を強めるなどの「国境政策」の転換を宣言しており、少なからず驚いた。

昨日ITV制作の刑事ドラマ「Vera」のことを書いたが、舞台になったイングランド北東部ノーサンバーランド州の「田舎」ですらethnicity豊かな登場人物で描かれる。現実の反映なのだ。しかしその移民や移民の子孫たちは英語に不自由することはなかった。スターマー首相の出す最低条件は軽々クリアしていた。言語上すでに<同化>した人々だった。

同じITV制作の「バーナビー警部」はまるで逆で、イングランド南部の設定、しかも架空の郡が舞台だった。ほぼ白人のみの登場人物で、「古き良きイングランド」を強調するものだった。プロデューサーだったTrue-Mayは「バーナビー警部」を「the last bastion of Englishness and I want to keep it that way」すなわち「英国らしさの最後の砦であり、私はそのように維持したい」と言い、物議を醸したのだった。John Nettles主演のシリーズが2011年に終わり、「Vera」が引き継ぐようにその年に始まり、2023年終了したわけだ。

高校生が使う英語の教科書にはdiversityの尊重を主題にする文が必ず載っていると言っていい。さまざまな人々がいて社会が豊かになり、ダイナミズムが生まれるというような趣旨だ。ところがどうだ、その典型例とされたアメリカが今トランプ政権により「DEIすなわちDiversity, Equity, Inclusion(多様性、公平性、包摂性)」を放棄しつつある。

「行き過ぎた移民政策」と言うが、その「行き過ぎた」とはどの基準で言うのか。現状どの国においても野放図に移民を受け入れていいはずはない。だからその「野放図」とはどういう受け入れ方以上で使われることばなのか。

どの国にも多数派がいて、その人々がつくり上げてきた伝統、文化がある。少数派にそれを受け入れろと強制することはあってはならない。しかし逆に少数派が少しの同化も受け入れず、独自の小社会を築いて閉じこもられても多数派にとっては<気分が悪い>。「郷に入れば郷に従え=When in Rome, do as the Romans do」という早くも5世紀に使われ出した諺は今も世界中で有効だろう。

その多様性のことを扱う英文を読む先週金曜の高2の授業で、私は、アメリカのどこかのレストランで、英語で会話していない二人連れが近くに座っていた白人女性に「アメリカにいるなら英語を話せ!」と難癖をつけられるビデオを見たことがある、と言った。「君たちは、自分の町に目立って移民が増え、その人たちが日本語を熱心に学ばず、自分らの母国語でばかり話しているのを目にして、その白人女性のように、『日本にいるなら日本語を話せ!』と少なくとも内心で思うことはないと言い切れますか」と訊いたのだった。生徒さんらはそう思いかねないと言った。

そうしたら、昨夜のスターマーUK首相の発言である。

彼はこうまで言っている。

"We risk becoming an island of strangers, not a nation that walks forward together."
(我々は(我が国が)よそ者たち同士の島になってしまう危険を冒すのです、共に前へと歩む国になるのではなくて。)


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