2025 皐月上旬締め日記 〜Pope Leo XVI & さっきの早朝のこと
Pope Leo XVIが誕生した。初のアメリカ生まれの法皇だ。ネットでお顔を拝見したが、慈愛に溢れるようだった。カトリックはすごい。時代と共にさすがは世界一の信者数を抱える(だよな?もしかしてヒンドゥー教?統計が当てにならんから)にふさわしい宗教となったと最近とみに思う。先の(第266代)Francis法皇がすばらしかったから、というのが大きい。平和と愛を一貫して訴え、他宗教とも融和姿勢を崩さなかった。
私はいわゆる「生臭坊主」であっても、一概に清貧な聖職者に劣るとは思わない。娑婆を生き、実際にそのありさまを知る在家の宗教家がいて当然だと思うのだ。それでも、貞操を貫き、その信仰の強さを示す人にまさに聖性を感じる。大学のイエズス会宣教師の教授で、アメリカ出身のW先生はそれなり<遊んで>から修道士となった。ユーモアを解する大好きな先生だった。一方、同じイエズス会士でアメリカ出身のE先生やイタリア出身のP学長のまさに修道士的頑なさも好きだった。
「聖性」とは感じるのがむずかしく、稀なものだ。自然の中でそれを感じることは珍しくはなかろうが、しかし人間(じんかん)においては、たいていそれらしい装置、舞台、形式、雰囲気が必要となるものだ。それらがなくても、一人の人間(にんげん)が聖性を感じさせるとしたら、それはもう、大変な人徳である。超人的な人徳である。それを感じさせるような人が今カトリックの世界では次々出ていると思うのだ。
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数日前向こう隣のNさんから蕗(ふき)をいただいた。軒下に生やしているのだ、「手入れなど一切していない」とおっしゃる。この蕗、料理するのに手間がかかる。昨日勇気を奮って(!)生花状態にしてあったものを、養老先生の講演とかをYouTubeで聴きながら、茹で、皮剥きをし、下ごしらえした。大した量でもないのに、皮剥きに30分はかかった。そしてあご出汁で煮て、今も食べている。シャキシャキとして我ながらうまく煮ることができた。
私と同じ雨を受け、陽光を浴び、すぐそばで育った蕗だ。初夏の味として、歯触りとして、ありがたく、親しみを持っていただいた。
今朝Nさんと顔を合わせたとき、お礼を言った。私はそして塀下の掃きそうじをした。この掃除、ほぼ毎日だ。晩冬では鳥たちが食い散らかして落ちたピラカンサの実、初春から晩春にかけては乙女椿の花びら、そして今は柚子の花びら、そして越冬した(?)葉も大量に落ちている。さらにピラカンサの小さな花びらも。
そうしていると、多くの勤め人や学生が脇を通って行く。いつもは制服姿の女子中学生や女子高校生が私服で駅へと向かっているのに気づいた。そうか、遠足かなんかだろうと合点した。曇天だが、自然を満喫してほしいと願う。初夏と秋は遠足に最良の季節だ。いいなあ、一緒に行きたい。(笑)
追記 一応NY TIMESなどによるPope Leo XVIについての記述を載せておく。
- He opposes the "promotion of gender ideology" because it "is confusing, because it seeks to create genders that don't exist." (Source: Advocate)- He previously called out Western news media for fostering "sympathy for beliefs and practices that are at odds with the gospel."
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