あ〜に朝からほざいてんだ、爺さん 〜「道徳的完成」
YouTubeで(この句、多いな)上野千鶴子東大名誉教授による老いについて、そして死についての話を聴いた。興味深いものであったが、ここではその話の総体についての詳細な感想を書かない。
私が最も興味を惹かれたのは、彼女が、終末期における死にゆく人への宗教的な寄り添いについて完膚なきほどの拒絶のことばを吐いたことだった。<来世なんてあってたまるか、私はまっぴらご免だ>などというような、「聴衆の中に宗教関係者の方もいらっしゃるだろうけれど」と言いつつの、その方々へは暴言でしかないことばだった。
社会学者として、(社会)科学者として、唯物論的に老いや死を語ることにもちろん私は異議を唱えない。それはそれ、そういう立場だし、いのち及びその終わりということへの1方向からの眼差しだ。しかし唯物主義者、無神論者ばかりでこの世は成り立っていない。むしろそういう人々の方が少数派だろう。もちろん少数派だから何かが間違っているとかと言いたいのではない。ただ、神仏を信じ、来世を信じる人々を突き放して科学的だ、客観的だ、実証的だと主張して果たしてそれでいいのかとは思うのだ。彼女の説が一定のところまできてそれ以上は広がらないのだ。
<神仏、来世のことを持ち出したらもう科学じゃなくなるのよ>と言われてしまいそうだ。そうかもしれないが、例えば、科学は神のまさに神秘を解き明かす人間の営為とかと言いそうな科学者がいそうだと思って調べると、ゲノム学者のフランシス・コリンズはずばり「進化は神の創造の方法であり、科学は神の業を理解する道具」と言っており、なんと1950年生まれ、現代人なのだ。
老いはエントロピーの増大であって、死はその極限、意識(こころ)も脳のはたらき、すなわち電気化学的な作用・・・そう言うのは間違っていないのだろうが、私が決定的に違和感を抱くのは、存在の不思議にそれらはひとつも答えていないからなのだ。WhatやHowには答えているだろうが、Whyが決定的に語られておらず、しかし上野さんのような科学者はそれを語ったら宗教になってしまうと言うのだろう。彼女の科学ではWhyなど考えない、ということなのだ。
カントは、神は信仰であって理論・理性の領域を超えているものとした。その通りだと思う。神は科学的にも形而上学的にも確実な知識としては扱えないとした。その通りだと思う。しかし彼は神という概念を道徳的実践を支える「実践的信仰」として重要だとしたことにこそ私はある種希望のようなものを見出すのだ。
人生の善行も悪行も、神仏を信仰すること、すなわち人智を超えた存在や領域が<さらに>あると信じることで、因果律の支配を受け続けると考えるのだ。それゆえ人間は悪行を抑制しようと<思える>のだ。上野さんのように「死んだらおしまい」、「来世なんぞまっぴら」と言える人はある意味強いし、尊敬に値するところもあるけれど、そうは言えない人々の老いと死に寄り添えることはないだろう。それでいいのなら私が口出しすることではない。それでも、哲学史上の大天才のカントが、道徳的完成のために魂の不死と神の存在を説いたことは私には大変心強いのだ。この世で、今生で蒔いた種が、蒔いた者の死によって同時に死滅するとは私には考え難いのだ。ちょうど己の子孫が自分の行動の「果」で、自分の死後も存在してゆくように、生殖のみならず、「因」は今生の死の後も「果」となってゆく。それを信じなかったら、人生やりたい放題、道徳的完成など全くあり得ないのだ。
さて、「道徳的完成」が人生、存在のWhyなのか。
おそらくそうだろうと私は思っている。カントはスピノザの汎神論を退けたが、私は道徳的完成とは「I'm part of everything」と<言えるとき>ではなく、そう<なったとき>のことだと思うのだ。
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