Amiableなエイミ、八方美人と言うより八面玲瓏か
昨夜K(栗田栄光くん)のところへクルマで行った。比較的近所の和菓子屋(銀座に本店)で買った詰め合わせに「栗みつ」という名の菓子があって、それがおととし100歳で亡くなられた彼の母上の旧姓名に一文字足すだけのものであったので、お菓子味、いや、<おかしみ>を感じて、たった1個の小さな和菓子であったが、彼に食してもらいたいと言ってから2回も会っていたのに手渡し忘れていたのだ。昨日はその賞味期限の日で、どうしても贈呈したく、クルマで出た次第だ。
夕食を一緒にということで、新宿区落合の方へ行ったが、2つのファミレスいずれも駐車場がないようで、さらに条件の悪い都心方向へ走らすことになったのだが、新宿区戸山でサイゼリヤを発見、駐車場はなかったが、Timesがあったのでそこへ駐車、早稲田大学生御用達のようなイタリアン・カジュアル・レストランへ入った。
非常に広い店舗だった。それゆえ楽々座ることができ、注文をスマートフォンを通じてしていると、隣のテーブルにやってきた男子早大生(間違いない)の一人が、椅子に座ろうとするなりどういうわけか私の方へとかなり派手に倒れ込んだ。「うわっ!」声が上がった。
その学生は私にもう少しで<もらい事故>に遭わせる粗相をしたのに、一言も謝らない。その慌て者に対面するいかにも好青年の学生が代わりに「すみません」と言った。Kはそのタイミングで軽口を叩いた。何と言ったか覚えていないが、早稲田の学生たちは「ハハ」と笑った。Kがその軽口の最後か最初かに「大丈夫?」と言ったのは覚えていて、座り直した学生はバツの悪そうな表情をしていた。
私はその間終始、「何やってんの?そんで謝罪なしかい?」という表情で学生を数度チラ見した。好青年の謝罪に免じ、表情を言葉に変えることはしなかった。Kのユーモアあるリアクションと好青年のおかげで殺伐とした雰囲気になることが免れたと言っていい。
「和顔愛語」ー
私が旧ブログで何度か書いてきた仏の教え。だから私も何かニコニコと座を和ますことばを吐こうかと数度思った。「君、大丈夫かい?アドレナリン今出ているから痛くないかも、だけど」などと言おうかと。しかしの当人の「君」は、なぜか全く悪びれる様子すら見せない。「和顔愛語」は引っ込んでしまった。
Kがもし私の席に座っていたとしてもああいう態度がとれたのか、と思った。きっととれたろうな、とまた思った。そういう人間なのだ、Kは。昔っからそうだ。そういう点、私は彼のamiable(=人好きのする)なところに遠く及ばない。「エイミアブル」。Kはずっと友人らから「エイミ」と呼ばれてきた。
その「エイミ」君が、現場の作業員ボスの傍若無人なふるまいに怒って、2日めの勤務を断ったというのが今日の彼のVlog内容だ。プロ意識に欠ける人間に心から悲憤慷慨するのもまた彼だ。早稲田の粗相学生はわざと転んだわけではない。だから彼は気遣う。当たり前と言えば当たり前だ。私がムッとしたのは「(驚かせて)すみません」の一言がなかったからだ。
「エイミ」はそして、許せない言動の主である現場作業員のリーダーにその場で窘めることはしなかった。「あの方とは二度と同じ場にいたくない」と警備会社の人員配置の人にそう言って、間接的に抗議をしたわけだ。そこも彼らしい。
食事を終え、クルマを少し走らすとすぐに、右手に早稲田馬場下の漱石生家跡が見えた。「エイミ」にそう言うと、「へえ〜〜」と驚いていた。そう言えば、と私は思っていた。漱石の小説の、特に中後期のものは、「エイミ」には縁のない話だなあ、と。漱石先生からユーモアが消えているものばかりだからだ。
目的が「栗みつ」を届けるだけのほんのわずかな時間だったが、なかなかおもしろく、考えさせられるひとときだった。
上で書いたように彼は現場に行くのを拒否したので、お休みになった先週火曜、彼はVlogの編集だ、と言っていた。休みとはつまり彼にとっては日銭が入らぬことを意味する。そんなことも今日のVlogで嘆いていた。そんな厳しい老後なのに、それでも、彼はいつも明るい。
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