2025 晩春雑記 〜永遠にfeelable
It doesn't matter who they is.
これは現職のEnglish-speaking超大国リーダーにより日本時間で昨日吐かれた文だ。本当に嫌になってしまう。記者に「Who's "they"?」と訊かれたとはいえ、あり得ない。その「they」は中国と毎日交渉しているのだそうだ。中国は全否定している。
*
昨日おとといと朝ぼらけに多摩川沿いを自転車で走ったが、ものすごい数のユスリカやそれに類する相翅目(だろう)の昆虫が飛び交っていて、それらが顔に当たって痛いというような箇所もところどころにあった。コウモリさんの姿は見えず、彼らにも手に負えないほどの膨大な数であったか。それに捕食の甲斐のない小ささだったものなあ。昼にツバメさんたちがたらふく食べてくれればと願うが、ツバメさんらにも小さすぎるよなあ。
*
春が短くすぐ夏になり、しかも猛暑、酷暑が続き、秋がやっと来たかと思うとたちまち過ぎ去る・・・今年も去年のようにそうなりそうだと気象予報士が言っていた。
向かいのお隣りのNさんが今朝、私が塀下の葉っぱなどを掃いていたら「根本さん、これ」ともぎたてのサヤエンドウを30莢ほど下さった。「おお、ありがとうございます!今年もまたこれを味噌汁の具にしていただく季節ですか」と私は言ったが、1年経つのが早過ぎるという50歳代頃からのデフォルトの感想と共に、これから初夏を通り越して盛夏のような日々が来るのかと思い、憂鬱になった。
*
東北大の哲学科教授が、「もののけ姫はニーチェの『神は死んだ』のパクリだ」と笑って言うYouTube動画を見た。そして浄土真宗・親鸞会の菊谷さんの最新動画で、彼は日本で仏教寺院の数がどんどん減って、仏教の影響力が衰えているのは、さまざま瑣末な原因はあるにせよ、なにしろ僧侶たちが仏の教えをちゃんと流布する努力をしていないからだと言っておられた。
Seeing is believing.
これに尽きてしまう現代人が多過ぎるのだ。たとえば私やKが霊を見たと言っても笑い話の類にされてしまうだろう。そしてそんなことを本気で言っているのなら、かなり多くの人にとって、MNEMOというのは、Kというのは、<ヤバい>ヤツだと思われかねない。私もKも、高3の時のその経験を再現などできはしない。
前述の東北大教授は、望遠鏡の発明が大きかった、というようなことを言われていた。それからの「コペルニクス的大転換」は実証主義をもたらしていく。私の大学生時代、英文学の授業であってもForbes教授(神父でもあった)は頻繁に「Prove it」と言われた。自分の説を裏付けろと。だったらForbes先生もこの時代に相応しい神の存在証明をなさってください・・・とは言わなかったが。
What is essential is invisible to the eye.
サン=テグジュペリの英語訳の言葉に出会った高校生時代、なんだかとても惹かれた。実証などできない、可視化などできないことがこの世を支えている、人間を支えている。それは後に素粒子論などを齧るようになって(本当にほんのちょっと齧っただけ)実証主義の権化である科学だって<絶対に>見えない<もの>を扱っている、扱わざるを得なくなっていることを知ったのだ。
*原子レベルだったら私が高校生の時であっても見えていた。タングステンの原子の写真を見たことがある。
「量子もつれ」などはもう、ちょっと前までの科学だったら荒唐無稽と一笑に付した主題だろう。ほとんど禅問答のような話だ。
神仏は死んでいない・・・私はそう思う。
その「神仏」が「What is essential」そのものだとして。
そして<visible>になることは決してないだろう。
それは永遠に<feelable>なことだろう。
これは現職のEnglish-speaking超大国リーダーにより日本時間で昨日吐かれた文だ。本当に嫌になってしまう。記者に「Who's "they"?」と訊かれたとはいえ、あり得ない。その「they」は中国と毎日交渉しているのだそうだ。中国は全否定している。
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昨日おとといと朝ぼらけに多摩川沿いを自転車で走ったが、ものすごい数のユスリカやそれに類する相翅目(だろう)の昆虫が飛び交っていて、それらが顔に当たって痛いというような箇所もところどころにあった。コウモリさんの姿は見えず、彼らにも手に負えないほどの膨大な数であったか。それに捕食の甲斐のない小ささだったものなあ。昼にツバメさんたちがたらふく食べてくれればと願うが、ツバメさんらにも小さすぎるよなあ。
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春が短くすぐ夏になり、しかも猛暑、酷暑が続き、秋がやっと来たかと思うとたちまち過ぎ去る・・・今年も去年のようにそうなりそうだと気象予報士が言っていた。
向かいのお隣りのNさんが今朝、私が塀下の葉っぱなどを掃いていたら「根本さん、これ」ともぎたてのサヤエンドウを30莢ほど下さった。「おお、ありがとうございます!今年もまたこれを味噌汁の具にしていただく季節ですか」と私は言ったが、1年経つのが早過ぎるという50歳代頃からのデフォルトの感想と共に、これから初夏を通り越して盛夏のような日々が来るのかと思い、憂鬱になった。
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東北大の哲学科教授が、「もののけ姫はニーチェの『神は死んだ』のパクリだ」と笑って言うYouTube動画を見た。そして浄土真宗・親鸞会の菊谷さんの最新動画で、彼は日本で仏教寺院の数がどんどん減って、仏教の影響力が衰えているのは、さまざま瑣末な原因はあるにせよ、なにしろ僧侶たちが仏の教えをちゃんと流布する努力をしていないからだと言っておられた。
Seeing is believing.
これに尽きてしまう現代人が多過ぎるのだ。たとえば私やKが霊を見たと言っても笑い話の類にされてしまうだろう。そしてそんなことを本気で言っているのなら、かなり多くの人にとって、MNEMOというのは、Kというのは、<ヤバい>ヤツだと思われかねない。私もKも、高3の時のその経験を再現などできはしない。
前述の東北大教授は、望遠鏡の発明が大きかった、というようなことを言われていた。それからの「コペルニクス的大転換」は実証主義をもたらしていく。私の大学生時代、英文学の授業であってもForbes教授(神父でもあった)は頻繁に「Prove it」と言われた。自分の説を裏付けろと。だったらForbes先生もこの時代に相応しい神の存在証明をなさってください・・・とは言わなかったが。
What is essential is invisible to the eye.
サン=テグジュペリの英語訳の言葉に出会った高校生時代、なんだかとても惹かれた。実証などできない、可視化などできないことがこの世を支えている、人間を支えている。それは後に素粒子論などを齧るようになって(本当にほんのちょっと齧っただけ)実証主義の権化である科学だって<絶対に>見えない<もの>を扱っている、扱わざるを得なくなっていることを知ったのだ。
*原子レベルだったら私が高校生の時であっても見えていた。タングステンの原子の写真を見たことがある。
「量子もつれ」などはもう、ちょっと前までの科学だったら荒唐無稽と一笑に付した主題だろう。ほとんど禅問答のような話だ。
神仏は死んでいない・・・私はそう思う。
その「神仏」が「What is essential」そのものだとして。
そして<visible>になることは決してないだろう。
それは永遠に<feelable>なことだろう。
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